Episode4:捕まえる
二時間という制限時間を終え、僕たちは食べ放題の店から続々と外へ出た。
食べて飲んで騒いで、満腹感と高揚感を保ったまま店の前でたむろする。道行く人が迷惑そうな視線を向けて過ぎていくが、少しは大目に見てほしいと勝手に思う。
僕たちはまだ高校生で、しかも今日はクリスマスなんだから、なんて考えてみて、何の言い訳にもなっていないな、と自嘲気味に僕は笑った。
クラスメイト達は、周囲が自分たちに向ける視線に気づいているのかいないのか、この後二次会でどこに行くかを話し合うのに必死だ。
どうせカラオケかボーリングってとこだろう、と熱くなる議論を遠目に見守る。あの騒々しい輪の中で話し合いに加わる気はないけれど、この後どこかへ行くことには賛成だ。せっかくこうして集まったんだから、ここで解散になってしまうのは味気ない。
冷めていると言われがちな僕だけれど、僕なりにこのクラスは好きだし、友達とわいわいすることだって嫌いじゃない。
そういえば遼太郎はこの後どうする気だろうと、僕は隣にいるはずのやつを振り返った。
あの子を誘えなかっただとか誘われなかっただとか、ちょっとした傷心のただ中にいる遼太郎を、このまま二次会に引っ張っていっていじり倒せば楽しいかもしれない。
しかし僕が声をかけようとしたちょうどそのときに、遼太郎は携帯を取り出し開いた。かと思うと、いきなりその口元を緩ませる。
またか、と僕は思う。こんな顔するのはあの子絡みと決まっている。
「なににやにやしてんの。気持ち悪い」
「ん? 見るか?」
「見ねーよ。どうせお前の女王様からだろ」
「女王じゃねーよ! とりあえず俺帰るな」
「は? 二次会は?」
「んなもん行ってる暇はない! 俺は莉子のためにケーキを買わねばならぬのでな!」
「……パシリ」
「言うな! わかってる、でもいいんだよ! じゃーな」
僕のからかいに本気で涙ぐんだ遼太郎は、そのまま走っていってしまった。
どんどん遠くなるその背中をしばらく見送る。あーあ、この後の僕の楽しみがなくなっちゃったよ。
それにしても、あいつも大変な子を好きになったもんだ。よくもまああきらめずに今まで。僕は見えなくなった遼太郎に思いを馳せた。
遼太郎と僕は中学からの付き合いで、やつの思い人であるあの子、栗原さんとも同じ中学だった。
栗原さんは一言で言うなら、美人。二言で言うなら、猫かぶりの暴君。
うっかり遼太郎なんかと仲良くなったもんだから、僕は早々に栗原さんの素顔を知ることになってしまった。勿体ないことをしたと今でもこれは悔んでいる。
本性さえ知らなければ、僕も栗原さんに優しくしてもらえたのに。
しかしまあ、つくづく遼太郎の趣味はわからない。僕ならもっと大人しくて可愛らしい子を選ぶな。からかい甲斐があって、僕に翻弄されてくれるような女の子。
うちのクラスも高校も、どうしてか女子は肉食系ばかりだから僕にとっては残念極まりない。
そう思って、未だ二次会でどこに行くか騒ぐクラスのやつらを眺める。直前まで考えていたこともあって、なんとなく女子ばかりが目に付いてしまう。
と、一人の女子が目に留まった。
田辺杏奈。
落ちつかない様子で周りを伺い、時折駅ビルの方へちらちら顔を向けている。
なんとなく皆が輪になっており、その中心へと注意を向けているので、彼女のその行動はとても目立っていた。
なかなか結論が出ないことに退屈していた僕は、そっと彼女の側に近寄った。背後からとんとん、とその背中を叩く。
「ひゃ」
「何見てんの、田辺さん」
「よ、吉川くん」
びっくりしたー、と彼女は目をいっぱいに開いて僕を見上げた。彼女は背が低いので、頭のてっぺんがようやく僕の肩に届くくらい。
周りの喧騒にまぎれないように、僕は少しだけしゃがんで彼女に目線を合わせた。
「さっきからさ、何か駅の方気にしてない? 何か見えるの?」
「駅っていうか、観覧車を」
「ああ」
言われて背後を振り返った。ライトアップされて刻々とその色を変える観覧車がすぐに目に飛び込んでくる。
綺麗だから見ていたってことだろうか。それにしては何かに焦っているという感じがしたけど。
再び田辺さんに向き合って僕は問う。
「乗りたいの?」
「乗りたいっていうか、あの、ちょっと欲しいものがあって」
欲しいもの?
