第三章【五】
振り向く間もなく俺は四音に背後から抱きつかれた。うわぁ、大学内のカフェでそれはやめてくれ。意思に反して顔が赤くなり胸が高鳴る。この動揺と動悸を四音に聞かれるのが気恥ずかしくて藤田に助けてくれと目で訴えるも奴はゲラゲラと笑うだけだ。
「し、四音。ここは日本だから、頼むから離れてくれ」
俺が若干気弱な声でそう懇願すると、確かにと納得してくれたらしく四音は俺の背中から離れて向かいの藤田の隣の席に座った。すっかり海外ナイズされてスキンシップが激しくなった四音の顔を見て俺の心臓はドキドキを遙かに上回ってギュッと締め付けられたように苦しい。静まれ俺の心臓。
そう命じても俺の身体の一部なのに心臓はドキドキしっぱなしなのは、背後から抱きつかれた驚きではなく四音の存在そのものなのは既に嫌というほど自覚している。四音の方が俺を思っているなんて都合の良い言い訳であって、実際には俺の方が彼女にぞっこんでチャンスがあれば俺がオーストリアまで飛んで行きたい気分だったのだから。
実の所、デリバリーのバイトにのめり込んでいたのも渡航費を貯めたいと思ったからで、あくまでもロードバイクは次点なのだ。ただ、ロードバイクを手に入れたことが益々バイトに精を出す切欠になったのは紛れもない事実で、更にその延長線上に鷺ノ杜雅との出会いがあるから人生とは皮肉なものだ。
それにしても四音。再会するのは留学する際に彼女を空港に見送りに行った以来だろうか? 相変わらず可愛いが、欧州で過ごしているせいか元から良かったセンスや所作が益々洗練されて社交界にデビューしたご令嬢のようだ。
どうして彼女からのメッセージを既読スルーしてしまったんだろう。心身共に既読スルーができるような相手ではない筈なのに俺は馬鹿か? それとも事件に関わっているうちに感覚が麻痺してしまったのだろうか?
それにしても藤田の野郎も性格が悪い。四音が帰国していることを知っていたのに黙っているとは。俺を引き留めて現状を聞くついでにカフェへと誘導したのも全てこのサプライズのためだったのかと思うと若干腹立たしい。
「二人して俺を嵌めたのかよ」
「まあまあ、そんなに目くじらたてるなよ」
「やっくん、元気してた? 返信が来なくて心配してたんだよ」
もしや本気で俺が心配だったってだけの理由で帰国した?
「んな訳ないだろ、欧州はバカンスシーズンだ」
「なぁんだ」
俺の慢心はド初っ端から挫かれた。まあ、もしそうだったなら逆に四音を重く感じてしまったことだろうが。
「でも心配はしたんだよ。バイトが忙しすぎて倒れてやしないかって」
言い回しは俺を心配する体だが、明らかにバイトより下位にされたと感じて四音は拗ねている。けど、彼女の言うバイトはデリバリーの方だろう。つまり俺はこれから四音に事件に巻き込まれた挙げ句にバイトを変えた上、そのバイト先の上司が女弁護士であることを自らの口で説明しなければならないってことだ。
無論、四音にはキチンと説明するつもりだし、それをつい今し方心の中で強く誓った訳だが、話しを聞くうちに勘違いしてヒステリーを起こしたりしないだろうか? 今まで四音が取り乱したところは見たことがなく女傑揃いの藤田家の女だからと思ってきたけど、そもそも俺が直面しているトラブルは本来学生ごときが関わるものではないんだよな。そう考えると四音の反応が怖い。
俺は藤田にしたのと全く同じ経緯を四音に話すことになったが、藤田に話した時より言葉選びに慎重になったのは言うまでもない。内容も四音に心配をかけないよう苦心したおかげか、説明中に四音から突っ込みを入れられることはなく、安心した俺の口はいつしか滑らかに動いていた。
話し終えると一瞬静けさに包まれ、誰も、と言っても三人しかしないが、俺を含めた三人が暫し黙り込み、俺はその静けさに含まれる重い空気に押し潰されそうだった。
学内のカフェだから方々から話し声や笑い声がするが、それらがボンヤリとしか聞こえない。四音に嘘を吐きたくなくて全て話したが、俺の判断は間違いだったのだろうか? チラリと藤田を見るも彼も複雑な表情をしている。女系家族の末っ子だが、やはり女心は分かり兼ねるということか?
俺が後悔し始めると四音が漸く口を開いた。
「人助けなんて凄いよ、やっくん。でもさ、ちょっと無茶しすぎだよ。それはうちの父親でも顰めっ面めになると思うし、例え警察から感謝状を渡されたとしてもご両親は嬉しくないと思う」
「でもこの通り何事もなかったんだし」
「それは結果論でしょ? もしその黒づくめが逃げる前にやっくんに発砲してたら? 本当にプロの殺し屋だったら? もしそうだったら私は今こうしてやっくんと再会するどころか、お葬儀に参列して復讐を誓っていたかもしれない」
復讐だなんて、四音が俺のことをそこまで想ってくれているんだと思うと感動すら覚えるが、四音の言葉にはまだ続きがあった。
「それに、やっくんはロードバイク欲しさにその弁護士の事務所で働くことにしたってことだよね?」
「いや、それは違……」
俺の反論は途中で霧散した。違うと胸を張って言えるか?
