第二章【二】
結局、俺は瑞穂警察署に連れていかれた。遺体の第一発見者であり、玄関と遺体のあった居間へ入るドアに俺の指紋がベッタリと付いていたのだから仕方ない。雇用主への連絡は許可されたので、俺は雅さんに叱責される覚悟で警察に連行されることを知らせた。
バイト初日から何やってんだろう。高いロードバイクをポンと貰ったばかりに二日間連続で警察に連れていかれることになるなんて親にも友人にもとても話せない。
瑞穂警察書署に入ると驚くことに雅さんが先に到着して待ち構えていた。幾分機嫌が悪そうに見えるが、バイト初日からヘマをした俺は彼女に見放されても文句は言えないくらいの気持ちだったから、どういう態度であろうと彼女がいてくれたことが嬉しかった。逆算するに俺が第一報を入れた時に彼女はこちらへ向かってくれたのだろう。
俺達は刑事課の一角にある応接セットに案内された。取調室でなかったことに心底安堵したが、これも雅さんの存在のおかげだと痛感する。俺ひとりなら、間違いなく取調室から一泊程度の拘留になっていたに違いない。ただ、事の発端は鷺ノ杜雅だと思うと気持ちは複雑だ。
雅さんはここでも名刺をチラつかせ自らが弁護士であること、俺は今日から雇ったバイトであることを説明し、依頼人のプライバシーに触れることだから全ては話せないとしながらも、離婚訴訟の準備段階で投函した内容証明郵便が宛所不明で戻ってきたため、依頼人に教えられた住所に俺を向かわせた所で事件に遭遇したことを理路整然と説明し、俺への取調に関しては百戦錬磨の刑事達を手際良く黙らせた。いや、刑事達を黙らせたのはガタイが良い刑事を見上げつつ見下す雅さんの態度なんだろうけど。
刑事達の態度は俺が事件に関係していると決め付ける感じではなかったけど、遺体の状態が不審すぎて身元や訴訟の原告である妻の情報を雅さんから引き出したいようにも見える。しかし雅さんが、いや弁護士が依頼人に不利になることを話すはずがない。ただ、彼女自身が依頼人に対して多少の疑念を抱いたことも事実で、彼女はあくまでも身元不明にしないためと言い置いて依頼人とその夫、つまりあの部屋で横たわっていた人物の名を口にした。
「亡くなっていたのは別府智也さんです。そうよね、歩夢くん?」
「間違いありません」
俺は遺体の顔と雅さんから貰った写真に写った人物を同時に思い浮かべて断言した。この暑さの中、顔も遺体も綺麗だったのは大型のエアコンのおかげだろうが、死後あまり時間が経っていなかったのかもしれない。
「奥様の名は別府千秋さんと仰います」
雅さんが最小限の情報を提供している間に俺はボンヤリと考えた。
あれは愛人宅での腹上死なんだろうか? いや、着衣はしっかり着込んでいたからイタしている最中の腹上死ではなく不審死か? と考えて、やはり腹上死の線も捨てきれないと思った。死亡後すぐに衣服を着せれば誤魔化せるし、死後硬直が起き始めたとして、袖に腕を通すのに無理な角度に曲げても遺体は文句を言わない。ただ、プロの検死官なり法医学者が調べればその辺りも偽装だと見破られる可能性は捨てきれないが。
俺は医学部じゃないから断言はできないけど、骨折とまではいかなくても脱臼していれば偽装工作だとバレると思えた。となると、この件を事件として扱うなら一番怪しいのは愛人か? 嫉妬に駆られた妻が雅さんに敢えて違う番地を教え先回りして夫を手に掛けた可能性もあるが、それだと離婚訴訟を起こした意味が分からない。浮気が既に妻の知る所なら、犯罪に手を染めるより慰謝料をふんだくった方がまだ後腐れがないように思うけど、この考えは俺が男だからなのかな?
