第一章【二】
女性の声は高くも低くもなく、しかもこんな目に遭っておきながら全く怯えた様子もない冷静な声だった。それだけではなく王者の風格とでも言うべきか、とにかく逆らえない何かを含んだ声音で、俺の身体は意思とは反してまるで下僕のように彼女の声に従っていた。
「何で止めるんですか?」
やや怒気を含んだ俺の問い掛けにも動じる気配はない。
「追っても無駄だからよ。死にたいの?」
その言い草にムカっときた。助けてやったのにそれはないだろう。
「学生さん?」
「そうですけど」
そこで女性はフッと笑みを浮かべたが俺にはその笑顔が嘲笑に見えて、さっきの黒づくめに対してのものとはまた違う怒りが湧いた。
「貴方みたいなのを無鉄砲と言うのよ」
なんだと!? 助けてもらっておいてそれはないだろう。
「ちょっと、アンタね」
人を見下す女に対して言い返そうとしたが、その声はその女が上げた手によって口の中に引っ込んでしまった。どうしちまったんだよ俺! さっきからこの澄ました女の言いなりじゃないか!?
「それより怪我の手当てをしてくれない? それと警察への通報もお願い」
命令口調に啞然とした。初対面の、しかも一応命の恩人に対してこんな態度を取るその神経に呆れるが、傷の様子を見ると左腕に銃弾が掠めたような傷があり出血している。
「ハンカチ持ってないですか?」
俺の言葉に女の眉が顰められた。
「貴方、ハンカチも持っていないの?」
「それはこっちの台詞ですけど」
俺がそっけなく言うと女は耳を疑うようなことを口にした。
「私のはフォクシーなのよ。血で染めたくはないわ」
俺の表情は器用に歪んだことだろう。怒りとか憤怒とか複数の負の感情が脳内をグルグルと駆け巡り、言葉を捻り出そうにも言語機能にダメージを受けたかのように口が動かない。
いや、とにかく相手は怪我人だ。俺は怒りを抑え付けると自分のハンカチを取り出して彼女の傷に巻き付けた。が、そのハンカチはすぐに血に染まってしまう。思っていたよりも重症かもしれない。俺は警察に通報するのと同時に一一九番へも連絡した。ちなみに後から知ったことだが、フォクシーはハンカチ一枚が一万円以上する代物らしい。
やがて遠くから二種類のサイレン音が響いてくるのが聞こえた。俺はその音で正気に戻ると草地に倒れ伏すロードバイクを見やり、ロードバイクと呼ぶには相応しくない形になったそれを見て絶望に打ちひしがれた。人を助けるためとは言えバイト一年分の宝物が今やガラクタ同然に変形している。
「くそ、なんてこった」
「貴方の自転車?」
相変わらず高飛車な色を帯びた声に俺の神経が逆撫でられる。
「そうだよ、アンタを助ける為に一年間の労働対価がお釈迦さ」
「それは悪かったわね」
全く悪いと思っていない口調で謝られても余計に頭にくるだけだ。どうにもムシャクシャして怒鳴り付けたくなったが、その感情は目の前に止まったパトカーと救急車の存在によって押し留められる。
その後はいつも静かな公園が喧噪に包まれた。女の傷は見た目の出血とは真逆に軽傷だったようで、救急車の中で応急処置を受けた際に外科のある夜間救急外来へ行くよう諭されて終わった。だが警察の事情聴取の方は簡単にとはいかなくて、俺達はひとまずパトカーの後部座席に座らされる。
車の中から公園を見ると鑑識が捜索するような動きがない上に俺のロードバイクには誰も見向きもしない。そんな中、警官は俺達に身分証明を求めてきた。通報時、名前と同時に銃で襲われたと伝えたのにと思いながらも「あ、夜久と」と名字を口にしようとしたその時、女が高飛車に宣った。
「ちょっと、事の重大性が分かっていないのかしら? この坊やが見たままに通報したのに鑑識も連れて来ないだなんて役立たずにも程があるわ。こんな所で聴取していないで本部に連れて行きなさいよ」
嫌な女だけど言っていることはまともだし、何よりも俺の通報内容がキチンと精査されていなかったんだとそこで始めて悟った。どこまでも平和な日本人は、例え警察であっても銃や銃撃というキーワードを伝えてもそれが現実だとは思わないのか。
昨今、いや過去にも警察官が拳銃を奪われた上に民間人が銃撃される事件が起きているのに、それでもまだ危機感を持てないのか、それとも警官が銃を奪われた事件が起きていないから軽く聴取だけして適当に幕引きをしようとしているのか。もし今、あの黒づくめが木立の中からこちらに銃口を向けていたとしたら、最初に狙いを付けられた一名は確実に犠牲になる。
そこまで考えたとき俺の背筋に悪寒が走った。黒づくめの刺客は御丁寧にフルフェイスのヘルメットと登山用の厚手の手袋を身に付けた上に、体型が分からないようスノーボーダーのようなダボっとした服を着ていた。存在するとしたらあれは殺しのプロだ。と考えると、やはり自分が無鉄砲だったと思うしかないが助けたこと自体に後悔はない。