更に僕が首をかしげると、田辺さんはコートのポケットから携帯を取り出した。そこについているストラップを僕に見えるように腕を伸ばして掲げてくれる。
「あの、このキャラの限定グッズが貰えるんだって。今日観覧車に乗ると」
「へえ。このキャラ好きなんだ? うさぎ?」
「うん、そうなの」
花が綻ぶように田辺さんは笑った。でもすぐにその笑顔がしぼむ。
腕を下げて、彼女はストラップのうさぎをそっと撫でた。
「乗りに行かないの? 欲しいんでしょ、グッズ」
「あーうん。そうなんだけど」
歯切れ悪くそう言うと黙ってしまった。
何だろう、すごく焦らされてる気分になるな。
すっかり興味を魅かれて、僕は田辺さんに催促した。
「何、気になるじゃん。教えてよ」
「……貰えるのカップル限定なんだ。わたし、彼氏とかいないし、今日せっかく駅前で集まったんだから、クラスの誰かにお願いしようと思ったんだけど」
そこで一旦言葉を止めて、彼女は盛り上がっている方を見つめた。
「みんな楽しそうだし、こんなことお願いして一緒に抜けて行ってもらうの申し訳ないし。後、今日クリスマスだから、変な勘違いされちゃったらやだなあって、思って」
携帯をポケットにしまいながら、田辺さんは困ったように視線を下げた。
あーまあねえ。クリスマスに一緒に観覧車行って、なんて意味深だよねえ。
そっかーと相槌を打ちながら、僕はクラスメイトに視線を走らせた。女子に誘われたらほいほいついて行きそうで、尚且つ盛大に勘違いしそうな野郎供には心当たりがありすぎる。
ただでさえ大人しい田辺さんが、そんなふうに誰かを誘うことがもう異常事態だ。まさか自分のことを好きなのかも、なんて勘違いしてもそいつに罪はない。
ふっと僕は気づいた。クラスの男子って、つまりはそれ、僕でもいいんじゃない?
「僕と行こうか」
僕は自分で一番爽やかだと思っている笑顔を田辺さんに向けた。
「え?」
「よしじゃあ二次会はカラオケ行くぞー!」
彼女の疑問の声が、クラスのやつらの歓声と重なった。
それを合図にして、周囲はカラオケボックスに向かってぞろぞろと移動を始める。観覧車とは逆方向に一気に人の流れができた。
それに流されないように、僕は立ちつくす田辺さんの手を強引に引っ張る。一瞬つんのめって、田辺さんは僕に引っ張られるまま小走りについてきた。
皆に見咎められないよう、僕は心持猫背になって移動する。僕たちが輪の端っこにいたこともあって、誰にも見つからずに流れから離れて街の人ごみへ溶け込むことができた。
「ほら、行くよ田辺さん。今抜けないと観覧車止まるんじゃない?」
「で、でも吉川くん、みんなと行かなくていいの?」
「いいのいいのー。こっちの方が面白そうだし」
「でも勝手に抜けちゃって大丈夫かな!」
「一応解散してるからいいってば。遼太郎だって帰ったし」
「でも!」
何をそんなに心配することがあるんだろうか。
僕は足を止めると田辺さんに振りかえった。
「グッズ、欲しいの? 欲しくないの?」
「欲しいけど、でも」
「じゃあ僕と一緒に行くのが嫌なの?」
「そんな、嫌とかじゃないけど、それより吉川くんに迷惑じゃないかなって」
「じゃないじゃない。ほら、行くよ」
再び僕は歩き出した。今度は田辺さんの歩くスピードに合わせる。
田辺さんはしばらく後ろを振り返ったり、そわそわと僕を見上げたりしていたけれど、何とかいろんな思いを振り切ったようで今は大人しく前を向いて歩いている。
でも並んで歩いていると、不意に彼女が泣きそうな顔で僕を見上げてきた。
あの、と小さな声が聞こえたので、それに小首をかしげて答える。
「あの、手」
「ん? あ、そっか、ごめんね」
