Episode2:びっくりする
クリスマスとあって、店の前の人通りもいつもよりずっと多い。
私、栗原綾子は最後の一枚になったクリスマスケーキの予約票を指先で弄びながら、手持無沙汰にその人通りを眺めていた。ショーケースの上に片腕を伸ばし、その上に右頬をくっつけるという体勢で、である。傍目には仕事中とは思われないような姿だという自覚はあるが、もう少しだけと唱えて束の間の休憩を取っている。
さすがクリスマスというべきか、つい十分程前まではこの小さなケーキ屋にもケーキを求めるちょっとした列ができていた。予約のケーキを取りに来る人、ピースのケーキを何種類も選ぶ人など様々で、しかもそのすべてを一人で接客していたのだ。
いつものごとく店長の松本さんはこの忙しさに気づいているだろうに、ちっとも手伝う気配がなかった。厨房にこもったまま、追加のケーキを焼いているのか、それともゆっくりコーヒーでも飲んでいるのか。あの人はどこか周りの空気を読まないちょっとアホなところがある、と私は常々思っている。
あの中年オヤジ……なんて三十代前半の松本さんを心の中で毒づきながらも、この店のたった一人の店員として私は仕事をこなしたのだ。これくらいの休憩は大目に見てほしい。
「それにしてもこの最後のケーキ、早く取りに来てくれないかなー」
私はちらりと横目で伝票を見た。予約の時間は午後六時。現在時刻は午後六時二十分。
このケーキは少し、というかかなり印象的な注文で、だから注文した人物もよく覚えている。若い、大学生くらいの男の子で人懐こい笑顔が素敵だった。いつも身近に見る男の人が松本さんだけだから、その若さに少しきゅんときたりして。若いといっても多分私と二、三歳しか変わらないんだけどね。
私は再び目を通りの方に移した。と、右側から走ってくる黒いコートに気が付く。もしかしてと思い、慌てて体を起こすと私は営業スマイルで待ち構えた。
「すみません、遅くなりました」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
入口につけられている鈴の音を鳴らしながら入ってきたのは、やはり最後のケーキの主だった。どのくらい走ってきたのか、少し息が乱れている。
「中村様でよろしかったでしょうか」
「はい」
彼は手袋を取りながらこちらに歩み寄る。私は彼のケーキを取り出すと、それをショーケースの上に置いて彼に見せた。
「ご注文はショートケーキの四号ですね。プレートの文字はお間違いないでしょうか」
「はい、大丈夫です」
文字を読む中村さんの口元が緩む。それを見て私もくすぐったい気持ちになった。
中村さんのことを覚えていたのは、ひとえにこのチョコプレートが原因である。彼は愛を伝えるメッセージと女性の名前を書いてほしいと注文していた。彼氏いない歴一年ちょっとの私には非常に羨ましい限りである。
「それでは箱にお入れしますので、もうしばらくお待ちください」
にっこり笑ってそう告げると、彼もにっこりと笑い返してくれた。こんな素敵な子の彼女って一体どんな子なんだろう。興味が湧いた私は誘惑に負けて、ケーキを箱に入れラッピングしながら彼に話しかけていた。
「こんなケーキ貰ったら、きっと彼女さん喜びますね」
「え?」
驚いたような彼の声に顔を上げると、彼は困った表情を浮かべていた。慌てて私は言い繕った。
「あ、すみません。I Love Youってあったので、てっきり彼女さんへのケーキだと」
「あ、いえ、彼女じゃないんです。まだ」
まだ、と言いながら中村さんは悪戯っぽく微笑んだ。なるほどね。そういうわけ。
「いいクリスマスになるといいですね」
「はい、がんばります」
あー羨ましい! 私もこんなケーキ贈ってほしい!
