第二章【四】
依頼自体は別府智也の死によって打ち切りとなったが雅さんはもう少しこの件を調べると言い出し、俺は雇用主の決断に異を唱えられる筈がなく、調査の継続を手伝うことに同意した。
よくよく話しを聞くと夫の勤め先も分からないからだ。職場は関係ないとからと千秋が強く拒んだらしいが、それこそおかしい。不倫相手が職場にいる可能性だってあるのに。雅さんはそのことを不審には思わなかったのだろうか。いや、彼女のことだから千秋のその態度を疑惑の眼差しでもって見たことだろう。でも深く立ち入ることはしなかった。結果的に夫が死亡した訳だが、雅さんは深く追求しなかったことを悔やんでいるのかもしれないし、もしかすると俺など到底想像できないことを考えているのかもしれない。
今日のことは勝手に他人宅に入った挙げ句、遺体を見付けてしまったことをこっぴどく叱られ、今後不審な状況に直面したら何を置いても雇用主か警察に連絡するよう厳命された。ちなみに減俸は逃れ、俺は安堵して自由ヶ丘の自宅へ帰った。
翌日の講義後、雨の中を俺は別府夫妻の自宅へ向かった。雅さんには調査するにあたってスーツの着用を勧められたが、俺の持っているスーツと言えば大学の入学式で着たリクリートスーツだけで、しかもスーツに着られている感が否めずクローゼットの奥の方に放置している有様だ。それに講義の合間や後に調査に赴くとなるとスーツで大学へ登校しなければいけない。それが面倒で結局Tシャツにジーンズ、その上に雨合羽だ。
夫婦の住まいは東区白壁のマンション。名古屋市内では高級住宅街と見なされる地域だ。近くには金城学院の中等部と高等部があり、少し西へ足を伸ばすと徳川美術館と徳川園がある。昨今はマンションも林立されてきているが、公園や寺院が点在していて緑が多い場所だ。難があるとすれば最寄りに地下鉄駅がないことだが、代わりに基幹バスが走っているから都心へはスムーズに出ることができる。
マンションは出来町通りから一本入った所にあったが、そこで自分の迂闊さを呪う。マンションは当たり前にオートロックだった。夫妻について話しを聞くには中に入らないといけないが、Tシャツにジーパン姿の人間に誰が個人情報を教えてくれるというのか。雅さんの言うスーツ姿とは、中身や年齢はどうあれ接する人に見た目での信頼感を与えることなんだとやっと悟った。
アルデア法律事務所の夜久と申しますがと誰彼なしにインターホンを押しても恐らく不審がられるだけだろう。この件は事件とも事故とも言えないからマスコミには発表されていないが、昨日の瑞穂区のあの家の周辺はパトカーや救急車のサイレン音や刑事が大挙しての現場検証などでかなり騒然となったから、マスコミが嗅ぎつけている可能性が高い。
昨今のマスコミは他人のプライバシーへの侵害などお構いなしだから、既に死亡していたのが別府智也だと知れているかもしれないし、そうなると朝早くからマンションに押しかけている可能性もある。となれば住人は別府智也の死を既に知っているだけに留まらず、度重なるマスコミによる日常生活の侵害でおかんむりかもしれない。そこに俺が弁護士事務所の者ですとインターホンを押したとしても解錠してくれる人が現れるとは思えない。
どうしたものかと悩みながらエントランス内をウロウロしていると、買物帰りらしき主婦が俺の姿など眼中にないようにスッと通りすぎていく。俺はそれを好機と捉えた。姿は軽々しいが、なればこそ一昨日までのバイトで身に付けた策を使えば良いと咄嗟に判断したのだ。
「すみません、一緒に入れて貰っても良いですか?」
俺は、さも食品を配達にきたかのように大きめのバッグを掲げて見せると主婦は警戒すらせずに俺を中に入れてくれた。だが驚いたのはその主婦が別府夫妻と同じ八階の住人だったことだ。主婦は朝からこのマンションで起きたことを捲し立てた。
どうやら世の主婦達は富裕層でもそうでなくても噂話が好きらしい。主婦は俺が聞いてもいないのに朝からマスコミ各社からのインタビュー責めに遭ったこと、そのせいで買物にも出られなかったことを愚痴た後で、別府夫妻のことを話してくれた。
「私と同じ八階の方なんだけど、旦那さんが亡くなったらしいのよ。しかも余所のお宅で」
マスコミのことだからどうせ愛人宅とか吹聴しているに違いないが、この主婦はそれを口にするのは憚った。同じ噂好きの人間でも人としてあるべき姿を弁えているような人柄に好印象を抱くのと同時に愚痴でも信頼して良い気がする。
「仲の良いご夫婦だったけど、なんでも旦那さんの死因が分からないとかで、ご遺体も戻ってきていないし、お葬儀もできないみたいなのよ」
「それはお辛いでしょうね」
俺は適当に話しを合わせながら何とか自分が質問できるチャンスを掴もうと頭をフル回転させるが、元来の話し好きなのだろう。主婦のマシンガントークは止まらないし、俺が口を挟む暇もない。
