第四章 【二】
翌日、俺と四音と藤田は雅さんの事務所のドアの前に立っていた。雅さんとアポが取れないとか、講義が立て込んでいるとか、多種多様な理由をこじ付けて諦めるよう四音を説得したが、そもそも彼女が言い出したことを止められる人間なんてこの世に存在しないんだ。
結局、俺は四音に押される形で雅さんの事務所に来る羽目に陥っていた。無論、アポ無しの突撃である。さすがに事務所の合鍵を託されるほどではないバイトだし、合鍵を使うほど一人で事務所に入ることもないからと必死に説明してそこは理解してもらえたが、不在なら不在で待つだけだと強固に言われたらもう何も言い返せない。
そうして四音に引きずられる形で事務所に着いて扉のノブを捻ってみれば鍵はかかっておらず扉はすっと軽く開いた。その時、俺の頭の中には初めてこの事務所を訪れた日のことが浮かび、不意に胸が苦しくなる。
もしまた事務所が荒らされていたら? もし事務所荒らしの犯人がまだ残っていたら? 俺達が入っていったことで口封じとばかりに襲われたら? そんな悪いことばかりが頭の中を過り、俺は無意識に四音を守るように前に出て靴音さえ飲み込むカーペットの上を歩いた。
二つ目の扉を開けるのには勇気がいった。四音も藤田も俺の尋常でない緊張感から察してくれたのか、急かしたりはしてこない。でもこの二人、帰ろうとも言ってくれないから洒落にならない。俺は事務所荒らしのことだって話してあるから、再び同じことが起きているかもしれないと分かる筈なのに、雅さんに会うことへの興味の方が勝っているなんて危機感がなさすぎる。
でも、これってつい最近の俺の姿かもと気付いてハッとした。好奇心を抑えられず危険だと分かっていても、または不審だと思っていても自らで確かめたくて、通報するより自らで飛び込んでいってしまう。若さ故の無謀だが、一歩間違えれば命の危険だってある。そのことが重くのしかかってきて、俺は今更ながらに自分の浅慮を深く反省した。
四音と藤田はあの日の俺だ。だけど、それを知っていても危機感も緊張感も抱いていない二人を見て、人間は一度痛い目をみないとそれが危険なことだとは理解しないのかとも思った。しかも四音と藤田は法曹一家なのにだ。だけどそんな風に考えて不安に感じるのがバカバカしくなる状況に俺は腹を括った。事務所荒らしがいたらその時は俺と藤田が空手で撃退すれば良いだけだし、その間に四音が警察に通報すれば良いと思うと気持ちが幾分楽になり、俺は扉を開けた。
「あら」
雅さんはいた。良かった、鍵が開いていたのは在室していたからなんだ。ホッとした俺は急に足から力が抜けて座り込みたくなったが、そこはグッと堪える。四音に見られているってのが色々な意味で心身に効いているらしい。
つい先日までブラウスの袖口から見えていた包帯が消えている。抜糸したのだろうか。雅さんのファッションのスタンスは法定でスーツを着るせいか夏でもブラウスは長袖を着るとのことだが、袖の素材が透けるシアーブラウスだから白い包帯が透けて見えていたんだよな。傷痕はまだ残っているだろうし、包帯が取れただけで傷口には何かしら処置は施されているだろうが、救急隊員が言うように本当に軽傷だったようで俺は安堵した。
「こんにちは、包帯取れたんですね」
「お陰様でね。で、どうしたのかしら? 暫くは講義でバイトには来られないって言っていたのに」
雅さんが微笑んだ。その瞬間、パッと花が咲くように空間が明るくなったように思えたのは気のせいじゃないだろう。だって四音が、あの四音がボォっと見惚れているんだから。 藤田を見るともっと分かりやすい。何せ顔を赤らめているんだから。でも俺の方も他人事じゃなく雅さんの微笑みに生き返った心地がするから、彼女の存在感って凄いんだなと改めて感心してしまった。癒やし系キャラじゃないけど、微笑みひとつで警戒心を取り去るなんて凄い。
でも同時に考える。俺一人が事務所に姿を見せたらこうはいかなかっただろうなって。きっと興味なさげに何しに来たのかしらって言われていたのがオチだ。となると、雅さんは俺の後ろにいる四音と藤田にそれなりに気を使ったと考えて良いのだろう。つまり来客用の対応ってことで、普段俺に見せている態度が雅さんの素なんだと思うと、雅さんがアカデミー賞級の女優に見えてくる。
普段、依頼客にもこんな風に接しているなら、この見かけだけで依頼人は素の雅さんを知ることもなく弁護士として雇うのだろう。でも、受けた依頼に大小はないと言い切り、しっかりと裏取りするから舐めてかかって依頼した人間は後から痛い目に遭うことなる。それが正に別府千秋だろうか。
「随分と若いお客様だけど、歩夢くんのお友達ならお安くしておくわよ」
これは皮肉なのか本気なのか。俺には皮肉にしか聞こえないけど、藤田はずっと赤い顔をしたままだ。おいおい、いつだったか姉ちゃんSに囲まれているから女の見かけに騙されやしないって威勢よく言っていたのにどうした?