勿論、助けた相手がこれほどまでに高飛車で人を小馬鹿にする女だとは思っていなかったからだが、素直に感謝されて気持ち良いのかと自己に問えば、それもまた違うような気がした。
そうして昂りが少々落ち着いて改めて女性を横目で見やると、その美貌に心臓がドキリと波打つ。薄紅色の口唇、切れ長で涼やかな目元、白く滑らかな肌と項、手足は細くやや小振りながら形の良い胸は俺が見ても分かるほど上質の生地で作られたブラウスの下から盛り上がっている。
地毛なのが染めているのかは分からないが、明るい茶色の長い髪は毛先が縦ロールの巻毛で日本人離れした華やかな顔立ちにとても似合っているが、涼やかに見える目は炎を飲み込んだような勝気な色をしていて、俺の頭の中に『扱いにくい驕慢な美人』と、らしくもない詩的な言葉が過った。
運転席では暫く無線のやり取りをしていたが、警官の『ええ!』という叫びにも似た声が気になった。どういう返事が来たのだろう。興味は涌くがそれを知らされないままパトカーが走り出した。どうやら本当に本部に向かうようだ。となると、俺達は刑事に事情聴取されるという事だろうか? 隣で女は目を閉じて車の振動に身を任せている。あんな目に遭ったのにこんなに冷静にいられることに驚くと同時にある確信めいたものを感じた。彼女はこの状況に慣れているのかもしれないと。
県警本部に到着すると俺達は案の定刑事部に案内された。県警本部には随分と前に通信指令室と交通管制センターを約一時間の説明付きの見学で来た事があるが、それ以外の部署が何階にあるのか俺は知らない。一緒に行ったクラスメイトが帰りに案内板を見て何部が何階にあるかを教えてくれたが、遠い記憶すぎて思い出せない。
もっとも、警察署にお世話になることなんてない方が良いから、何がどこにあるかなんて知らなくても支障はない。そんな事を考えながら導かれるがまま歩いて行くと広い会議室に通された。俺はてっきり取調室に連れていかれると思っていたからこれには驚いたけど、容疑者ではない者を取調室なんかに通したらそれはそれで問題なんだろうな。
会議室の無機質なパイプ椅子に腰掛けるとすぐに冷たい麦茶が出された。それを見て俺は突然喉の渇きを自覚して一気飲みしてしまった。そしてホッと息を吐くと事件に遭遇した現実感が湧き出し、同時に事情聴取への緊張感が高まる。何を聞かれるんだろう? いや、見たままを言えば良いんだ。そう自分に言い聞かせているとドアが開いてガタイが良く目付きの鋭い中年の刑事が入ってきた。
「わざわざどうも」
見た目と違い声音は柔らかい。差し出された名刺を見てみれば土谷玄とあり階級は警部だった。
「さて、まずはお二人のお名前から伺っても?」
そこにきて俺は漸く高飛車な女の名を知ることになる。彼女は土谷刑事に名刺を差し出す際に俺にも寄越したのだ。だがそれを見た俺は目を見張った。そこには、弁護士・鷺ノ杜雅と記載されていたのだ。
「え、アンタ弁護士なの?」
絶句するしかなかった。あんな高飛車な性格で被害者に寄り添えるのだろうか? 論点がズレていると分かってはいるが俺の疑問はまずそこだった。
刑事が鷺ノ杜雅の名刺を見て少し目を細める。何か刑事の勘に引っかかるものでもあったのだろうか? それとも弁護士先生の名前を知っているのか。だが彼は何も言わず、事件の詳細の説明を求められた俺は見たまま行動したままを説明した。
「その銃は本物だった?」
「そんなの分かりませんよ」
俺はぶっきらぼうに答える。あの緊迫した中で銃が本物か玩具かなんて見定められる手立てなんてないし、実際に鷺ノ杜雅は銃創と思われる手傷を負っているのだ。本物だと思うに決まっている。
「その黒づくめの人物は男性だったのかな?」
その質問を聞いて俺はフリーズした。勝手に男だと思い込んでいたが黒づくめの身のこなしはとても軽く、男性と言い切って良いのか分からなくなったのだ。俺は正直に答えつつ、悪戯目的で通り掛かった女を襲撃したのではなく鷺ノ杜雅を狙ったのは確かだと思うと付け足した。
「話しは分かりました。鑑識を公園に向かわせたので銃弾が見付かれば何らかの手掛かりが得られるでしょう。失礼ですが鷺ノ杜先生、何か襲われる心当たりはありますか?」
そうだ、それだ。何故あいつはこの女を狙ったのか? 恨みがましく警察や検事、裁判官を狙うならともかく、弁護士を狙う理由が思い付かない。個人的な恨みでないなら組織的な恨みか? だがいくら高飛車な女だとは言え、それを殺意の原因とするには動機が薄い。
「別に」
想定はしていたが、刑事の質問に鷺ノ杜雅は取り憑く島も無い返事を返して場を白けさせた。
「えっと、夜久歩夢くんだったね。君の勇気には敬意を表するが無茶なことをしてはダメだ」
俺の方は無鉄砲さを叱られる羽目に陥ったばかりか、形ばかりとも思える事情聴取は三十分程度で終わり、俺達は県警本部の玄関で刑事に見送られた。




