第一章【五】
俺は雅さんが構える事務所の重厚な扉の前で大きな深呼吸をした。今日は講義が早く終わり、まだ昼を少し回った時間だ。
錦三にある真新しいビルは前面がガラス張りの上に、ビルの公共の空間が白で統一されているから錦とは思えない明るさと清潔さがある。ビルは高級クラブや和食店の入るレンタルオフィスだが、まだ借り手を募集しているようでつい最近オープンしたのだと考えるのは容易い。錦三で新築ビルの八階。賃貸料は幾らなんだろう。素朴な興味が涌く。
昨夜、調査員にならないかと言われた時、旨みのある話しだと思うのと同時にとても危険な世界に足を踏み込もうとしているような気にもなって、俺の口の中はカラカラに乾いて返事もままならなかった。
なんて言っても言い訳にしか聞こえないだろう。声にならない、言葉にできない。これらは古今東西の色々な場面、または小説、映画、漫画、歌詞の中で使い古された言い回しだ。でもそれが本当に自分の身に起きるなんて。
雅さんはそんな俺を見て、じゃあ明日の授業後に名刺に記載のある住所に来てと言ってくれた。一晩考える時間をくれたことに俺は感謝したけど、別れ際に『そのロードバイク、門外漢の私の目にも素敵に映るわね』なんて言われたら、脅された以外に何と受け取る? 単純に褒められたと思うにはあのロードバイクは高すぎる。端から俺を調査員として雇う算段で、買物に付き合わせて最ご褒美をと計算しての行動だったのかもしれない。
いや、絶対にそうだ。雅さんと知り合って数時間しか経っていなかったけど、言動の端々に効率や自分優位な性格の端緒が見えていたではないか。もはや俺に選択権はない。
何をやらされるのかな。当然、依頼事に関する調査だよな。弁護士に依頼してくる人達ってどんな人種なんだろう。凶悪犯の家族だったらどう対応するんだろう。なんて考えているうちにドンドン気持ちが萎えていくが、あの恫喝めいた誘いに乗れば雅さんを襲った奴のことが何か分かるかもしれないと考えた時、突如気持ちが上向きになった。
と同時に思う。昨日、黒づくめを追いかけようとしたとき雅さんは俺を止めた。追いかければ危険だと判断したのは明白だし、現実的にもし俺が追い付いていたら今頃俺は棺桶の中か、運が良くても病院のベッドの上で唸っていただろう。 そう考えると調査員として雇っても危険な場所に行かされることはないんじゃないかと思えてきた。調査をしていくうちに危険な方向へ行くかもしれないが、そこは弁護士判断で回避できるよう指示が出るんじゃないかと。
こんな考えは甘いのかな。報酬ははずむって言われたけど、そこに危険手当も入っているなら俺の考えの甘さを笑われるだけだ。どうしよう、何と答えよう、イエスかノーか。いや、ロードバイクが手元にある以上、友人知人にお人好しだと笑われても貰い逃げは俺の矜持が許さない。
俺は覚悟を決めてドアノブを捻った。木製の重厚な扉は軋むことなく開く。一歩入ると上質なカーペットに足音が吸い取られ静寂に包まれた。そこは受付で木製カウンターの上に電話が置かれているだけで人はいない。受付嬢がいるのかいないのかは分からないが、いたとしてもこの時間だからランチにでも出ているのかもしれない。
入ってドアを後ろ手に閉める。カウンターの向こうにドアがあるが、さすがにそこは外から来た人間が入る場所ではないだろう。左側は壁で自然と右へ視線を向けると通路が延びていて、その突き当たりにやはり木製のドアがある。そこへ至るまでの通路の左側には応接室と思しき部屋が二部屋。ここで依頼人の話を聞くのだろう。応接室を通り過ぎて最奥のドアを開く。
「うわぁ」
思わず俺の口から出た声は、やや悲鳴に近かった。
部屋は角部屋を生かして家具が配置されていて、俺が入ったドアの斜向かい、部屋の角の前に大きなデスクと革張りのソファが鎮座している。恐らくこれが雅さんの執務用のデスクだろう。
足下から天井までのハメ殺しの窓が壁面と等間隔に並んでいて室内は明るい。そのデスクの前に互い違いに置かれている二つのデスクは他の弁護士かパラリーガルのものだろう。雅さんのデスクのある方の壁際にコピー機とシュレッダー。 そこから左へ通路が延びているが、恐らく受付の後ろのドアの向こうに繋がっていて水回りだろうと推測できる。
俺の入った方の壁際にはステンドグラスが填め込まれた木製の書棚。右手にはミーティングルーム。こちらのデスクや椅子はカラフルでちょっとホッとする空間になっているが、事務所は全体的にクラシカルな内装で落ち着く。
事務所に雅さんはいなかった。鍵が掛かっていないのは不用心すぎるが、俺が来ることを想定して敢えて鍵を掛けずに近隣へ出かけただけかもしれない。
とは別に雅にさんがいなくて正解だったと思う程に部屋の中は荒らされてメチャクチャだった。俺の口から出た悲鳴は正にこの光景の所為だ。壁際に並んだキャビネットのガラスは粉々に割れていて、カーペットの上に落ちた破片が陽射しを受けてキラキラと輝いている。
