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散る花咲く花

作者: やしろ



 ヴァイオラとフィドルは昔なじみだ。

 父親同士が旧知の友であり、両家の交流は幼い頃からあった。しかし、その物理的距離は馬車で三十分ほど、心理的距離は決して近いとはいえなかった。そのため、頻繁に会ってはいたが幼なじみという単語はどうにもしっくりこなく、二人は自分たちの関係をそのような言葉で表す気にはなれなかった。

 ヴァイオラの父が彼女を連れてフィドルの父を訪ねる、というのが基本形だ。お人形もアクセサリーもおままごとセットすらないフィドルの屋敷。ヴァイオラが退屈を覚えたとて幼い少女を責めることはできない。

 また、フィドルは優しげな少年ではあったが、少女の扱いを心得ているとはいえなかった。一人娘でわがままいっぱいに育ったヴァイオラにとって、許しがたい態度をとることもしばしばだったのだ。

 ――さて、そんな二人に転機が訪れる。

 ヴァイオラが十九、フィドルが二十一の年のごく暖かな小春日和の朝であった。

「おまえたち、婚約してしまいなさい」

 二人を前に、彼らの父親たちはあっさりと言い放った。

 聞けば、前々からそのつもりで両家の交流を温めていたのだが、二人の関係が一向に進展しないために一度は諦めたという。しかし、ヴァイオラは引く手あまたの割には相手を一人に決められずいまだ独り身、フィドルは積極性がなく強引な押しの一手に欠けるためいまだ独り身。お互い婚約者ぐらいいてもいい歳である。

 じゃあやっぱり二人をくっつけちゃおうじゃないかねという話になったそうなのである。

 ヴァイオラは軽くめまいを覚えた。なぜにこんな誠実さだけが取り得の軟弱ものと婚約せねばならないのかと。

 フィドルは一瞬気が遠くなった。こんな高飛車たかびしゃなお嬢さんを嫁にもらえば先の苦労は目に見えている。

 そして二人は共謀することにした。

 婚約を受け入れ、それから解消してしまおうと言うのである。

 一度解消してしまえば、その後はそれ以上うるさくは言われないだろう。無理やりの顔合わせも自然となくなり、お互い無駄な時間を過ごさずともよくなるというわけである。

 いきなりの婚約解消は怪しまれるだろう、まあ様子見三ヶ月ぐらいでよかろうと。

 そんなことを二人で決めた。



 見上げる壁に備え付けた本棚に、びっしりそびえる本の塔。

「はあ、なんて素晴らしいのかしら」ヴァイオラは溜息をつきつつ、挿絵入りの歴史書を一冊引き抜いた。

 ヴァイオラとフィドル、現在の居場所はフィドルの父の書斎である。ただし、人数は二人きりである。父親たちに、あとは若い二人でなんとやらを言い渡されてしまったのである。

 ヴァイオラがこの書斎に入るようになったのは婚約後のこと、それまではほぼ、足を踏み入れたことはなかった。なにしろ、ヴァイオラが父とこの屋敷を訪れるとき、一方のフィドルは挨拶もそこそこに彼らを避けてこの書斎に逃げ込んでいるのが常だったからである。ヴァイオラもわざわざフィドルに会いに行く気は起こさず、自然、この部屋を避けていたのだ。