「違うって言い切れないってことは、少なからず期待して素直に謝礼として受け取ったんだよね。で、調査員にならないかって誘いを断ることができなかった」
合ってるよね? 四音の真っ直ぐな瞳に射抜かれ、俺は項垂れながらそれを認めざると得なかった。
「ごめん」
「別に責めてる訳じゃないよ。うちの姉貴も弁護士だから調査員を雇っているしね。司法試験に合格したと言っても検事や裁判官と違って弁護士は完全なるフリーランスだし、姉貴の事務所は共同経営者の弁護士への依頼も受けるから、どうしたって足になって色々と調べてくれる人員が必要なのは十分に理解してるよ」
だが調査には危険が伴う。弁護する相手は何かしら犯罪を犯した人間だ。無論、冤罪もあるだろう。でも大なり小なり何かしら罪を犯した人間の周囲を調べ尽くすことで調査対象者が堅気とは限らなくなっている。いや真性ヤクザなら素人に手は出してこない。寧ろ堅気が驚くほどに態度は良く協力的だ。
怖いのは群れているチンピラ達で彼らは手段を選ばない。犯罪を犯しているという罪の意識も皆無で、聞き込みに行けば刑事、弁護士関係なく威嚇しまくった結果、公務執行妨害で逮捕される輩も多い。女性弁護士なら暴行されても何ら不思議ではない人種が五万といるのが犯罪者とその関係者なのである。
四音は淡々と話しているが、淡々としているからこそ彼女が腹を立てているのが分かって俺はグウの音も出ないまま益々項垂れていくだけだ。確かに彼女の言うことはもっともで、自分が軽挙過ぎたと反省せざるを得ない。
思えば雅さんと知り合わなければ桜山で遺体を発見した挙げ句、容疑者になることもなかったのだ。けれどもし雅さんと知り合わないという選択をした場合、俺はあの公園で明らかに銃声を聞きながらも彼女を見捨てて通り過ぎたことになる。それは本当に正しいことなんだろうか?
俺の頭の中では、あの時どうすれば良かったのかと自問自答する声が響き始めた。そんな俺を見て四音は俺の隣に座ると背中とトントンと軽く叩いてくれる。
「ごめん、責めてる訳じゃないよ。ただ自分を大切にしてほしくて。やっくんはまだ学生なんだよ。だから大人のことは大人に任せた方が良いと思っただけ。でも、鷺ノ杜弁護士がやっくんを調査員に雇ったのは何か理由があるのかもしれない。それこそ助けてくれた恩を返すとかね。まあ、それでも雇うのは危険すぎるからロードバイクだけ弁償して関係を切ってくれれば良かったのになとは思うよ」
俺を敢えて雇う理由なんて、俺がお人好しで使い勝手が良いことくらいしか思い付かない。でも四音の言うことにもハッとさせられる。そうなんだよな、お礼ならお釈迦になったロードバイクと同価格のものを買い与えてスッパリ別れるってのが普通なんだよな。
調査員は俺でなくても勤まるし、そもそも募集をかけている途中だった可能性もある。あそこで俺をスカウトしなくても数日もすれば応募者が現れただろう。
「面接するのが億劫だったのかも」
俺がポツリと言うと藤田姉弟は目を丸くしたが、俺は何気なく呟いた自分の言葉に得心した。
「多分、面倒だったんだ」
「そんな馬鹿な」
姉弟がハモる。さすが双子だ。
「いや、面倒って言い方が悪いな。億劫も違うし。とにかく雅さんは周囲に信用できる人がいないんじゃないかな? だから調査員の募集をかけて誰かが応募してきたとしても、その応募者の背後を調べないと安心して雇えない。だから自分を助けてくれたお人好しの学生を雇った。通りすがりで全く関係ないからこそ安心できた」
「確かにその説明なら筋が通ってるわね」
「それでも俺が鷺ノ杜弁護士なら歩夢のことを調べると思うけどな」
そこまで他人に警戒感を持っているなら、通りすがりのお人好しであってもその気持ちは解けない。
「あ、だから怪我をしているにも関わらず買物に連れ回したのかな。で、俺の言動を弁護士の目で観察していたのかも」
思えばあの日の雅さんは本来なら買物なんてできる心理状態じゃなかった筈だ。いくら豪胆な人間でも銃を向けられ、そして掠っただけとは言え確実に撃たれたのだ。並の人間なら怖くて警察で事情を聞かれた後は帰宅して引きこもるか、それこそ警察に保護を求めるのではないのか?
「警察は余程のことがなければ保護はしないだろうよ。何かの重要参考人とかなら別だけどな」
「そうなんだ。ならそれこそ俺を近くに置いておけば犯人はその日は彼女に近付けなかった筈だ」
俺の空手技を悉く交わした奴だけど、それでも奴は拳銃を持ちながら俺に発砲しなかった。俺の空手技を避けることに集中していたのだ。自分が強いとは思ったことはないが、あの時は銃撃を防ぐだけの力を出すことができていたのだ。




