第二章【一】
宛所不明で戻って来た内容証明を受けとった後、俺と雅さんは正式な雇用手続きを踏んで俺はアルデア法律事務所の正式な調査員となった。
ロードバイクの件で半強制的に調査員になったとも言えるが、昨日の襲撃と今日の事務所荒しと二件立て続けに雅さんのトラブルに巻き込まれ俺自身もトラブルの当事者になってしまった訳で、そう考えると調査員になって謎の解明、できれば犯人を突き止めなくては今後は俺も狙われる可能性があるかもしれないと危機感を抱いたからだ。
事務所名のアルデアとは鷺のラテン語らしい。俺はテッキリ事務所の名前は鷺ノ杜法律事務所だと思っていたんだけど確かに事務所のドアに鷺の文字はなかった。ついでに言えば事務所のドアにはサイン自体がなかったのだが、新しい事務所だけにまだサインが仕上がっていないらしい。
内装もやっと整ったばかりだと言っていたが、となるとほんの僅かな間に何度も事務所荒しに遭っていることになるから彼女の言葉を頭から信じる気にはなれない。面白半分に揶揄われている可能性もあるから、どこまでも喰えない女王様だ。
ところで、何故事務所の名前にわざわざラテン語を用いたのかを尋ねたところ、雅さん曰く『ア』で始まる事務所は電話帳の初めに乗るから弁護士探しをする人の目に触れやすいことと、ラテン語の響きが気に入ったからと説明されたけど、俺はもしかしたら鷺ノ杜の名を前面に出したくないのかなと考えたりもした。
正確には何度かはぐらかされたものの、少なくとも三度は事務所荒らしに遭っていることに嘘はなさそうだと思えるし、あの事務所が鷺ノ杜雅の事務所であることは既に人の知るところだろう。それでも彼女としてはもう引けないのかもしれないし、錦のような場所に事務所を構えたのも敢えて目立つ所にしたのとは真逆の理由とも考えられる。
錦と言えば三丁目のような治安のあまり良くない夜の繁華街を連想するが、昨今はランチ営業をする店や事務所も増えて昼夜関係なく人通りが多い上に中警察の栄幹部交番が近いこともあって前ほど治安は悪くなく、また法律の改正などもあって悪質な客引きも減っている。そして繁華街だからこそ何をやっても目立つのだ。目立つということは目撃者が多いことに繋がる。雅さんは敢えてそこに目を付けたのではないのだろうか。
そんなことを考えながら俺は梅雨の合間の晴れ間の青い空の下、滝のように汗を流しながらロードバイクをひたすら漕いでいた。目的地は宛所不明で戻って来た内容証明に記載された住所だ。不倫夫の名前と愛人の名と双方の写真、そして愛人宅の住所はスマホにメールで送ってもらったが、それと同時に雅さんから就業祝いとして手帳をプレゼントされ、詳細はその手帳にもギッシリと記されている。
雅さん曰くスマホは便利だけど充電が切れれば見られないし、衝撃を受けたりや水中に落ちたりすればデータが消失する危険があるから、この仕事をするならアナログに戻れと言われたのだ。お説ご尤もである。
裁判で検察官や弁護士が令和の世になっても風呂敷に調書を包んで歩くのは重くて非効率だが、紙の調書なら老若男女誰にでも扱える。無論、破られたり燃やされればデジナルと大差ないが、少なくとも紙媒体のものは先に裁判所と検察官とで共有しているから、二つの組織とフリーランスの弁護士の誰かの元でトラブルが発生しても書類が完全に無に帰することはない。ただ敢えて隠蔽するなら話しは別であるが。
さて、俺の方はデリバリーを生業にしていたから住所が分かればそこに行くことは得意である。問題は宛所不明で戻ってきた原因だ。雅さん曰く、その住所は不倫している夫の妻から聞いたと言う。二人は上司と部下の関係で、周囲には夫婦と偽って家を手に入れ仲良く住んでいる。
その二人に冷や水を浴びせてやりたいから内容証明を送って欲しいと懇願され、鷺ノ杜雅弁護士の名で送付したのだがその住所が間違っていたのはどういうことだろう? 妻が間違えたのか、思い違いなのか、そもそも不倫自体がないのか。
住所は瑞穂区桜山近辺。市大病院があるから救急車の出入りはあるが、環状線から一本入ると静かな住宅街が広がる場所だ。市の博物館があるからか文化的で落ち着いていて交通の便も良く買物や通院に困らない住み心地の良い場所で、だからか地価もそこそこ高い印象だ。そんな場所に不倫カップルが家を構えるなんて。一体どんな企業に勤めればそんな豪奢な不貞行為ができるのやら。俺は呆れるやら腹立たしいやらで、それを原動力にペダルを強く踏み続けた。
錦を出て約三〇分。ロードバイクは軽快に走り桜山の交差点に到着した。スマホのナビが目的地が近いことを告げる。俺は交差点の信号を渡ると名古屋市博物館を左に見ながら右折した。大通りを一本入っただけで車の走る音が遠くなる。正に閑静な住宅街そのものだ。そのまま住宅街を走る。この辺りの最寄り駅は市営地下鉄の桜山駅だが正式名は駒場町だ。目的地には到着しているのにスマホの地図は中々場所を特定できないでいる。仕方なく少しグルグル回ると目的地へ到着した。