「ほらヴァイオラ、お茶が入ったよ」

 フィドルは呆れたようにヴァイオラを見ながら、彼お手製の特性ロイヤルミルクティーを乗せたトレイを掲げてみせた。

 フィドルはお茶を淹れたりお菓子を作ったり、庭をいじったりといささか地味な趣味をもてあましている。

 一方ヴァイオラは、教育の賜物、ダンスも楽器も勉強も一通りはマスターしており、いま一番のお気に入りはこの書斎で興味を惹く書物を探すことである。

 そんなことも、二人で過ごすようになってやっと知った。

 ヴァイオラは完璧主義でしょっちゅう人と意見が衝突し、フィドルは場が上手く収まれば御の字の日和見主義である。どちらが主導権を握るのかは明らかであろう。

 こうして二人で過ごすのも、婚約の期間も、期限あるものだとわりきってしまえば、ささいなすれ違いにもさほど腹は立たない。そうして日々は穏やかに過ぎた。

 しかしその関係は、近いうちに壊れることとなる。



 買い物の帰り、ヴァイオラはカラカラと馬車を走らせていた。

 ふと見た窓の外にヴァイオラはフィドルの姿を見た。

 彼はとある屋敷を見ていた。正確には、そこのバルコニーを見つめていた。視線の先には、エレーンという娘がいた。

 ――ああ、そういうことか、とヴァイオラは冷えた頭で思った。

 フィドルが、婚約するほど深い仲の相手をいままでつくらなかったわけ。彼にはれっきとした想い人がいたのだ。しかし、フィドルとヴァイオラの家はそこそこ釣り合いがとれているが、エレーンの家はそれよりも少し階級が高い。仮に二人の仲がなんとかなったとしても、フィドルは婿入りすることになる。一人息子には少々、荷が勝ちすぎている。

 それでも、フィドルは密かにエレーンを想っているのである。思い返してみれば、舞踏会の夜もフィドルは静かに彼女を見つめていたような気がする。ヴァイオラとは正反対の、清楚で内気でたおやかな娘。

 ヴァイオラの性格がもう少し違ったものであったなら、仮の婚約者の叶わぬ恋など笑って流したかもしれない。

 しかし、ヴァイオラのプライドはそれを許さなかった。

 その幾日か後、ヴァイオラは借りた本数冊を抱えてフィドルに叩き返したのだ。

「本は返すわ。婚約は解消よ」

「どうしたんだヴァイオラ、婚約には君も同意したじゃないか」

 フィドルは慌てたが、

「どうしたもこうしたもないわ。あなたほかに想う人がいるんでしょう、馬鹿馬鹿しい。私はねえ、あなたみたいな人にお情けで婚約してもらうほど安い女じゃないわ。たとえそれが嘘の契約であってもね」

 ヴァイオラはふんと顔をそむけてフィドルの屋敷を出て行った。



 幾日経っても、ヴァイオラの気は晴れなかった。

 フィドルに振られるという最大の愚を犯すことなく、彼女のプライドは守られた。もう婚約者のふりをせずともよい。無理に顔を合わさずともよい。こちらから関係を叩き切ってやったのだから、せいせいするのが筋というものである。

 しかし、ヴァイオラを満たしたのは敗北感だけだった。

 フィドルは、確かにヴァイオラの行動に慌てた。でもそれは対応に困っただけの素振りだったのだ。現に、彼はヴァイオラを引きとめようともしなかった。それ以降、気まずそうな素振りも関係を修復しようという素振りも、なにひとつ見せなかったのだ。

 そうして、ヴァイオラは気づいたのだ。――フィドルは、ヴァイオラのことなど見てもいないと。

 蝶よ花よと、大事に育てられた一人娘のヴァイオラは、いままで人の興味の対象にならないということがなかった。フィドルに会って初めて、そうではない人間の存在を知ったのである。

 そのために幼い頃から彼を避けていたのだ、ということにいまさらながらヴァイオラは気づいた。

 会わずにいれば、彼が自分に関心がないということを思い知らされずにすむ。なぜ都合がいいかといえば――ヴァイオラは、本当はフィドルの関心を引きたかったのだ。

 それなのにフィドルは、エレーンなどという面白みのない娘に惹かれている。

 ヴァイオラは、熱く苦いものを呑み込んだような気がした。



 胸を塞ぐ重いものは幾日経ってもとれることはなく、ヴァイオラの胸を焼き続けた。

 ヴァイオラも、この気持ちが不健全なものであることはわかっていた。

 エレーンがとても気立ての良い娘であっても、そうでなくても、ヴァイオラの憂鬱は晴れないだろう。エレーンよりもヴァイオラが優れていたとして、それでもフィドルが選んだのはエレーンだということを思い知るだけだ。