心の中で叫びながら、私は彼にケーキを渡した。お金は前払いで貰っているのでそのまま彼に頭を下げる。
「ありがとうございました。またお願いしますね」
「あの、お金は?」
「前払いで頂いておりますので、そのままお持ちください」
不思議そうに尋ねてくる中村さんにそう告げると、彼は焦ったように頭をかいた。
「そうでしたね、すみません。俺、緊張してるみたいです」
「応援してます。今度はぜひ彼女さんと一緒にいらしてください」
「はい! ありがとうございました」
「ありがとうございます」
ちりん、と軽く鈴を鳴らして中村さんは出ていった。その背中を見えなくなるまで目で追いかける。
うまくいったらいいね。
私はにやけてしまった口元を何とか引き締めると、一度頬を押さえて気持ちを入れ直した。
最後のケーキも渡したことだし、そろそろ閉店の準備をしなければ。
彼が出ていったばかりの入り口ドアを開けると、私は軽く周囲を見回して店に向かってくる人がいないことを確認する。少し顔を出しただけだというのに、外の寒さが身に染みた。手早く店の前に出していたボードを回収し、私は店内からドアに鍵をかけた。次いで店の照明も一段階落とす。
そこであらためて店内のショーケースを見ると、あんなに人が来たにも関わらず売り切れになった商品はやっぱり一つもない。
これは別にこの店が不人気だから売れ残ったというわけではなく、店長である松本さんの方針だ。松本さん曰く、『せっかくのクリスマスなのに、好きなケーキがなかったら悲しいじゃん? それにどんどん売り切れてケースが空になると寂しくなるから嫌だ』
そういうわけで、松本さんの思惑通り、ショートケーキにチーズケーキ、タルト、チョコレートケーキ、モンブラン、プリンなど全ての商品が三、四個ずつ今もケースの中に残っていた。
それを見てにんまりと私は口角をあげる。
残ったケーキは持って帰ってもいい、というのがこの店で働くときに松本さんと取りつけた約束だ。けれどこの店は、普段はすべてのケーキが売り切れることも珍しくない。つまりクリスマスは、私がケーキを持って帰ることのできる絶好のチャンスというわけだ。
松本さん自体はおいておくとして、私は松本さんの作るケーキが大好きだ。そもそもこの味に惚れてこの店で働き始めたのだから。
そういうわけで、私は一番大きな箱を取り出すと、嬉々としてそこにケーキを詰め始めた。家では私と同じくこの店のケーキが大好きである高校生の妹が、私とケーキの帰りを待っているはずだ。
まあ一人四個は軽いわね、と思いながら全種類のケーキを丁寧に詰め込む。明日はお休みを貰っているから、もちろん明日食べる分のことも忘れない。
そうして満足いくまでケーキを吟味して箱に入れた私は、空になったショーケースの電源を落として片付けることにした。店内を綺麗に掃除して、レジのお金もきっちりしまう。
もういいかな、と思ったところで時計を確認すると七時半近くになっている。時間を見て、そういえば今日は松本さんが厨房から出てこないな、と思い出した。
ケーキを持って帰れる嬉しさですっかり松本さんのことを忘れていた。
私はそっと厨房に通じるドアをノックした。
「松本さん? 入りますよ?」
「待った、ちょっと待って綾子ちゃん」
「私早く帰ってケーキを食べたいので待ちません。というわけで開けさせてもらいます」
「じゃあ五秒、五秒でいいから待って!」
いつになく松本さんは慌てている様子だ。
私ばかり働かせておいて、一体何をしてたっていうんだろう。場合によっちゃ文句の一つも言ってやって、どさくさに紛れてお給料も上げてもらおう。
というわけで、私は五秒を数えるとドアを開けて厨房に入った。
「もう五秒? まだ全然できてないよー」
ドアの向こうでは松本さんが焼き立てのケーキを持って立っていた。
それだけじゃない。作業台の上にも三種類のケーキがのっている。全部見たことのないケーキだ。
「どうしたんですか、これ」
「よくぞ聞いてくれました! 松本聡の新作ケーキでーす!」
松本さんはご機嫌で、持っていたケーキを三種類の横に並べた。素早くケーキクーラーの上に移して、私に向かってそれらを順に指し示す。
「まずこれ。レアチーズケーキなんだけど、中にホワイトチョコとベリーのソースを入れてみました。イメージは雪の妖精ね。てことでデコレーションは粉砂糖をたっぷり。それで次が」
「ちょ、待ってください」
「聞きたくないの? 全部自信作なんだけど」
思わず言葉を遮ると、目に見えて松本さんがしょんぼりする。どうしてそんな捨てられた犬みたいな顔するんですか。あなた本当に三十過ぎてるんですか。
「聞きたいか聞きたくないかというと聞きたいです! そして全部食べたいです! でもそうじゃなくて、どうして今になって新作ケーキができてるんですか!」
「だめなの?」
「どう考えても、新作出すならクリスマス前でしょう! 時期、時期を考えてください!」
クリスマス前に新作が出れば、当然お客さんはそのケーキを選んだはず。そして売り上げも伸ばせたはずだ。この店がそこそこ人気の店だとしても、そういう努力を惜しんではいけない。この店が潰れるところなんて私は見たくないのだ。
興奮している私を松本さんはきょとんとして見つめてくる。あーもうこの人わかってんのかな、本当に。
松本さんは私の言いたいことが伝わったのかどうなのか、呑気に顎先を撫でると頷いた。
「そういうことか。クリスマス前に出して売上アップを狙いたかったわけね、綾子ちゃんとしては」
「そうです! 松本さんは何を考えて今更新作を作ってたんですか? もしかしてずっとこもってたのはこれ作ってたから?」
とりあえず言いたいことは伝わったらしい。けれど松本さんはそれがどうかしたの、というようにどこか他人事みたいな顔をしている。
「だってこれクリスマス関係ないもん」
「もん!?」
「これは綾子ちゃんのためのケーキ」
「私?」
私のためのケーキ、ってどういうこと?