田辺さんを引っ張り出してから、僕たちの手はつながったままだった。
手を離すと、明らかに田辺さんがほっとした表情になる。でもすぐにまた、その顔が強張った。
僕が離した手を再びつないだからだ。もちろん指と指を絡める方法で。
「僕としたことが気がつかなくてごめん。カップル限定を貰いに行くんだから、こうだよね」
「ち、ちがう! そういうことじゃない!」
真っ赤になる田辺さん、かわいいなー。これだけで赤くなっちゃって。
しかもちょっと涙目になってるもんだから、うっかり何かしてしまいたくなる。何か理由をつけてぎゅっとしてみたら駄目かな。
「吉川くん!」
わかっててやってるでしょ、と拗ねたように田辺さんは言った。口がへの字に曲がっている。
あーあ。そんな顔しても逆効果だって教えてあげよう。僕が内心でどんな衝動と戦っているか彼女はわからないんだろうな。
僕はもっと田辺さんを困らせてみることにした。
「慶太だよ、杏奈」
「ええ!?」
「ほら、呼んでよ。今から僕たち、付き合ってる振りするんでしょ」
「うう。そうだけど……」
きっと田辺さんの頭の中では、彼氏の振りを頼んだのは自分だし、とか、でもそこまでしなくても、とか、いろんなことがぐるぐる回ってるんだろう。
その証拠に、田辺さんの目がきょろきょろと落ち着かなく辺りを見回す。
僕はにっこり微笑んで、優しく彼女の名前を呼んだ。
「杏奈」
ぴくんと隣で彼女の肩が跳ねた。そして観念したように田辺さんは僕を呼ぶ。
「け、慶太、くん」
「くんはいらない」
「……けいた」
「よくできました」
つないでいない方の手で田辺さん、いや、杏奈の頭を撫でる。
と、さすがにやりすぎたのか、杏奈はぷいとあちらを向いてしまった。
「からかうのはやめてください」
「ごめんごめん。杏奈がかわいくて」
そう言うと、急に振り返って杏奈が僕を見た。みるみるその頬が染まっていく。
「そういうのがからかってるって言うんです」
「本音なのに」
「吉川くん、意地悪するのやめてください」
「杏奈こそ敬語はやめてください。あと、吉川くんじゃなくて慶太だってば」
あー楽しい。やっぱり杏奈についてきてよかった。
ぷくりと可愛らしく頬を膨らませている杏奈を見て心からそう思った。
僕はご機嫌でつないでいる手を前後に揺らす。
「慶太、がこんな性悪だなんて知らなかった」
杏奈が小さく呟いたのが聞こえて、僕は大げさに肩をすくめた。
けいた、と一つ一つの音を区切って呼ぶのが、精一杯の反抗なんだろう。むず痒い気持ちが背筋を駆け上がる。
「ひどいなあ、性悪だなんて」
「もっと優しい人だと思ってた」
「えー優しいでしょう。今だって」
「なんか違う。優しさの意味が違う」
杏奈の眉間にしわが寄った。そんな顔しても駄目だよ。
思わずその眉間に指が伸びそうになって、慌ててその手を自分の頭に持っていく。
少し落ちつこうと髪の毛をぐしゃぐしゃして、話題を変えた。
「僕も杏奈のこと全然知らなかったんだなあと思ってる、今」
「わたし?」
「そう。今日初めて知ったことばっかり。うさぎが好きとか、グッズのためにいきなり男子を誘おうと考える度胸があるとか」
「度胸はないよ! 吉川くんが声かけてくれなかったらきっと諦めたと思うし」
早口になって杏奈が言った。
あー、せっかくさっき教えたのに、呼び方が吉川くんに戻ってる。これはお仕置きしないとだな。
「あと、照れた顔がかわいいとか、怒った顔がかわいいとか、すぐ真っ赤になるのがかわいいとか」
尚続けようとすると、こらえきれないように杏奈はそっぽを向いた。表情は見えないけれど、その声が怒ったようにきつくなる。
「だから冗談はやめてってば。吉川くん、みんなにそんなこと言ってるんだ? 知らなかった」