 この醜い気持ちを捨て去ることができるだろうか、そうヴァイオラは悩んだ。

 そんな日は来ない気がした。――当のフィドルがヴァイオラの屋敷に訪れるまでは。

 その日はおあつらえ向きに、重い雨が降っていた。

「ああ、ヴァイオラ」

 来客の報を聞き、応接室に赴いたヴァイオラに、フィドルは沈痛な顔を投げかけた。

「エレーンが……」

 フィドルの乱れた髪、汚れた靴、冴えない表情がことの深刻さを物語っていた。弱々しく語り始めたフィドルの話によると、エレーンが重い病に臥せっているのだという。

 フィドルは誰かにこの胸の絶望を打ち明けたくてここに訪れたのだろう。彼の家はエレーンの家と特別に密な交流を持っているわけではないので、そちらの屋敷には居座れないのである。エレーンの病は命に関わるもので、とても高価な薬が必要らしい。高価ということは希少価値が非常に高いということである。その薬が市場に出るのが先かエレーンの命が尽きるのが先か、それは誰にもわからなかった。

「――私が、心当たりを当たってみるわ」

 思わず、ヴァイオラはそう答えていた。

 彼女は昔から、フィドルが誰を選ぶのかということに関心を持ってきた。人当たりのいいフィドルが、実はあまり他人に関心がなく、諍いを起こさないために適当に話を合わせていたことを知っていた。ずっと、彼が誰を選ぶのか知りたかった。それは、結局ヴァイオラではなかったけれど。

 それでもヴァイオラはいま、フィドルが幸せになるためならば自分はなんでもするだろうと思った。

 それに気づかせてくれたということだけでも、エレーンの存在を肯定できると思った。

「そういえば君は、薬学を学んでいたね。なにか、特別な出荷ルートに繋ぎがとれるかも知れないな」

 わずかに希望の差したフィドルの顔色を見て、ヴァイオラは初めて――といっていい――彼に向けて穏やかな微笑を浮かべてみせた。

「ええ、必ず手に入れるわ。だから待っていて」



 ヴァイオラは、ふと人の気配で目を覚ました。

 彼女は半分座ったような妙な姿勢で、ベッドの傍にもたれていた。

「ヴァイオラ」

 突如かけられた声に、はっと振り向いてみれば、そこにフィドルの顔があった。そしてやっと、ヴァイオラは現状を思い出したのである。

 どうにか薬を手に入れたヴァイオラは、その足でまずエレーンの屋敷に赴いた。フィドルの名前で薬を届けておき、そのあとフィドルに伝令を出した。彼を待つあいだエレーンの看病を手伝っていたのだが、その途中で眠ってしまったというわけである。

「ああ、ヴァイオラ、ぼくは――」

 言葉の途切れる先から、フィドルはほろほろと涙をこぼした。

「まあ、どうしたの。エレーンは大丈夫よ、薬が間に合ったわ」

 エレーンが病にかかったと告げに来たときも、フィドルは苦渋に満ちた顔はしていたが、涙までは流さなかった。フィドルが自分を見失うようなことなどめったにない。その彼がいま、声を殺して泣いている。

 よほどエレーンのことが心配だったのだろう。ヴァイオラの胸はきりきりと痛んだが、それを顔には出さなかった。

「待ってなさい、落ち着くようになにか飲み物をもらってくるわ」

 ヴァイオラが立ち上がって部屋を出たのは、その空間から逃げたかったからかもしれなかった。

 廊下で使用人に声をかけ、フィドルにホットレモネードを届けてもらう手配をすると、あとはエレーンの部屋にも戻らずにヴァイオラは家へと帰った。



 それからしばらくヴァイオラはエレーンとフィドルの近況を知らなかったが、

「ヴァイオラ、聞いたかい」

 ご親切にも父親が教えてくれたのである。

 父親はヴァイオラとフィドルが婚約解消してしまったことに落胆してしまい、フィドルの話題を出さないようにしていたが、このニュースはヴァイオラの耳に入れておこうと思ったようだった。