わからなくて松本さんを見ると、松本さんは照れていた。
「綾子ちゃんがうちに来てからもう一年でしょう。随分頑張ってくれてるし、何かお礼をしたいな、と思ってね。でも僕にはケーキを作るしかできないから」
「そ、それはありがとうございます」
松本さん、そんなふうに思ってくれてたんだ。呑気で空気読めなくて何考えてるのかわからない、と思ってたけど、こんなふうに私を認めてくれてちょっと嬉しいかも。
「じゃあケーキの説明してもいい?」
松本さんが犬だったら絶対今ちぎれそうなくらい尻尾を振っている。そんなに私にケーキを説明したくてたまりませんか。まあ、私も聞きたくてたまりませんが。でも松本さん、まだ「まて」ですよ。
「私が新作を一番に食べれるのは嬉しいです。でも今四個も新しいケーキができるんだったら、やっぱりクリスマスに間に合わせるべきでしたよ。お客様だって松本さんのケーキを楽しみにしてるんですから、松本さんが私のために新作をとっておいてくれたんだとしても、それは間違ってます。この店の店員よりも、松本さんはお客様のことを一番に考えるべきです!」
「綾子ちゃんはそんなにこの店のこと考えてくれてたんだねー」
「松本さんがちゃんとしてないからです!」
しみじみと呟く松本さん。あーもう、絶対私の気持ちの三分の一も伝わってない。
どうしてこんなぼんやりした店長が、あんなに繊細なケーキを作れるんだろう!
私が思い切り呆れた顔をしてみせても、松本さんはそれを気にする様子もない。どころか更ににこにことしているじゃないですか。松本さん、今私ちょっと怒ってるんですよ。
「まあ、新作をとっておいたのは下心があるからなんだけどね」
「え」
「胃袋で掴めっていうじゃん?」
「は」
下心、ですか。話の流れ的には、それって私に対してってことですよね……?
嘘でしょ、松本さん。
「最後に説明しようと思ってたけど、ここまで言ったからもう言っちゃうね。このケーキ」
松本さんはさっきケーキクーラーに移した焼き立てのケーキを指差した。
「アヤコって命名した、僕の作れる最高のチーズケーキ」
「あやこ?」
「そう。綾子ちゃん、チーズケーキが一番好きでしょ。綾子ちゃんのための、綾子ちゃん好みの特別なケーキだよ」
松本さんはそう言いながらケーキを切り分けて私に差し出した。切り口からもどれだけなめらかなケーキなのかがよくわかる。
思わずそれを受け取って、次いで渡されたフォークを握りしめた。ごくりと生唾を飲み込む。
まずは三角形のケーキの先端を切り取って、私はそれを口の中に入れた。
「おいしー!」
私の大好きなベイクドチーズケーキ。チーズの濃厚な味がして、甘すぎず、かといって物足りなすぎず。後味はさっぱりとしているけれど、次の一口がたまらなく恋しくなる。
私はどんどんケーキを食べていった。これで紅茶かコーヒーがあったら本当に最高!
「はい、紅茶」
「ありがとうございまふ」
松本さんが出してくれた紅茶を片手に、私はケーキをすべて食べてしまった。思った通り紅茶にもよく合う。こんなに美味しいチーズケーキは食べたことない。
感動して松本さんを見つめると、松本さんはにやりと笑った。
「綾子ちゃんのためだけに作ったんだから当然でしょ。愛だってこめまくったし」
愛、という言葉にはたと思い出す。そういえばさっき下心なんとかって言ってなかったっけこの人。ケーキに夢中になっていた私は途端に耳が熱くなった。
「松本さん、下心とか愛とか、その、本気で言ってるんですか」
「本気も本気。だって、こんな可愛い女の子が僕の作ったケーキを大好きだって熱く語ってくれて、店のことも本気で考えてくれて、そんなの好きになるに決まってるじゃん」
「い、いつから?」
「初めて会ったときから」
「うそだ!」
「本当だって」
「だってそんなふうに今まで見えなかったです!」
「そりゃあそんなふうに見せてないもん」
もん、って。もんって、何かわいこぶってるんですか松本さん。何でこんなにあたしが照れないといけないんですか松本さん!
