第二章【三】
雅さんは別府千秋を心理的に切り捨てると車のエンジンを掛ける。どうしてそこまで冷酷になるのか俺には皆目見当が付かなかったけど、俺が知らない秘密がまだ何かあるのかもしれない。そもそもこの件は俺がバイトをする以前に入った依頼だから、雅さんが途中まで調査をしていた筈だ。そこで彼女にとって看過できない、そして同情できない何かを見付けたのだとしたら、冷淡な態度にも合点がいく。事務所に帰ったら俺にも教えてくれるだろうか? 少なくとも今日の顛末を考えると、俺には話しておいて欲しかったなという気持ちが強くなる。
俺は雅さんが車のエンジンを掛けるのを合図にして、ロードバイクのペダルを踏み込んだ。錦から桜山までロードバイクで移動し、そこで遺体を見付け、警察に連行され、事情聴取を受け、もう心身共にクタクタだったけど、俺は復路も必死でペダルを漕いでフラフラになりながら錦の事務所に辿り着いた。この調子で日々が過ぎるなら、もしかするとデリバリーのバイトの方が楽だったかもしれないとチラリと頭の端を掠めたが、それは強引に押し込めた。
ビルの中に入るとヒンヤリとした空気に包まれ、汗だくの身体が冷えていくのが分かる。八階の事務所へ帰ると、雅さんが冷えた麦茶を出してくれた。ただしコンビニで買ったペットボトルのやつだけど。それを一気に飲み干す。酒ではないが、五臓六腑に染み渡る心地だ。
「ふう」
漸く一息吐いたところで、未だ会ったことにない事務所の人間の椅子に座った。雅さんはそんな俺を見て大丈夫だと踏んだのだろう。
「さて、何があったのか話してもらいましょうか」
声が怖い。お説教タイムの始まりだ。俺は順を追って何があったのかを話したけど雅さんは商売柄の癖なのか一度も口を挟まず俺の話を最後まで聞いてくれたが、話し終えるとボソリと言った。
「どうして連絡してこなかったの?」
「連絡したじゃないですか」
「そうじゃなくて、家の中の様子がおかしいと思った時によ」
だって、普通はまさか死体があるだなんて考えやしないだろう。
「普通は、おかしいなと思ったら入る前に警察を呼ぶものなのよ!」
雅さんの言葉の語尾が跳ね上がり、怒っているのがよく分かる。
「でも、あそこが愛人宅だったのかもしれないんですよ。何もないのに騒ぎ立てたら調査に支障を来すんじゃありませんか?」
実際、あそこが愛人宅だった。いや、別府智也の遺体があっただけで愛人宅と特定された訳じゃないのか。でも、別府智也がいたということはやはり愛人宅で良いんじゃないのか?
俺の考えなんてお見通しなのか、雅さんの口元から溜息が漏れた。呆れられているのかな。
「別府氏が亡くなっていたからと言って、あそこが愛人宅とは言えないわ。そもそも、私が教えられた住所と違うのだから」
雅さんが瑞穂警察の前で会った妻の千秋に対して冷淡な態度を取ったのは、これが理由なのか。
弁護士と依頼人の間には信頼関係が必須だ。だから弁護士は依頼人のプライバシーを守る為に警察にさえ情報を秘匿するし、その代わりに依頼人は自らの恥となることも弁護士に話す。でないと訴訟で勝つことができないからだし、民事ならそれこそ希望する賠償額を手にすることができなくなる可能性がある。なのにあの妻は住所を偽った。
「本当に偽ったんでしょうか? 単に記憶違いとか」
「ちなみに、マンション建設地はどれくらいの広さだった?」
その言葉におれは膝を打った。そうか、あの時スマホの地図機能が指定した番地を探せず迷子になったのはマンション建設地の番地が決定していないからなのか。
「そうですね、民家を六軒ほど買い取ったくらいの広さでした」
買い取ったというよりは、恐らく更地と空き家だった所を買い占めてマンション建設地としたのだろう。昨今の高齢化社会は、家の老築化や独居老人の多さに比例して突如空き家に転じてしまうケースも多い。
老親を施設に入れても家の固定資産税は発生するから子世帯が家ごと土地を売るケースもあるだろうし、両親を引き取った後に更地にして売り出した土地を不動産会社がプールして更に高値で転売することもあるだろう。元からあのあたりにマンション建築を目論む企業があったのなら、あの場こそそういう土地だったのかもしれない。
「まだ全くの更地? それとも工事は始まっていた?」
「まだ手付かずでしたがマンション名は決まっていましたし、重機は既に敷地内に運び込まれていました。近日中に基礎工事が始まるんじゃないですかね」
どのタイミングでマンションの番地が決まるのか俺は知らないけど、今あの場所は土地の状態と同じく番地も更地状態なのだろう。
「つまり、間違えようがないってことね」
確かにそうだ。
「あの、別府千秋さんはどうして愛人宅を知っていたんでしょうか?」
自分で夫を尾行して突き止めたのか、探偵でも雇っていたのか。どちらにせよ住所は違っていたし家も違っていた。自分で尾行して突き止めたとしても探偵に依頼したのだとしても、執念深い割に仕事が杜撰すぎる。
「雅さんへの依頼はどうやって?」
「うちは探偵事務所じゃないのよ。だから電話予約後に事務所へ足を運んでもらったわ」
じゃあ対面で依頼しているのに住所不備があり、百歩譲って素人の尾行で正確な住所が分からなかったとしても、それすら伝えずにいたのか。なんだかおかしい。本当に夫の不貞はあったのだろうか?