いや到着したと言っていいのだろうか? 俺は目の前の光景を見て呆然と立ち尽くすことになる。そこには広大な空き地が広がっていたのだ。いや正確にはマンションの建築予定地で今はまだ空き地段階の土地だったのである。そりゃ宛所不明で戻ってくるのは道理だしスマホの地図が迷子にもなるはずだ。
さてどうしようか。妻は本当にこの住所だと思っていたのかもしれないが番地の記憶ミスかもしれないと思い立ち、向こう三軒両隣を当たることにした。無論、直接尋ねて聞く訳ではない。俺の調査はこの場面では観察することだ。
マンションが角地にあるので両隣と言うよりは真ん中の二軒になるが、そこからは幼い子供の泣き声が聞こえたり、洗濯物がはためいていたりと平和な光景が広がっていて、とても密会の家とは思えない。不倫用の家だから洗濯物は干さないと決め付ける訳にはいかないが現時点では除外だ。俺の意識はすぐに向こう三軒へ向かった。
左端の角地は武具店を営んでいてここも除外。右側は老夫婦か。洗濯物の色が褪せて、着衣のデザインも古めかしい。となると怪しいのは真ん中の家だ。俺は周囲に最新の注意を払いながら目星を付けた家の門扉に手を掛け音を立てないようにそっと押すとスルリと門の内側へ滑り込んだ。
庭は特に荒れた様子はないが、この晴天下に洗濯物はない。家の中からは物音ひとつ漏れてこず人の気配はなさげだが、それとは真逆にエアコンの室外機の音がうるさい程に唸っている。
消し忘れと思うにはやかましすぎる気がして一応室外機を確認すると、大手電機メーカーの最新の型番が刻印されていた。結構広い部屋でも冷やすパワフルな奴だ。その代わり電気代もバカにならない。
出掛ける時に消し忘れたのだろうか? 家の周囲から中を覗くもカーテンに遮られて視界不良だ。致し方なく玄関のドアノブに手を掛ける。鍵が掛かっていたらお手上げだがクーラをかけっぱなしで出掛けたならすぐに戻ってくる可能性もあり、それなら鍵が開いているかもしれないと思ったのだ。
無論、開いているからと勝手に入れば立派な住居侵入罪だが、今は玄関から覗いてこの家で不貞を犯す輩の存在の有無さえ確かめられれば良い訳で。俺は回覧板を届けに来た近隣住民のような感覚でドアノブに手をかけた。と、そのドアが簡単に開いてしまい俺は青褪める。この状況を帰宅した家主が見たら正に通報レベルだ。
だが、俺は瞬時に異変を感じ取り、焦りは別の種類の物へと変容した。背中に汗が伝うのは暑さからではない。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」
微かな希望をもって中に呼びかけるが無論返事はない。どうしようか。中を確認すべきか否か俺は悩んだ。だがこのまま放置するのも気が引けて、エイヤ!と気合いで靴を脱いで室内に上がり玄関横の磨りガラスを填め込んだドアを開く。すると異様なものが目に飛び込んできた。
いや、異様というのは少しおかしい。そこには中年男性が横たわっていた。それだけならなんら異様ではない。ただ昼寝をしているだけにも見えるし、爆睡していて俺の声に気付かなかったと言えなくもない。それでもその姿が異様に見えたのは、男性がスーツにネクタイをキッチリと締めた姿だったからだ。俺は恐る恐る男性の頸動脈に触れたが脈はない。
ここまでだ。俺はすぐに外に出ると警察に通報した。これ以上不用意に触れれば捜査に支障をきたすばかりか俺が疑われかねない。警察に通報すると雅さんにも現状を報告する。俺が危惧したように彼女は警察に連行される可能性を口にしたが、その時は自分を呼べと厳命された。とりあえず俺はこの難曲に一人で放り出された訳ではないことに安堵したが、雅さんは相変わらず辛辣だった。
『初仕事で上司を警察に呼び出したら減俸よ』
俺はその言葉に首を竦めるしかなかったし反省もした。エアコンの室外機と返事がない時点で連絡をして指示を仰ぐべきだったのだと後悔したのは警察が到着した時だったから時すでに遅し。
俺がここに至った状況を説明し、事務所を出る時に雅さんが急ごしらえで作ってくれた事務所のロゴ入りの名刺を差し出すも、すぐにバイトだと見破られ学生証の提示を求められた。
「法学部の学生とは言え実習には早いんじゃないかね?」
そう言われてなるほど確かにと納得してしまい、後から到着した私服の刑事にも今時の学生は怖いもの知らずだと言われたが、刑事がこう言うのも最近は闇バイトに手を染める輩とその被害者が多いからだろう。俺のこのバイトは闇ではないが大人から見れば十分に危なっかしいのかもしれない。でも雇用主は俺で大丈夫だと踏んだんだよな。何が決め手になったのか。助けたことではなくロードバイクを見込まれたのならやるせない。