「あ、もしかして綾子ちゃん年上だめな人?」
「いや、別にだめとかないですけど」
「じゃあ問題ないね」
思わず正直に答えてしまったけれど、大丈夫か私。外堀を埋められている気がしてならないんだけど。
「問題ないねってどういう」
「僕のケーキは好き?」
「はい、大好きです」
「この店は好き?」
「好きですね」
「じゃあそれを作ってる僕のことも好きってことでいいんじゃないの」
「よくないです!」
「冗談冗談」
松本さんは右手で口元を押さえながら、ずっとにやにや笑っている。
私は未だに手に持っていた皿とフォークを置くと、松本さんにじと目を向けた。
「私もう帰りますからね! お疲れさまでした!」
「え、綾子ちゃん帰っちゃうの?」
「妹が私とケーキの帰りを待っているので」
「じゃあこのケーキ食べてかないの?」
しょんぼりした声が聞こえて、私はドアに向かっていた足を止めた。そうだ、あと三種類新作があるんだ。
「さっき言ったレアチーズと、ロールケーキとタルトタタン。べイクドチーズもまだ残ってるよ」
食べたい。食べたい食べたい食べたい。だって松本さんの作ったケーキ。しかも新作。
松本さんの顔とケーキを頭の中で天秤にかけたけれど、天秤はあっさりとケーキの方に傾いた。
「食べてから帰ります」
振り返ってあたしはきっぱり宣言した。その瞬間の松本さんのしてやったりな顔といったら!
手のひらの上で転がされているのはわかっていたけれど、でもしょうがないじゃない。食べたいものは食べたいんです。
「食べたらすぐ帰ります」
厨房の壁際に寄せてあった丸椅子を抱えて私は作業台の側に座った。松本さんは私の前で次々とケーキを切り分けながら、私に向かって眉をしかめる。
「えーゆっくりしていきなよ」
「しません!」
「だって好きでしょ?」
「べつに松本さんのことなんか好きじゃないです!」
言ってしまってからあれ、と思った。松本さんも、え、という形で口を開いている。
「ケーキが好きでしょ、って意味でいったんだけど」
「い、今のは」
松本さんは私の皿にレアチーズをのせると、ナイフを丁寧に拭いて作業台に置いた。作業台に両手をついてその上に顎をつけると、真向かいに座った私を上目で見つめる。
「ねえ、綾子ちゃん結構脈ありでしょ」
「いただきます」
私は急いでレアチーズを頬張った。松本さんはまだ私の正面にしゃがんでいるけれど、絶対目を合わせたりしてたまるもんか。一心不乱にケーキだけを見つめて食べた。
「紅茶のおかわり入れるねー」
すっと立ち上がって、松本さんは私の視界から消えた。
ほっと息をつくけれど、どうにも気持ちが落ち着かない。ケーキ、ケーキのことだけ考えるんだ綾子。全部食べて、そしてさっさと帰ろう。うん、そうしよう。
松本さんが戻ってきて、ことんとティーポットを置いた。そのとき、オーブンがピーっと甲高い音を立てた。
え? これって焼き上がりの合図、だよね。
「おーできたできた」
「何ができたんですか?」
「新作ケーキ」
は? まだあるの?
「綾子ちゃん食べてくれるでしょ」
「え、いや私は」
「食べてくれないの?」
松本さんはまたしてもしょんぼりする。うう、そんな顔しないでください。
絶対、絶対これってわざとなんだ。騙されるな綾子。
「綾子ちゃんに食べてほしくて考えたのに」
「……食べます」
あと一個増えたところで帰る時間はそれほど変わらない。それに考えてみたら、松本さんの新作ケーキをこんなにたくさん食べれるなんて贅沢なことだ。全部美味しいし、タダだし、紅茶もついてくるし!
オーブンを開けてケーキを取りだすと、松本さんはこちらへ戻ってきた。にこにこと楽しそうに私を見ているけれど、その目の奥が怪しく光った気がした。
なんか、ロックオン、って感じ。すごく嫌な予感がするんだけど。
「よかったー。あと二種類ももうすぐできあがるから、それも食べていってね」
「え!」
「ね?」
妹よ、姉とケーキはまだ帰れないみたいです。