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調査員A  作者: 香紫日月
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第一章【一】

 俺はデリバリーのバイトを終えて帰路に着いていた。アンカーのロードバイクRL3はアンカーの中では一番安価だが、学生の俺にとっては一年と二ヶ月のアルバイトでの報酬の約半分を投資して手に入れた宝物である。

 乗ることが、そして走ることがとてつもなくハッピーで、だからハードだけどデリバリーのバイトを選んだ。勿論通学にも使用している。

 背負ったデリバリー用のバッグには今日の夕食が入っている。

「おい歩夢、これ持って行きな」

「夜久くん、良かったらこれも」

 町中華の大将夫妻の温かみが背中から感じられる。夕食を貰ったこともあってバイトを早上がりしたけど、十七時を回ろうとしているのに空が明るいのは夏至を過ぎた時期だからか。雨期に入り買い物に出たくない人が増えたおかげで今は繁忙期だ。

 雨に濡れながらの配達は一層の注意が必要だし正直辛い。それに勉学そっちのけでバイトに明け暮れて大学の単位を落す訳にはいかないし、怪我をしても労災が認められないフリーランスな業種だけに現実は厳しい。とは言え繁忙期の稼ぎを逃す手はない。頑張って貯金をして次は更に上のロードバイクを買う。それが今の俺の夢だ。

 信号が赤になり俺は停止した。目の前にダラダラと長く続く坂が待ち構えている。別名、心臓破りの坂。この別名は俺だけのネーミングだが、この坂を自転車で駆け上がるのは苦行と言っても間違いではないだろう。

 初めてこの坂を登った時は一気に登り切ることができず途中から自転車を押して歩いた。あの時は普通の自転車だったが、空手で鍛えた十九歳の身で自転車を押す姿が不格好に思えて気持ちが萎えたっけ。あれから一年、俺はこの坂を攻略した。それでもこの坂はアパートに帰る前の最後の難関であることに違いはない。

 信号が青に変わった途端、俺はロードバイクのペダルを思い切り踏み込み坂へ突進した。長々と続く急斜面を一心不乱に上る。坂は途中から大きな公園の横を添うように進む。日が暮れると鬱蒼とした森が広がる真っ暗な空間になるから男でも怖いと思う場所だが、これを登り切れば自宅アパートは目の前だ。

 頑張れ自分。そう思った俺の耳にパンという乾いた音が響いた。最初は車のタイヤがパンクしたかバックファイヤーかと思ったが帰宅ラッシュの車の波の中にはそんな気配は微塵もないし、何より音が聞こえてきた方向が違うような気がして俺は坂を上りながら車道とは反対側の公園をチラリと見た。

 その瞬間、目の端に立ち尽くす女性の姿が過る。チラ見程度でも十分すぎるほどその美貌が分かる美人だ。それもあって俺はテレビか映画の撮影かとも思ったが、それにしては撮影に関わるスタッフがいないのはおかしい。実際に撮影現場に居合わせたことはないものの、少なくもカメラマンや音声、照明のスタッフが存在する程度の知識はある。だが立ち尽くしている女性の周囲にスタッフらしき人間の姿は全くない。

 俺はそこで初めて自転車を止めた。一度止まればこの坂を登り切るのは至難の業だが、今はそんなことを考えている場合ではないような気がしたからだ。そして女性とその周辺を観察する。すると女性から三メートルほど離れた木立の中に黒づくめの人の影を認めた。そしてその手には黒々とした光を放つ小型の拳銃が握られている。

 そこは広大な公園の中で、確かにここなら人気がないから誰かを襲うには打って付けの場だ。だがそれにしてもこんな夏至の明るい夜に襲うなんて相手はどんな奴なんだ?

 しかも大きな公園と言ってもこの場所はまだ入口付近で、俺を含めた三人の立ち位置のすぐ目の前には住宅街が広がっているのに。ただ、その住宅の住人の中には音を不審に思って飛び出したり窓を開ける人は皆無だったが。

 単にバックファイヤーだと思っているのか、面倒なことには巻き込まれたくないのか、そもそも何か危機的な状況が繰り広げられているとは想像すらしないのか。恐らく三つ目だろうと俺は思った。

 平和な島国は昨今のオーバーツーリズムで治安が脅かされているが、都市の中とは言え都心部から離れた観光地でもない住宅街で何事かが起きるとは誰も考えもしないのだろう。

 そんなことを考えながらも俺は焦った。銃口を向けられている女性は微動だにしないが恐怖で動けなくなっている可能性は大だし、そもそも一度銃声がしていることから深手を負っている可能性も捨てきれない。俺はロードバイクの向きを公園の中で佇むその女性の方へ向けるとハンドルを強く踏み込んだ。

 女性に近付くにつれ事の重大さが分かってくる。女性は既に手傷を負っているようで腕を押さえて青々とした葉を繁らせる桜の木にもたれ掛かっていた。

 公園の外から見た目算は間違いなく、女性から約三メートルの至近距離の木立の中に隠れるようにして黒いフルフェイスのヘルメットの男。と言っても銃を持っているからそう判断しただけで実際の性別は不明だが、ダボッとした黒ずくめの服の人物の構える小型の銃が放つ光はまるで死神の鎌のように不気味で不吉だ。