何でいきなり怒ったのかわからない。照れた顔をもっと見たいと思っただけなのに。
慌てて僕は弁解した。
「みんな? そんなわけないじゃん。初めてこんなこと言ってる。杏奈にだけだよ」
「……わたしが本気にしたらどうするの。やめて」
ぽつり、とこぼれた杏奈の声があんまり寂しそうで、僕の口から咄嗟に言葉が滑り出た。
「本気にしたらいいよ」
「え?」
杏奈が振り返る。その目は大きく見開いていた。
自分でも言うつもりのなかった言葉が出て、僕は急いでおどけてみせた。なるべく軽く聞こえるように意識して話す。
「なんてね。ごめんごめん。調子に乗りすぎましたー。ていうか、吉川くんって言ったでしょ、さっき」
僕の言葉を聞いて、ほっと杏奈が息を吐く。そこに少しだけがっかりしている気持ちを読み取るのは、僕の自意識過剰になるのかな。
自分でもびっくりするぐらい杏奈にかまいたくてしょうがない。今日まで単なるクラスメイトの一人に過ぎなかったのに。すれ違えば挨拶を交わす程度の、他愛のない、その他大勢の内の一人の女子だった。
でも今は杏奈と話すごとに、杏奈が反応を返してくれるごとに、どんどん彼女に惹かれていた。
空気を変えようとおどけてみせたことは上手くいかなかったみたいだ。何となく気まずさを抱えたまま、僕たちは黙って観覧車へと向かった。
変わらず手をつないでいるけれど、さっきより杏奈との距離が開いたように感じる。
ときどき杏奈の方に目を向けてみるけれど、杏奈は一心に前だけを見つめている。
そしてようやく観覧車乗り場が見えてきた。杏奈に聞こえないようにほっと息を吐く。
これで少しはこの気まずい空気も変わるかもしれない。
近づいて行くと、チケット売り場の小さな建物から女の人の声が聞こえてきた。
「まもなく営業終了しまーす! お乗りになる方はいらっしゃいますかー!」
「はーい、乗りまーす!」
腹から声を出して叫ぶと、杏奈が驚いたように僕の手を握った。
行こう、と声をかけ、その手を今までより強く握って走り出す。杏奈は一瞬転びそうになりながら、それでも僕について走ってくれた。
乗り場にたどり着くと、駆けこんで来た僕たちにお姉さんが嫌な顔一つせずにチケットを渡してくれる。
窓口には「クリスマス限定」と書かれたうさぎのグッズのポスターが掲示されていた。
お金を払ってお釣りを受け取る。その間、杏奈は隣で何度も物言いたげな顔をしていたが、タイミングを計りかねているようで結局その口は開かない。
とうとうお姉さんにいってらっしゃい、と笑いかけられる。それを聞いて杏奈の顔に焦りが浮かんだ。あ、と言いかけ、やっぱり不安そうにその声を飲み込む。
そんな杏奈を見ていて僕はあやうく吹き出す所だった。何とかそれをこらえると、お姉さんに話しかける。
「今日観覧車に乗るとグッズが貰えるって聞いたんですけど、まだありますか?」
「ああ、ありますよー。少々お待ち下さいね」
お姉さんが奥へ入ったのを確認して、こらえるのを止めて小さく吹き出した。
「なんで笑うの!」
「いやー。杏奈、全部顔に出てたから」
「だって、やっぱり付き合ってるように見えなかったのかな、とか、グッズなくなっちゃったのかな、とかいろいろ考えるじゃん!」
「お待たせしました」
杏奈は拳を握って力説していたが、その声にぱっと口を閉じた。
お姉さんが窓口から両手を差し出す。その手にあったのは一組のキーホルダーだった。
杏奈は目をきらきらさせながらそれを受け取った。本当に大事そうにそれを胸に抱え込む。
「それではいってらっしゃい」
「いってきまーす」
胸元に寄せたキーホルダーを嬉しそうに眺める杏奈の手を引き、ゲートをくぐった。