「マスコミのせいでマンション中が旦那さんが亡くなったことを知っているし、なんだか心配だわ」
そう言いながら主婦が溜息を吐く。本当に心配しているようだ。いや、俺だって心配だ。昨日別れた後、遺体と対面し、警察で事情を聞き、帰宅してからずっと家に引きこもっているとしたら、それこそ飲まず食わずの状態かもしれない。その上、マスコミからの口撃だ。ショックは計り知れないだろう。
本来なら別府夫妻の住む八〇八号室に配達に来たと言って色々聞き出したいところだが、さすがにその嘘は罪が深いし、実際に八〇八号室でインターホンを押して配達に来ましたと言ったところで本当は注文なんてないのだからすぐに警戒されるし、妻の千秋とは昨日瑞穂警察署の前で顔を合わせているから下手をすれば不審者扱いでまた警察沙汰だ。
「奥さんは専業主婦ですか?」
「あそこのお宅は共働きよ。でも仕事に行ける心境じゃないでしょうね」
そりゃそうだろうし、まさか夫が亡くなっても出社しろと命じる会社なんてないだろう。いや、ブラック企業なんて言葉がはびこる現代だから無きにしもあらずか。
「まさかこんな状況で仕事に来いっていうような所にお勤めなんですか?」
俺は主婦に純粋な疑問をぶつけた。が、それが幸いしたようだ。
「まさか。ええっとどこだったかしら。かなりの大手企業よ。ああ思い出した、タクトフル電子よ」
「ご夫婦共に?」
「違うわ、ご主人の方よ。奥さんの方はグループ企業にお勤めだとか。入社時は同じ会社でご主人が転勤になったみたいなのよ」
社内恋愛も大変よねと主婦が苦笑するが、なるほど社内恋愛だと同じ屋根の下、或いは同じ部署で仕事ができないのが世の仕組みということはよく分かった。多分、この人の良い主婦も経験したことなのかもしれない。
「で、どこの部屋に配達なの?」
しまった、ここで別府家の部屋番号を言えば疑われるだろう。昨日の今日で未亡人がデリバリーを頼むのはどう考えても不自然だからだ。
「ええっと、八〇三号室です」
と、ドギマギしながら口にすると、主婦はビックリしたように答えた。
「その部屋は空き家よ。貴方、悪戯の被害に遭ったんじゃないの?」
俺はホッとした。そこが空室か否かを調べて来た訳ではなく適当に思い付いた部屋番号を言ったに過ぎないが、神様ありがとうと叫びたくなる。おかげで三日連続で警察へ行く災禍からは逃れられた。
俺はそもそも存在しない注文を今一度確認しますと主婦に告げてマンションを後にすると、合羽も着ずにロードバイクに跨がってビショ濡れになる前に手近な喫茶店に飛び込み、主婦から聞いた話しを手帳にメモしつつ進捗として雅さん宛にメールを送る。
タクトフル電子はかなり大手の企業だ。夫妻共にグループ企業勤めならかなり裕福だろうから、白壁の高級マンションを所有していても違和感はないし、仕事も家庭も申し分なく恵まれている状況だ。なのに夫は不倫をし、しかも家を出た。何が原因なんだろう?
雅さんからは引き続き宜しくと返信があったが、向こうは何を調べているのかな? 事務所にあったデスクは二つ。少なくとも俺以外に二人の司法関係者が動いているはずなんだけど、俺はまだ事務所の人に紹介されていない。何か別の案件があり、そっちにプロの法律家を投入して別府夫妻の件は雅さんの個人的興味だから俺のようなバイトを充てているのかもしれないなと考えながら雨の降りしきる窓外をボンヤリと眺めながら時間を潰し、雨が小やみになったのを見て俺はロードバイクに跨がった。
さしたる当てはないが俺はなんとなく遺体が発見された桜山に向かっていた。無論、瑞穂警察署へ行く度胸はなく向かうのは家だ。入れないのは承知しているが、もう一度現場を見ておきたいと思った。
白壁から桜山の現場までは合羽を着ないで移動できた。分厚い雲の合間から薄らと陽射しが見え隠れしている。雨はこのまま上がるようだが気温も上がり始めて額から汗が滴り落ちる。
現場となった家は門扉周辺に規制線が張り巡らされ制服警官が立っていた。こんなに厳重にしているのはやはり事件なんだろうか? 俺は昨日も顔を合わせた警官に話しかけた。
「どうも」
「ああ昨日の。今日はどうした?」
「近くを通り掛かったので」
俺は息をするように嘘を吐いて、そんな自分に嫌気が差す。将来、法曹界に進むならこのやり取りが延々と繰り返されるのだろう。そう思うと気が重くなった。
「警察官がいるってことは事件だったってことですか?」
こんな質問に答えてはくれないんだろうなと思いつつ軽く問いかけると予想外に返事が返ってきた。
「まだ決まった訳ではないよ。解剖が遅れていてね。ただ、この件に県警が興味を持ったみたいで、うちの署の上層部が見張りを付けた方が良いと言い出して」
現場は大変なんだぞと警官は苦笑したが、俺は県警が注目してるって言葉に引っ掛かりを覚えた。