雅さんのデスクの方へ回ると引き出しの鍵が壊され中身が床にぶちまけられており、椅子はクッションや背もたれが切り裂かれ、室内にある花瓶や時計などの置物も悉く叩き割られている。侵入者が何かを探し出すために押し入ったのは明白だったが、一体何を目的にすればここまで徹底的に破壊行為ができるのかちょっと理解が追い付かない。ここまでくると物取りではなく嫌がらせと思えなくもないが、昨日の襲撃に続いて今日のこの有様だ。
一体、鷺ノ杜雅とは何者なのか? なぜここまで執拗に狙われるのか? 狙われたのは昨夜と今日だけなのか? もし昨日と今日以外に狙われた経験があるとしたらそれは一体何故なのか? 何者が彼女を狙っているのか? 彼女は何を隠しているのか? それともいま抱えている案件絡みで狙われているのか? だとしたらその依頼とは何だ? 様々な疑問が頭の中を駆け巡る。
俺は荒らされた事務所の中で暫く呆然と立ち竦んでいたが、我に返るとひとまず不審者が隠れていないか確かめるために室内を一周した。
受付裏の部屋と思われるドアを勢いよく開けると案の定キッチンと冷蔵庫と収納棚があったが、そこにある高級カップとソーサー、クリスタルのグラス類は全て粉々に割られて床に散らばっている。念のために冷蔵庫も開けてみたが、中に入っているのはミネラルウオーターと炭酸水と氷だけで、こちらは手付かずだった。だが徹底した荒らし方を見ているとやはり破壊自体が目的に思える。
俺は事務所内に不審者がいないかを確認し終えると、急に怖くなってヘナヘナと雅さんの椅子に座り込んだ。その椅子は高級品の極みなのか、切り裂かれていても俺の脱力した身体を柔らかく受け止めてくれる。そうやってバクバクする心音を聞きながら深呼吸を繰り返し窓外を見ているとドアノブがガチャリと音を立てた。その音を聴き俺は反射的に身を竦ませたが入ってきたのは待ちかねた雅さんだ。
「あら、来ていたの。待たせて悪かったわね」
空襲後のような部屋の惨状に驚きもせず雅さんが遅参を詫びるのを聞いて俺は直感的に彼女はこの状況に慣れているのだと悟った。
「お邪魔しています。じゃなくて、この状況を見て何故そんなに平気でいられるんですか?」
思わず語調が強くなるが雅さんは全くたじろがない。
「平気な訳がないでしょ」
と皮肉っぽく微笑む。少なくとも全く平気ではないと見て取れ俺は少しホッとした。これで平気と言い切るなら雅さんは絶対にサイコパス確定だと思ったのだ。
「鍵は?」
「弁護士に聞くことじゃないでしょ」
つまり鍵は掛けていたのだ。だが事務所の入口のドアにこじ開けた形跡はなかった。つまり相手はピッキングを得意としているのだ。
「これまでに同様のことが?」
「そうね、もう数えるのが面倒になるくらいは」
あっけらかんと言う雅さんの態度に俺は頭痛を覚える。この事務所の中は個人情報の宝庫だ。なのに何故そんなに平気そうな顔をしていられるのか。しかも何度も被害に遭っているのに。
「警察には?」
「三度目までは通報したけどね」
つまり窃盗の証拠がないということか? だが、昨日パトカーの中ではなく県警本部に連れて行かれた事には納得がいく。本部は雅さんを知っていたのだ。
「とりあえず片付けてくれない?」
片付けろと命じるとは高飛車の真骨頂だ。でも俺の身体は思いとは裏腹に勝手に動き出していた。昨日から感じていたことだけど、どうにも俺は雅さんに逆らえない体質のようだ。このままだと下僕になる日も近いかもしれない。
まずはキッチンや事務所の床に散らばった割れ物の欠片を片付ける。俺が片付けている間に雅さんは内装会社に電話して新しい家具の手配をしているから肝が据わっている。その姿に半ば感嘆しながら散らばっている書類を集めようと腰を屈めた時に気付いた。
荒らされてはいるけど床に散らばっている依頼や調査関係の書類が異様に少ない。昨日の奢侈や事務所の推定家賃、内装や高級家具諸々と仕事の数が見合わないのは学生の俺にでも分かる。
「書類を隠しているんですか?」
「当然の危機管理でしょ」
雅さんの視線が破壊された書棚の奥の方に向けられる。それで俺は得心した。隣にカラクリ付きの隠し部屋があるのだ。
「今、抱えている案件は何ですか?」
「浮気中の夫への離婚訴訟。妻曰く、愛人宅にしけ込んでいるから家裁へ出廷するよう内容証明を送ったところ」
事務所荒しには関係なさそうな依頼だ。その時、受付からの内線が鳴る。郵便でーすの声が受話器を介さずとも耳に入るが、この部屋を見られる訳にはいかないので俺が受け取り雅さんに渡すと雅さんの眉が顰められた。
「何か?」
「愛人宅へ送った内容証明が宛所不明で戻ってきたわ」
「住所が間違っていたってことですか?」
「それを調べるのが調査員の仕事なんだけど」




