源氏の君を求めて2
「ーほら」
珠は紫式部の娘賢子と鞠で遊んでいた。
鞠は高く上がり、青空に映える。
庭は優しい光で満ちており、母親の紫式部も回廊で見つめている。
その顔は穏やかなもので、二人とも安心して遊んでいた。
「珠、えい!!」
「あ、やりましたね。ほら」
「きゃ!! あはは。楽しい」
十の賢子は元気いっぱいで、鞠を投げてくる。
珠は取り損ねて、鞠を追っていくと、目の前に沓が見えた。
え、と驚いていると、庭の隅に隠れていたらしく、直衣姿の男性が従者を伴い、立っていた。
その姿は凛々しく、着ている直衣も見事なもので、珠の勘が働く。
ーもしかして、偉い御方なのでは…?
その場に座り込もうとすると、男性が手を振り、止めさせる。
「珠、賢子、下がりなさい」
「はい。失礼いたします」
珠は賢子を抱えると、回廊を上がり、御簾の中に隠れる。
ー今の御方…。紫式部様も気づいたらしいですわ。
胸はどきどきしていた。
あまりにも整った顔立ちで、普段、男性と付き合いがない珠でも、緊張する御方だった。
御簾の中から覗けば、紫式部が回廊に手をつき、男性に頭を下げている。
ー道長様ではなくて、その、あの…。
珠は興味津々で御簾の中から外を覗く。
賢子が袖を引っ張ってきたので、鞠を手渡すと、奥へ一旦、引っ込む。
「ここで静かにしていられますか?」
「うん。大丈夫」
「すぐ戻りますから、お願いいたします」
珠は元の場所へ急いで戻ると、紫式部が男性に向き合っていた。
男性は太陽の光を全身に受け、まばゆい姿だった。
珠は顔を赤くし、胸を押さえる。
恋とはこういうものかと、自分なりに解釈していると、紫式部が声をかける。
「まさかいらっしゃるとは、思いませんでしたわ…。全く、私の非礼をお許しくださいませ」
「そんなにかしこばらなくていい。気楽にせよ」
紫式部は丁寧に言葉を選んでいる姿から、相手の男性がとても高貴な身分だと受け取る。
ー私の予想だと…。まあ、どうしましょう!!
珠はどきどきしながら、両手を頬に当てる。
道長でないとしたら、紫式部が緊張するのは一人しかいない。
珠は息を殺すと、御簾の中から二人の姿を覗き込む。
確証はないが、紫式部の様子から、あり得ないと叫びそうになった。
ーお、落ち着くのよ、私。今、邪魔したら、紫式部様の品が落ちてしまう。
珠はぐっと唇を噛むと、なるべく気配を消すように心がける。
「今日はどういった御用件で…?」
「ああ。物語の書き手に会いたいものだったから。まずかったかな?」
「そ、そんなことはございませんが…。私こそ名誉なことでございます」
「そうか。良かった、会いに来て。あなたは聡明な御方だ」
男性は微笑むと、珠は「きゃあ」と口の中で叫ぶ。
何と表現していいものか、天が与えた美とでもいうか、彼の香りが漂ってきそうな勢いだった。
自然も応援するように、風が吹いていく。
紫式部は畏まったまま、言葉を続ける。
「物語でしたら、できましたら、お届けにあがりましたのに。本当に申し訳ございません」
「いやいい。私がたまには外に出たかったのでな。それと、ーおい」
男性の従者が動き、紫式部の前に小さな壺が置かれる。
珠も何だろうと思っていると、男性が柔らかく言ってくる。
「ー蜂蜜だ。身体にいいので持ってきた」
「そ、そんな…。高価なものをいただくなんて…!!」
「いや、お前には頑張って欲しくてな。彰子も物語を楽しみにしているし。私もどうなるのか、先が気になって、気になって、眠れないほどだ」
ほほと笑い、男性は落ち着かせようと、空気の流れを変えようと試みたようだった。
紫式部は頭を下げたまま、言葉を発する。
「も、もったいない御言葉…!! 紫式部、心にしみいります」
「そうか。良かったら、子ども達にも食べさせてやりなさい」
「ありがたく存じます!! 私の子どものことまで考えてくださるなんて、何と度量の大きな御方なのでしょう」
紫式部は涙を零したのか、袖を目に当てる。
自分の書いたものが評価されれば、嬉しいに決まっている。
しかも上流階級の貴族、それも賢者に続きが読みたいと催促されれば、やる気もわいてくる。
ー素晴らしいですわ、紫式部様!!