「別府智也さんは本当に不倫していたんでしょうか?」
疑問がつい口に出てしまったが、そうなると止まらなくなる。
「あの奥さんはなぜ雅さんに依頼したんでしょう。弁護士事務所は今や飽和状態なのに、雅さんに依頼する決定打はなんだったんだろう」
そこまで口にしてハッとした。もしかして電話帳? 雅さん自身も言っていたではないか。アルデア法律事務所は電話帳の最初の方に記されるって。
インターネットが格段に発達したいま何でもネットで調べるのが当たり前だが、その裏でまだ電話帳が作られ配られている現状を知らない人は多いだろう。俺も知らなかった。だけどつい先日自宅アパートの郵便受けに薄い電話帳が入っていたんだ。あの時は心底驚いたし感激もした。まだあったんだって。
ただ、今の若者は固定電話ではなく殆どが携帯を使うし、固定電話を使う年代でも電話帳への掲載を断る人が多い。オレオレ詐欺に騙してくれって言っているようなものだから当然だろう。とは逆に事業者の方はと言えばそうはいかない。携帯やネットを扱えない層のために電話帳はまだまだ必要なのだ。
「アルデア法律事務所は電話帳に載っているんですか?」
「ええ、載せているわ」
雅さんは苦笑しながら答えた。別府千秋が電話帳の最初にある弁護士事務所を選んだ可能性は大きいが、でもそれだけではない気がした。あの妻は雅さんのことを調べたのではないのか? 少なくとも見た目や卒後何年かが分かれば、雅さんは表向きにはまだまだ経験の浅い若輩の弁護士にすぎない。だから敢えて選んだ。
なんだかムカムカしてきた。あの妻は独立起業したのは良いがまだ依頼数が少なくて生活がままならない無能弁護士だと勝手に決め付け、敢えて雅さんに仕事の依頼をしてきたのかもしれないのだ。
「ちょっと失礼すぎやしませんか!?」
「歩夢くん、怒ってくれるのはありがたいけど、それって貴方も私のことを若輩の無能弁護士だと思っているってことかしら?」
俺は二本目の麦茶を喉に詰まらせてムグっとなった。シマッタ、いくらなんでも本人に言うことじゃなかったか。
「違いますよ、そんな風に思ってやしません」
俺は書棚の向こうにある隠し部屋をまだ見ていないけど、隠し部屋を作るほどに重要な案件をこなしてきたことと注意深さは分かる。雅さんは若いが決して若輩者ではない。それは警察でのあの態度からも一目瞭然だ。
「なら良いけど。ところで歩夢くんは別府千秋を見てどう思った?」
「どうって」
突然どうしたんだろう。でも雅さん的には他者からみた別府千秋の印象が聞きたいのかもしれない。
「美人だなとは思いました」
年齢は三〇代後半だろうか。亡くなった別府智也氏の見た目年齢が四〇代半ばっぽく思えたから、夫婦としては丁度良い年齢差だろう。あの美貌だから嫁に欲しがる男は引く手数多だっただろうな。そして遺体とはいえ夫の方もなかなかイイ男だったから、並べば美男美女のお似合いカップルだろう。
ただその美貌は雅さんとは正反対だ。花に喩えるなら…… あ、ダメだ。俺、花にはてんで詳しくない。見て言い当てられる花は桜と向日葵と紫陽花くらいなものだ。その僅かな花に喩えるなら雅さんは華やかで太陽の如き強烈な向日葵かな。一方、別府千秋は控えめで楚々とした美しさから紫陽花といったところだろうか。
髪はアップにして纏めていたっけ。スーツを綺麗に着こなしていたから専業主婦ではなさげだが、ただのOLとも思えない。そうだ、秘書だと言われたらしっくりくる。
「楚々とした美人ねえ」
雅さんの嘲笑が入り交じった言葉を聞いて俺の背筋に悪寒が走った。無論、雅さんの声に反応したのではなく、別府千秋の裏の顔を想像したのだ。
愛人のいる旦那を家裁に呼び付けて訴訟をおっぱじめようとする女性だ。夫の三歩後ろを歩く淑やかな女性ではなく、目的のために手段を選ばないような内に秘めた激しさがあるのかもしれない。彼女が楚々とした女性を演じているだけだとしたら? たがその演技は同じ女性である雅さんには通用しないだろう。何より彼女の審美眼はたった二日一緒にいる俺が瞠目するほどだ。
「この件、俺達が別府千秋に振り回されている可能性が高い?」
「そうとは言い切れないけど、私には言えないことがあるのは確かね」
ああ、だから引き受けたのか。明らかに虚偽の依頼なら雅さんはそれと見破り断ったはずだ。だけど、それはしなかった。別府千秋の内に秘めた何かが雅さんの琴線に触れたに違いない。