狭い刑事課には検死官や鑑識が入れ替わり立ち替わり出入りして報告を上げていく。その中から刑事は俺達に知らせて良いと判断した内容を教えてくれた。やはり弁護士特権は素晴らしい。無論、その特権を得るために雅さんは六年間、いや法曹界に進もうと決めた時から必死に頑張ってきたのだから、賞賛はすれこそ羨む気持ちはない。
「とりあえず、死後一日程度のようです。着衣に乱れはなく病死も疑われますが、逆にあまりに身なりがキチンとしているのと、検死中に背中に針の痕が見付かっものの生活反応の有無が微妙だったこともあり、事件事故病死の全てを念頭に置いての捜査となります」
「遺体は解剖に回すんですね?」
「はい。ただご遺体に争った痕跡がないため行政解剖になります。なので詳細が分かるのに少々お時間を頂くことになるかと」
へえ、確か監察医務院って東京二十三区・大阪市・名古屋市・神戸市の四都市しか残っていないんだよな。だから名古屋では不審遺体の全てを大学の法医学部へは依頼をせず、監察医務院と大学の法医学部を使い分けているのだ。
「承知しました、何か分かったらご連絡下さい」
最小限の要点を纏めてお互いの連絡先を交換すると雅さんは帰るべくさっと立ち上がり、俺もつられて立ち上がる。アッサリとしたやりとりが意外だった。少なくとも雅さんはあの遺体の愛人の話をするんじゃないかと思ったのに、そこには全く触れなかったのだ。最初に離婚訴訟って告げたことで、わざわざ愛人云々言わなくても刑事達の頭には痴情のもつれって線が浮かんでいるのかな。無論、刑事の頭の中では俺と同じように妻が夫を手に掛けた可能性もあると考えているに違いない。
何にせよ今は解剖の結果を待たないと何とも言えない。だから弁護士として雅さんが今この段階で愛人の名を告げることは絶対にない。事件か事故か、まずはそこからだ。
だが、解剖が終われば俺はまた警察に呼ばれることになるだろう。事件ともなれば発見時のこと、それ以外に何か見なかったか、異変を感じなかったかなど、とにかく尋問されまくること間違いなしだ。もしかしたら今は雅さんの手前容疑者から外されているけど、まかり間違えば容疑者にされるかもしれないし、そうなった時に雅さんが身を挺して俺を庇ってくれるなんてのは甘い考えだろう。なんてこった。初日から遺体の発見なんて先行きが不安になる。
「帰るわよ」
「はい」
建物から出ると夏の陽射しが目を貫く。それで思った。警察署ってのは、昨日の県警本部もそうだったけど、なんであんなに陰気で辛気くさいんだろうって。外と暑さとは裏腹に暗くて寒気を覚えるあの陰湿な感じは連日生々しい事件を追っているからなのか、捜査で足を棒にして帰って来る刑事達が現場から陰惨さを持ち帰ってくるからなのか、または人の業を刑事が一心に背負っているからなのか。
雅さんは今日はタクシー移動ではないようで駐車場に止めてある国産の高級車を解錠したけど、俺にはそれが意外に思えた。彼女なら真っ赤なポルシェで派手に登場しても絵になると思ったからだ。けどそれを言葉にすると雅さんは俺の言葉をせせら笑った。
「あのね、日本に住むなら日本車が一番コスパが良いの」
雅さんの口からコストパフォーマンスなんて言葉が出てくるのが壮絶に似合わなくて、俺は思わず吹き出してしまった。
「仮にドイツ車に乗っているとしましょう。あちらには日本のような雨期がないの。つまり湿気に弱い車でも構わない訳。でも日本は元々湿気が多い島国よ。昨今のゲリラ豪雨で車が立ち往生したってニュースもよく見るでしょ?」
まだ知り合って二日目だけど、雅さんの饒舌が珍しすぎて俺は真面目に話しに聞き入った。
「海外産の車が故障して、その部品が国内にあるディーラーになかったらどうすると思う?」
「ええっと、本国か工場のある場所から送ってもらう?」
「そうよ、しかも船便でチンタラ届ける訳にはいかないから、当然飛行機を使う」
そこまで聞いて俺は『あ!』となった。
「飛行機だと配送料がバカ高いんですね」
「それもあるし、いくら飛行機で部品を送るといっても税関やらで時間を取られるの。その点、国産なら部品の在庫は日本中どこにいてもすぐに手に入るし、メーカーのエンジニアが修理してくれるのだから、後々も安心して乗れるわ」
たかだか車のことだけど、経済の講義を聴いたような心持ちだ。そうか、雅さんは格好良いからとか、ブランド好きでとかで製品は選ばないんだ。そういえばフォクシーも国内のブランドだ。あれもお直しに出しやすいからだろうか?
「服は今時の縫製は東南アジア主流だから何とも言えないけど、窓口が沢山あるのは国内ブランドならではね。それにデザインが日本人の体型に合っているから着心地が良いのよ」
同じ着心地が良いのでも俺なんてユニクロやGUなんだけど、雅さんの言いたいことはよく分かる。
「じゃあ、事務所で待っているから」
おっと、やっぱり出た雅節。今日は大変だったからもう帰って良いわよとはならないんだよな。
「了解っす」
「それと帰ったらお説教ね」
「ういっす」
やっぱり初日から雇用主を警察に来させる羽目になったことへのお小言は免れないらしいが、不用意に他人宅へ入った俺が悪いのは自分が一番分かっているから反論する余地はない。
その時、俺と雅さんの前を女性が通りかかった。真っ青な顔をしているその女性に俺は見覚えがある。事務所を出る時に雅さんから預かった写真に写った片割れ。そう、亡くなった別府智也の妻だ。
彼女は雅さんに気付き彼女に一礼し雅さんも黙礼を返す。だが次の瞬間、別府千秋は雅さんに取り縋った。
「先生、何故主人が!?」
「離婚訴訟の手間が省けて良かったのでは?」
「そんな」
なんだろう、このやり取り。妻の様子は夫に愛想が尽きて離婚訴訟に踏み切ったとは思えない深い悲しみが全身から匂い立ち、雅さんは冷酷にその妻を突っぱねている。少なくとも雅さんがご立腹なのは確かだ。
「これまでの調査費については改めて請求書を送付させて頂きます」
「いえ、取りに伺います」
「分かりました、用意ができ次第ご連絡致します」
雅さんの口調は冷淡で事務的だった。