珠も涙を零すと、ぐずり鼻を啜る。
主人の喜びは珠の喜びで、また主人の悲しみは珠の悲しみだった。
ー良かった…。あの御方ならこの世も…。
政のことはよく分からないが、男性と道長がいれば、この世の中は安泰だと珠は手を合わせる。
神に近い存在、滅多に会える身分ではなかった。
「いま、書いてあるものはあるか?」
「それは…。少しのみですが」
「それでいい。持っていってもいいか?」
「その、途中ですので、お見せするのは…」
「いいから、見せてみろ」
「はい」
紫式部が動いたので、珠は卓の上にある紙を素早く手に取ると、御簾越しに紫式部に渡す。
紫式部が動こうとすると、男性の従者が動き、丸められた紙を男性に渡すのだった。
「どれどれ」
男性は紙を広げると、さあっと目を通していく。
紫式部はまた頭を下げ、感想を待つ。
珠も手に汗が浮かび、
ーどうか気に入りますように!!
心の中で応援すると、男性は顔を上げ、微笑む。
「面白い!! 面白い物語だ。よく書けている」
「ありがとうございます。もったいない御言葉」
「うむ。続きが気になるから、早く書きなさい。彰子には私が口頭で伝えておくから」
「え、彰子様に…? あ、あの物語が終わってからのほうが」
「意地悪する。ーこれを紫式部に返せ」
男性は従者に命ずると、扇を広げ、上機嫌に笑う。
その声は鳥達と同調し、癒やしの時となる。
「それでは、また」
「はい…。何も御用意できませんで、申し訳ございません」
「そんなことはない。ー行くぞ」
男性は従者を連れて去っていく。
紫式部は気配が消えるまで、じっとしていると、急によろけた。
「紫式部様!!」
珠が御簾を上げ、身体を支えると、紫式部は微笑んでくる。
「ありがとう、珠」
「大丈夫ですか? 横になられては…?」
「少し気が張って疲れたものだから。気にしなくて大丈夫よ」
「本当に大丈夫ですか? だって今の御方ー」
「しー。口は災いの門」
紫式部は人差し指を口に当てると、珠に口外するなと命ずる。
珠はしっかりうなずくと、紫式部の身体を起こし、背中を撫でる。
それから壺に注目する。
「紫式部様、せっかくいただいたのですから、少し召し上がりますか…?」
「そうね。賢子!! 賢子!!」
紫式部が呼ぶと、賢子は鞠を持って静かにやって来た。
珠が鞠を受け取ると、賢子は紫式部に抱かれ、
「甘いものをいただきますか?」
「甘い物…? 何でしょうか?」
「少しだけですわよ」
壺が開かれ、紫式部は指を少しだけ触れさせると、賢子の口に運ぶ。
すると賢子はびっくりしたように、驚いた声を出す。
「あまーい!! 美味しい!!」
「美味しい? 良かった。珠は…?」
「わ、私はもらったら失礼なような気がいたします」
「でもせっかくですので、ほら」
紫式部が手ですくうと、蜂蜜は金色の輝きを放ち、この世のものとは思えない品物だった。
珠は好奇心に勝てず、失礼と紫式部にことわると、彼女の手を舐め、目を丸くする。
「お、美味しい…!! こんなに甘いなんて!!」
「内緒ですよ、他の者には」
「は、はい…!! 紫式部様も召し上がっては?」
「そうですわね。…私もそれでは失礼して」
口に指を入れると、艶かしい姿となり、珠は目を細める。
「美味しいですわ。少しずついただきましょう」
「は、はい…!! 貴重なものをご馳走様でした」
珠が頭を下げると、紫式部が壺をしまう。
「さて、そろそろ執筆しましょうか。今ので良い案が浮かんだので」
「本当ですか!? ぜ、ぜひよろしくお願いいたします」
早く早くと急かす珠に、紫式部は袖を口に当てると、ほほと笑う。
「では中に入りましょうか」
珠はうなずくと、賢子と手を結び、御簾の中に入っていくのだった。




