第三章【一】
土谷刑事と無言で対峙するのが苦痛で、俺は彼の目から逃れるために目の前にあった麦茶を飲み干した。と、ポケットでスマホが震える。汗ばむ手で取り出して見ると、雅さんからのメッセージだった。
『大至急戻られたし』
時代劇みたいな言い回しだなと思ったら途端に呼吸が楽になった。俺は知らず知らずのうちに雅さんの存在に安寧感を抱いているのだろうか。でも彼女の過去を知った今、どんな顔をして会えば良いのか分からない。彼女の目は俺の異変をすぐに察知するだろう。そうすれば、警察でこんな話しを聞いたと白状せざるを得ない。
「悪かったな。鷺ノ杜先生に問い詰められたら俺の不手際だと言えば良い」
土谷刑事は言葉では気遣ったくれたが果たしてそれで済むのだろうか? わざと俺に情報を流したとしたら刑事が責任を感じる筈もない。
「どうして警察は雅さんの過去まで調べているんですか?」
土谷刑事は今度は呆れたように溜息を吐きつつ説明してくれた。
「昨今は怨恨よりトクリュウや裏サイトなんかの恨みもない通りすがりの事件が増えているが、それでも事件が起きると警察はまず怨恨の線を洗うんだ。しかも今回は三八口径の拳銃での殺人未遂だ。君が助けに入らなければ最悪の事態になっていたかもしれない」
犯人の動機を探るなら、まずは被害者周辺を洗うのが鉄則。それによって知り得た被害者に不利になる情報は外に漏れないよう厳重に管理するが、その不利になる情報の中に事件解決の糸口があることが多いのも事実。
「だから、俺達刑事は犯人を追うのと同時に犯人逮捕と同じ重さで被害者のことも調べるんだ。今回、身内のお前さんが鷺ノ杜弁護士のことを何も知らなかったってのは的外れだったが、いずれ彼女にドイツ在住時にトラブルがなかったかを聴取に行くつもりだった」
その時、事務所に俺がいれば嫌でも今日聞いた話しを耳にすることになる。だから遅かれ早かれ今と同じ気持ちになっただろう。
土谷刑事にそう言われてしまえば俺としては反論できないし、聞いてしまったショックとは裏腹に話してもらえて良かったという相反する気持ちも湧き上がる。少なくとも俺に雅さんの過去を話しても支障はないと判断したのであって、それは信頼してもらえたと受け取れるからだ。
「ああ、口が滑ったついでに言っておくが、鷺ノ杜雅は中学卒業後すぐに渡欧している。大学までドイツで学び、さっきも言ったように弁護士になった。帰国はその三年後。これは入管に問い合わせたから確かだ。だが、ドイツで弁護士として働いていたのか否かは分からない。その辺も含めて近日中に先生の話を聞きに行く」
そこまで言うと土谷警部は口調を緩め、鷺ノ杜先生からお呼びが掛かっているんだから、とにかく今日は早く事務所へ帰るよう俺を促した。
「わかりました。ありがとうございます」
何だって俺は刑事に気を遣わせているんだろう。本来は雇用主である雅さんが、バイトとは言え雇った責任として自分のことをキチンと打ち明けておくのが順序ってものだろうに。しかも一応俺は彼女の危機を救った恩人だぞ。そう考えると沸々と怒りが湧いてくるから俺も随分と現金な性格だと思う。
俺は立ち上がって土谷刑事に一礼して踵を返したが、ふと疑問を思い付き振り返った。
「それはそうと、雅さんは何故あの公園にいたんでしょう?」
「は?」
「え?」
俺と土谷刑事は同時に間の抜けた声を上げた。
「坊主、お前さん事情聴取に同席しておいて、そこは覚えていないのか?」
「と言うと?」
「俺は鷺ノ杜先生に何故あんな場所にいたのか聞いたぞ」
「そうなんですか!?」
あの日は聞かれたことには記憶をフル稼働させて答えたが、あとは緊張と恐怖でガチガチになっていて土谷刑事と雅さんの声がぼんやりとしか聞こえてこなかったんだよな。なんかだ悔しい。結局俺って奴はあのとき怖くて内心で震えていたんだ。
そんな俺の頭を土谷刑事はポンっと軽く叩いた。
「君はまだ二十歳だろう? 無鉄砲だったことは否めないが、その年で人の命を助けようなんざまず考えない。大したもんだ」
これは褒められたと受けとって良いのだろうか? いや、良いんだよな。
「あの日は依頼人に会うためにあの公園近くにある和カフェへ出向いたと言っていたが、何せ依頼人のことは話せないと強く言い切られたから本当の目的は分からん」
「そのカフェなら知ってます。で、雅さんはいたんですか? 防犯カメラで確認したんですよね?」
「ああ、ちゃんといたさ」
「誰と会っていたんですか?」
そう聞くと、土谷刑事は渋面を作った。
「おい坊主、さすがにこれ以上は話せないぜ。そもそも本来なら話せないことを教えてやっているんだ。それは坊やが半被害者だからだ。だが、これ以上は話せない。勘違いするなよ、坊やを疑っているんじゃない。それどころか死人を出さなかったことを褒めている。だが、警察と民間人との間に境界線は必要だ」
俺は土谷刑事に完全に論破されてしまったが、それでも食い下がった。
「あの日、雅さんは車で移動しなかったんですよね」
「ああ、レクサスに乗っているんだっけな。薄給の刑事には羨ましい限りだ。だがな、自家用車を使わなかったから隠し事があるとは言い切れない。時間的に帰宅ラッシュだったから、あの辺りへ行くなら地下鉄の方が早い」
確かにあそこは名城線の茶屋ヶ坂駅が近く、事務所の最寄り駅の栄からなら地下鉄で二〇分程度で辿り着ける。問題は誰と会っていたのかだ。それとも一人で行ったのか、一人なら何のためåにあそこへ? カフェなら栄近辺の方が多い。それとも誰かに呼び出された? 誰に?