 エレーンは一週間ほどして症状が落ち着き、めきめきと快復に向かっているらしい。そしてエレーンの父親は感極まって、娘の命を救ってくれた礼に――正確には薬を手に入れたのはヴァイオラだったが、彼女はフィドルの名前でそれを届けた――フィドルに、娘をもらってくれと、そう持ちかけたそうな。

「あら、そう……」

 思ったよりも軽い反応だったヴァイオラに、父親はほっとしたらしい。早々にその話を切り上げ、話題を変えた。

 ヴァイオラの胸の中は、思ったほど吹き荒れてはいなかった。フィドルにチャンスが訪れたことを、素直に祝福した。しかし、切ないほどの喪失感はいまは拭うことができなかった。

 そうしてエレーンの病状が快復したころに、ヴァイオラの屋敷を一人の男性が訪れた。

 フィドルである。

「あら、ご無沙汰ね。婚約おめでとう、というべきかしら」

「婚約? していないよ」

「まあ、なにがあったの――とりあえず入って」

 ヴァイオラは自室へとフィドルを招き入れた。先日聞いた流れでは、もうフィドルとエレーンが婚約していてもおかしくはないだろう。しかしそうではないという。エレーンが快復するまで待たされたのか、それとも彼女に拒絶でもされたのか――ヴァイオラは考えてはみたがわからない。

 フィドルは部屋に入ると、ほっとしたようにソファーに身を沈めた。

 ヴァイオラが隣に腰掛けた途端、フィドルは彼女の手をきつく握り締め、その手を己の額へ押し当てた。

 驚いたヴァイオラが小さく声を上げると、フィドルは苦痛に満ちた声を吐き出した。

「ああ、ヴァイオラ、ぼくのためだったんだ」

「――フィドル?」

「ヴァイオラ、ぼくは君が、親しくもない人間のために、命を懸けるような人ではないことを知っている。でも、ぼくのためだったんだ――全部、ぼくのためだったんだ」

 なんのこと、とヴァイオラは首を傾げてみせた。フィドルは顔を上げ、そんな彼女の瞳を見つめる。

「君は薬草には詳しかったね。あの薬は、崖の上に生えるある植物の根からできるんだそうだね。君が採ってきたんだろう、崖を上って。精通しているものが注意深く掘り起こさなければ、すぐに根が駄目になってしまうらしい。だからあんなに稀少だったんだ」

 ヴァイオラは微笑を崩さなかった。

「だから私が採ってきたと? 誰か別の人から手に入れたんだとは思わないの」

「ヴァイオラ、ぼくは見たんだ。君が、エレーンの部屋で眠っているあいだに、君の掌を見たんだ」

 ヴァイオラの白い指が、傷だらけで血ににじんでいるのを見た。爪のあいだに、まだ固く土が詰まったままなのをフィドルは見た。

「ぼくはそれを見て、涙が出て仕方がなかった――エレーンが倒れたときも取り乱さずに済んだのにね」

 だからフィドルはここへ来たのである。エレーンの快復を待った上で。

「だからなあに? 私は恩に着せるつもりも同情を乞うつもりもないわよ」

 ヴァイオラは毅然とした態度ではねつけた。フィドルは帰ればいい。帰ってエレーンと婚約してしまえばいいのだ。

「ヴァイオラ!」ヴァイオラの台詞を遮るように、フィドルは彼女を抱き締めた。「頼むから――そんなことを言わないでくれ。ぼくが欲しいのは君だ、エレーンじゃない」

 ヴァイオラは我が耳を疑った。

「フィドル――」

「頼むよ、ぼくと結婚してくれ。ひざまずいてこいねがえというならそうもするさ」

 ヴァイオラはひとつ瞬きをして、彼を抱き締め返した。

「ええ、いいわよ」

 ――こんどは、嘘の返事ではなく。



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