終了間際にやって来たのは僕たちだけだったようで、待ち時間もなく観覧車に乗ることができた。
杏奈がぼんやりしているのをいいことに、迷わず杏奈の隣に座る。さすがにくっつくのはどうかと思い、拳一つ分を二人の間に空けた。
さっきまであった気まずさはとりあえず解消された、と思いたい。杏奈が内心どう思っているかはともかく、キーホルダーを貰えたことで表面上はとっても機嫌よく座っている。
と、杏奈が口を開いた。
「カップル限定って言ってたけど、あっさりくれたね」
「まあそんなもんでしょう。それとも何かそれっぽいことした方がよかった?」
声がもう怒っていないことに安心して返事を返す。
調子にのった僕は、つないだ手を離して杏奈の髪を掬いあげた。さらさらの黒髪を指先で滑らせて遊ぶ。
「いい。しなくていいよ!」
慌てて杏奈が体を引いた。杏奈が顔を背けるのに合わせて、僕の手から髪が零れ落ちた。
杏奈は観覧車の外を見ながら、僕が離したばかりの手をぎゅっと握りこんでいた。
また変な空気にしちゃったかな、と少し反省する。でもそれよりも、うっかり杏奈の手を離してしまったことが気になる僕はどうしようもないな。
もったいないことをした、と心の中だけで溜息をつき、杏奈の横顔を見つめた。少し紅潮している頬が黒髪の間からうっすらと見える。
視線を少しずらせば、その向こう側の窓から、どんどん小さくなっていく街が見下ろせた。
「うわー綺麗だね」
窓の外に釘付けになって、うっとりと杏奈が言う。
「結構すごいな」
街の明かりが点々と散っていて、素直に綺麗だ、と思った。
杏奈はしばらくその景色に見惚れていた。ガラスぎりぎりにくっついて覗き込む後ろ姿を、僕は微笑ましく思う。でもちょっとは僕の方も向いてほしいんだけど。
観覧車が頂上を過ぎた頃になると杏奈も夜景に見慣れたようで、ガラスにひっつくのを止めた。きちんと席に収まると、満足そうにふわりと笑う。
それからはっと何かに気づいたようで、胸に抱えていた腕を外した。その様子を見守っていると、ごそごそと袋を開け、僕の方に手を差し出した。
「あの、これあげる」
「いいの?」
杏奈が渡してきたのは貰ったばかりのキーホルダー。の、半分だった。
「今日のお礼です」
恥ずかしそうに少し上目遣いに僕を見る。きょとんとして僕は杏奈を見つめ返した。
「これ欲しかったんでしょ?」
「うん。でも二つあるから」
そう言った後で、杏奈は何を思ったのか慌てて手を引っ込める。
「あ、でもわたしとペアとか嫌だったら……」
「なんで? いいじゃんペア。今日からつけよーっと」
焦ると早口になるんだな、と思いながら僕は杏奈の手からキーホルダーを取り上げた。
杏奈がくれたのは、彼女の携帯についていたのとは別のキャラクターのようだった。黒くて耳の長いウサギ。そのウサギが、ひらがなの「し」を逆にしたような形の赤い棒を持っている。
ペアのキーホルダーってことは、この棒みたいな部分でくっつけるんだろうか。
「これくっつけたら何か形になるの?」
僕にとって単純な疑問だったから聞いたのだけど、杏奈はそれに過剰に反応した。
「な、内緒」
言いながら、もう片方のキーホルダーを僕から見えないように隠し持つ。
これは何かあるな。
僕はずい、と杏奈に近寄った。
「言えないような形なわけ?」
「そうじゃないけど」
杏奈は近づいた分だけ向こうにのけぞった。僕は更に身を乗り出す。
「じゃあ言って」
「い……いやだ」
「あ、そ」
手を伸ばして杏奈の分のキーホルダーを奪った。杏奈の手が届かないように、すぐにそれを頭上に掲げる。