沈思に浸る俺の背中が土谷刑事にグイッと押されて意識を現実に引き戻される。
「ほれ、先生がお待ちかねだろ。頼りになるバイトを雇って弁護士先生としても一騎当千の心地だろうよ」
あの雅さんがそんな風に思ってくれているとは到底信じられないから複雑な心境だけど、とにかく呼び出された以上は最速で戻らないとまた減俸とか言い出されそうで、俺は今度こそ土谷刑事に別れを告げて必死でロードバイクを疾走させる。事務所に到着したのは十九時近かった。
帰りが遅い俺を待って今頃雅さんは怒り心頭なんだろうなと思うと、エレベーターのボタンを押す指が重く感じる。俺は叱責を覚悟で事務所の扉を開けた。
室内には雅さんしかいなかった。彼女は予想通り怒ってはいるようだが極度に機嫌が悪い訳でもなく、気のなさそうな声でおかえりと迎えてくれた。ちょっと帰省が削がれた気がするが、その感覚が雅さんに飼い慣らされてしまっているようにも受けとれて自分の中で否定する。
「土谷警部に会ってきたんでしょ? 彼は何て?」
「まだ何も分からないそうで……」
言いかけて俺はハッと声を吞んだ。何故、県警本部に行ったことを知っているんだろう? 雅さんはやっぱりサトリか?
「別府智也の職場が分かったとメールしてきてから何の進捗報告もないし、何か気になることがあるか或いは調べたいことを思い付いたのかと考えれば、行き先を絞るのは簡単よ」
雅さんは小馬鹿にしたかのような笑みを浮かべたが、俺としては何と答えれば良いのか分からず狼狽えるばかりだ。
「土谷刑事は何て?」
「まだ二日しか経っていないので本当に何も分からないと。俺が見た黒づくめの人間の姿を周辺の防犯カメラで探したけど映っていなかったから、逃走しながら着衣を脱ぎ捨てた可能性があるとも」
「ふーん」
雅さんは気に入らなさそうだったし、俺も話しながら何となく違和感を抱いていた。もし着衣を脱ぎ捨てて逃げたとしてその着衣はどうしたのだろう? 俺が犯人だったとして、着衣を脱ぎ捨てるのは良い考えだと思うものの脱ぎ捨ててもその辺に置いていく訳にはいかないし、かといって念入りに隠す時間もなかった筈だ。となると単独犯ではなく協力者がいたのだろうか。近くに車で待機していた共犯者がいれば実行犯と着衣の双方を回収できる。
だが共犯者が近隣で待機していたとしても車を急発進させれば警察が防犯カメラを確認した際に怪しいと目を付けられる。そして公園を出てすぐの防犯カメラにさえ着衣を脱いでいく容疑者の姿は捉えられていない。だがあの時、追いかけようとしたのを雅さんに止められているから、俺が思う方向とは違う方へ逃げたとしたらどうだろう?
「公園の外に逃げるように見せかけて、公園の奥に逃げ込んだとしたらどうです?」
「そうね、あの公園はいくつか遊歩道があるし、奥は結構深いから可能性としては無きにしも非ずね」
殺されそうになったってのに相変わらず雅さんは冷静だ。いや、寧ろ全くの他人事にように考えているようにすら見える。怖くないのだろうか?
「あの日、あの公園近くにあるカフェにいたと土谷刑事から聞きました。誰と会っていたんですか?」
「誰だってカフェにくらい行くでしょ?」
「それならこの付近にいくらでも」
そこで俺の口は勝手に閉じた。雅さんの目の奥に昏い感情を見たのだ。
「歩夢くん、うちは探偵事務所じゃなくて弁護士事務所よ。いくら君が調査をしてくれているからって弁護士でもパラリーガルでもない学生にそこまで話す必要があるのかしら?」
「俺が信用できないってことですか?」
「そうじゃない。一昨日刑事に何て言われたのか忘れたなんて言わせないわよ」
無鉄砲。その言葉が頭の中に思い浮かぶ。運良く俺も雅さんも生きているが、最悪一人、もっと悪ければ二人とも殺されていたのかもしれないってことで、素人が沼にハマる如く事件の調査にのめり込もうとする危うさに雅さんは釘を刺しているのだ。
「事件は警察に任せておけば良いし、聞きたいことや分かったことがあれば警察の方から赴いてくれるわ。こっちの事情などお構いなしにね」
雅さんはそう言うと、二度手拍子をした。室内に響き渡る乾いた音は、一幕が終わりこれから二幕目が始まるとでも告げているかのようだった。