「依頼じゃないんです。やっくん、じゃなくて夜久くんがどんな所でバイトしているのか気になって。すみません、弁護士事務所なのに好奇心を抑えられず軽挙でした」
四音はさすがに同性だけに雅さんの微笑みに呆然としたものの、その後はすぐに我を取り戻したようで、至極真っ当な謝辞を述べた。姉の一人が弁護士だからか、この場所が機密事項で溢れていることをすぐに悟ったようだ。双子なのに男と女ではこうも違うのかと俺は逆にここで啞然として、笑いを堪えるのに苦労した。
「あら、礼儀正しくて可愛いお嬢さんね」
その一言で四音の目がハートマークになった。嘘だろ? こんなに簡単に雅さんに踊らされるなんて。傍目から見ると恐らく俺も四音と同じだったに違いないと思うと顔から火が出そうだけど、考えてみれば弁護士って弁が立つんだよな。それって依頼人の前とか法廷でだけだと思っていたけど、どうやら違ったようだ。
雅さんが俺に対する時とは全く違う手法を取ったことで彼女の二面性も明らかになって俺は複雑な気分になったが、考え方を変えれば雅さんが人を見てそれによって対応を変える優秀さを持ち合わせているってことになる。俺に見せた顔は表なのか裏なのか?
あの突っ慳貪な毒舌は裏なのか表なのか? だが半ばサービス業に近い弁護士が普段sあんな対応をするとは思えない。と考えると俺に見せた方が表の顔で、四音に対する方が裏。つまり営業スマイルってやつだ。そう考えてなんだかホッとしたことに愕然とし俺は俺を叱咤した。俺はマゾじゃないぞ!! と。
「歩夢くんには頑張ってもらっているわ。命の恩人でもあるし」
うーん、なんか嘘くさく聞こえるんだよな。穿ちすぎなのは分かるけど命の恩人はともかく、頑張ってもらっているってのはどうも白々しく聞こえる。頑張らされている感が半端ないし、自分が入ってはいけない領域まで足を踏み入れている気もするし、それこそ殺人の疑いを掛けられた時に警察に雇用主を呼び付ける失態を犯しているから、どうにも雅さんの言葉を素直に受け入れられない。
「やっくんは昔から頑張り屋なので」
「そうなの、それは心強い人を雇用したってことね。運が良いわ」
なんだろう、この会話。四音は本音だろうけど雅さんの方は芝居掛かっている。いつまでこの茶番が続くのかな。止めた方が良いだろうか。と思ったら四音がズバリと言い放った。
「あの、これまで手に掛けた案件をお聞きしても?」
雅さんの表情がパッと見には分からない程に器用に歪んだことは言うまでもない。そこに踏み込もうなんて四音の奴、なんて大胆なんだ。
「具体的な事件名は依頼人の利益を損ねることになるから言えないけど、刑事民事双方を手掛けているわ」
「え、刑事と民事の両方をですか?」
四音の声から雅さんへの憧憬が消えて真面目に驚いている口調になった。俺も驚いたけど、やはり法曹一家育ちでもそこは驚くことなんだな。
「よく驚かれるけど、仕事を選んでもいられないしね」
つと視線だけで事務所の室内を見渡す。凄い演技力だ。つまり、ここの賃借料を払うために仕事を選んではいられなくて、依頼されれば何でもこなすと言外に言ったつもりなのだろう。でも、そんなにシャカリキになって働かなきゃここの賃借料を払えないなら、事務所の場所をもっと安価な所へ移せば良いだけで、雅さんもそんなことすら分からない人ではない。そもそも自転車操業なら俺を調査員として雇ったりはしないだろう。しかも、バイトとは思えないほどの破格の待遇で。
金はあるのだ。言い換えればそれだけ報酬を貰っているということで、それがどんな案件をどれだけこなしているかっていう質問への明確な答えだろう。四音だって気付いている筈だ。雅さんが身に付けているものが、地味に見えるものの仕立てが極上の逸品だったことを。
「ドイツ在住時代は?」
しまった、ドイツのことを口止めするのを忘れていた。俺はアワアワと四音を止めにかかったが、雅さんの表情は動かない。俺が知っているだろうってことを既に悟っていたのかな? そりゃ土谷刑事に会っていたことを黙っていても見抜いた人だから、当然ドイツにいたことも聞き及んでいると想定しても何ら不思議なことではない。
「ドイツ、ドイツね〜 あまり話したくないのよね」
ドイツ在住を認めたことに俺は驚いた。彼の国にいたことは雅さんにとっては口にしたくない思い出だと思っていたから。それとも警察が雅さん自身のことを調べ尽くしていることを察しているなら、隠しても無駄だと思ったのだろうか。でも警察は赤の他人にそんなことを打ち明けやしない。
学生相手に何故そんなことまで答えてくれるのか? 四音や藤田には真摯に対応する振りをして適当にあしらっても彼女の仕事に影響はない筈だ。雅さんの考えていることが全く分からなくて俺は混乱した。