杏奈は届かないことをわかっているだろうに、諦めずに僕の頭上へと手を伸ばす。そんな健気な杏奈をよそに、僕はキーホルダーを繋げた。
出来上がったのはハートの形。
「ハートだ。かわいいじゃん。何で内緒って言ったの?」
「え、だって、いかにもって感じじゃん」
「らぶらぶです、ってこと?」
意地悪く笑うと、杏奈はぶんぶんと首を横に振った。
「べ、別に他意はないからね! 本当にお礼の気持ちであげただけだからね!」
「そこまで否定しなくてもさー」
その必死な様子に、本気でちょっとへこむ。今情けない顔になってるかもしれない。
杏奈は僕を見て、はっとすると口をつぐんだ。
「あ、ごめん」
「まあいいけど。杏奈とペアって自慢しようかなー」
「もう、またからかう!」
キーホルダーをつなげたまま頭上で振る。ハートが僕をからかうように揺れた。
他意があっても全然いいんですけどねー、杏奈さん。
口には出せずに胸の中だけで呟く。
観覧車は大分下まで降りてきていた。
「あのさあ、杏奈」
「吉川くん、もう杏奈って呼ばなくてもいいよ。これ、貰えたんだし」
これ、と杏奈は未だ僕の手の中で弄ばれているキーホルダーを指差す。
僕には非常に面白くない提案だ。杏奈を見ずに僕は言った。
「僕に呼ばれるの嫌?」
「嫌、じゃ、ないけど」
隣で杏奈が俯いたのがわかった。
嫌か嫌じゃないかを聞くなんて、僕も意地悪だなあ。
「じゃあこれからも杏奈って呼ぶー」
ハートを指で弾いて僕はにんまりした。押しに弱いのは杏奈の愛すべきところだ。
「杏奈も慶太って呼んでよ」
さっきからまた吉川くんに戻っているのが不満で、僕は杏奈に要求する。まあ答えは分かりきっているのだけれど。
「そ、れは無理かな。心臓的に」
「ふーん?」
心臓的に、ね。
僕は杏奈にキーホルダーを返した。受け取りながら、杏奈は恨めしそうに僕を見上げる。
「慶太くんモテるんだよ? 気づいてると思うけど。わたしが慶太って呼んだら、いろんな子に勘違いさせるかもしれないし」
だから、無理。と杏奈はだんだん小さくなる言葉を締めくくった。
杏奈、それは僕のことを名前で呼びたいって言ってるようにしか聞こえないんだけどなあ。
「杏奈はさ、周りを気にしすぎだと思う。呼びたかったら呼べばいいのに。僕がいいって言ってるんだし」
「そうかな……って呼びたいって言ってないよ、わたし!」
「あはは。ひっかかってる」
またもや杏奈は真っ赤になる。ああ、好きだなあとその顔を見ながら思った。
すぐにまた慶太って呼ばせてあげるよ、杏奈。僕はもう杏奈を逃がす気なんてないんだから。
観覧車はいよいよゴールが近い。あっという間だったなあ、と思いながら随分近くなった地上を眺める。
その先に係員が僕らを降ろそうと待ち構えている。それを見て、僕は観覧車に乗ってからずっと悩んでいたことの解決策を思いついた。
「降りるときに見られるだろうし、もう一回手つないどく? それとも腕組んだ方がいい?」
「手で! ぜひ手の方でお願いします!」
かくして僕は再び、杏奈の手に指をからませることができたのだった。
満足してぎゅうっとその手を握る。杏奈はやっぱり恥ずかしそうで、少し悔しそうで、ぎゅっと唇を一文字に結んでいる。
いよいよ二人きりの空間ともお別れだ、と考えて、僕は大変なことに気がついた。観覧車と言えば、さあ。
「あーそうだ。杏奈、今日の観覧車は予行演習だからね。覚えといて」
「予行演習? もう一回乗りたいの?」
そうだよ。だって観覧車って中でキスする乗り物でしょう? ね、杏奈。
長いわりには中身があんまりなくてすみません!!
もう少し続きます。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。