 俺は頭の中が真っ白になった。なにせ大学とバイトだけで一日が終わる生活だ。そりゃあサークル活動や飲み会にも参加するが、平凡な学生の俺がまさかこんな犯罪に直面するなんて想像すらしていなかった。

 だけど人間の反応って凄い。俺は自分の命より大切にしていたロードバイクが壊れるのも厭わず濡れた草地を利用して横に滑りながら男に車輪をぶつけていたのだ。

 だが相当激しく当たったつもりだったのに黒ずくめは少しよろけただけだ。咄嗟にこいつはただ者ではないと思った。人間は自らの足への打撃を想定しない。だから俺はその心理を逆手に取って足を狙ってロードバイクを滑らせたのに、相手にとって足は弱点ではなかったのだ。

 この世に本当に存在するなら黒ずくめはプロの殺し屋か、或いはプロの格闘家に違いない。無論、俺の推測でしかないが、あながち間違ってはいないだろうと思う。

 俺は倒れた自転車を蹴り上げて立ち上がると女性と黒づくめの間に立ち塞がった。俺の体型は細長い。

 身長は一七〇センチで体重は六〇キロ。日本人としては背が高い方で体重も身長からすれば標準的な数値だが、バイトでロードバイクをひたすら漕いでいるのと、小学生から続けている空手のおかげか同年代の男性より引き締まっている。 ただ筋肉質ではないからただ細いだけに見られてしまうのが難点だが、実はこう見えても俺は空手2段だ。

 とは言え、殺しのプロかもしれない暴漢の前に立つのは正直怖かった。いつあの拳銃が火を噴くかも分からない。でもこのまま女性を見殺しにするわけにはいかないと、俺はただそれだけを考えて腹に力を入れて立ち構えた。

 俺がただ血気盛んなだけのお節介野郎だとでも思っているのか相手は動かない。でも、何かしら武道をやっている人間ならこの黒づくめと対峙した時、こいつの威圧感が並大抵のものじゃないと分かる筈だ。少しでも気を抜けば何を仕掛けられるか分からない冷酷さが全身に纏わり付いている。

 どのくらい対峙していただろうか。俺は焦れた方が負けだと分かっていながらも焦りを隠せなくなっていた。夏至の空もドンドンと薄暗くなっていく。だが車の数が増えていくのとは真逆に人は一向に通りかからない。警察に通報しようにも黒づくめの見えない視線に射止められているのと微動だにしない銃口から目が逸らせない。

 ヤバいと思った途端に身体に恐怖が走り悪寒が湧く。いや違う、これは武者震いだ。俺は自分にそう言い聞かせながら、勝機を手にするためには先手を打つのも策としては有りだと考えを改めた。

 間合いを計り、だが相手に悟られないよう俺は機敏に動き渾身の前蹴りを繰り出した。だが、その左足は手応えを感じないまま空を切り重力に従って下に落ちる。

 え? と自分でも信じられず俺は地に着いた足を見つめた。おかしい、確かに届いた筈だった。計算にミスはなかった筈だし、少なくとも空気の抵抗から小さく見積もっても相手の頬を掠めたくらいの手応えは感じ取れていた。

 相手を見る。微動だにしていないようだが、よく見ると僅かに横にズレているのが見て取れた。あの瞬間に黒づくめは咄嗟に身体を捻って俺の蹴りを避けたのだ。

「この野郎!!」

 俺は間合いを詰めながら正拳を繰り出す。だが、それも虚しく空を切る。その後も裏拳と回し蹴りの合わせ技や抜き手を繰り出して相手を追い詰める。いや追い詰めたつもりだったが、なにひとつ届かないばかりか、相手は息ひとつ乱さずに俺の動きを予測して避け続けている。反対に俺の方はと言えば息が上がり肩で息をする無様な有様だ。

 俺はハアハアと荒い息を吐きながら相手を見据えた。黒づくめは一糸乱れぬ姿でそこにある。そう、立っているというよりはまるで石か大木のようにそこに佇んでいた。

 まるで意思の力で自らの感情を封印しているかのような無の視線を目の当たりにした俺の中に畏れが生じた。

『こいつは只者じゃない』

 それどころか俺は禁じ手を使ってしまったのかもしれない。だからと言ってここで引き下がれば女性は確実に殺される。どうにかしてこの不利な状況を打ち破って女性と逃げ出す方法はないかと頭の中をフル稼働させて策を考え、思い付いた。

 空手技をこれだけ繰り出しているのに銃を使わないということは、俺を殺す気はないということか? なら女性だけを逃がせれば少なくともこの場は凌げるのではないか?

 だが危惧もある。女性だけを逃がしても漆黒の暗殺者は別道で女性を狙うかもしれない。やはり俺がいなくてはと思い直した時、黒づくめが不意に踵を返して走り出した。

 目的を放棄したのか? いや違う、策を変えたのだ。そう考えると怯えより怒りが湧き上がる。このまま逃がしてたまるもんか。

「待てよ!」

 俺は草地に倒れたロードバイを踏み付けて追かけようとしたがそれは怜悧な声で止められた。

「追いかけないで!」

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