国母ですもの
マリアが王都で施しを行っているとき、レイスは、リナフィアと伯爵の噂の件でリナフィアの執務室を訪れていた。
「なるほど。それじゃあ、しばらくはレイス卿を遣いにするということね」
「伯爵も夫人も気に留められていませんでしたが、やはり無理に噂を大きくする必要もないだろうと」
「確かにね。それにしても本当に驚いたわ。まさか、次は伯爵とだなんて……そんなに私が誰かと不貞を犯していてほしいのかしらね」
「次……?」
「まあ、私を貶めたいからってことでしょうけど。元より私の評判って良くないし、無駄骨ご苦労様って感じだわ」
人気取りで国を奪うつもりはない。他人にどう思われていようが、『ひきこもりの王妃』と陰口をたたかれようが構わない。
(マリアが愛されるための演技をするのなら。私は必要とされるための演技をするわ)
『利』をいらないという者は、この世にはいないのだから。皆、自分に利があることでしか動かない。だから、どちらに利があるか分からせれば良いだけの話。
どれだけ民を思い、寝る間を惜しんで懸命に尽くそうとも、見えないものは無いものにされると知った。
だから今回は、王妃宮を出て自ら動くことにした。
恩を売り、利を説く。
そうすれば、人はあっけなくこちらに転がってくる。
(伯爵だって、もし夫人の命を救うようなことがなければ、未だに中立派だったでしょうし)
利害関係の繋がりだが、別にそれでいい。
それ以上をこちらは求めないし、求められても困る。
「妃殿下」
「ん、ああ、ごめんなさい。少し考え事をしていたわ。もう帰っても大丈夫よ」
リナフィアは、目の前で直立しているレイスに礼を述べると、さっそくに机に視背を落とし、書類の処理を再開させる。
しかし、再び「妃殿下」と、今度は思ったより近い場所で名前を呼ばれた。
気付けば、レイスは執務机に手をついて、リナフィアの耳元に口を寄せていた。
「――っ!」
驚きに身を引こうとしたリナフィアだったが、机に置いてた左手をいつの間にか握られており、その場に縫い留められる。
「『次』とは、どういうことでしょうか?」
低い声音で静かに問われ、まるで自分が罪を犯したかのように錯覚してしまう。
「な……っ、なんのこと」
「先ほど、妃殿下は『次は伯爵とだなんて』と……。つまり、他にも仲を疑われるほど妃殿下に近い男がいるのですか」
顔を横に持ってこられているため、彼の表情が見えない。
「そんな相手いないわよ……っ」
「では、妃殿下の燃えるようなこの髪も、妖艶な瞳も、白い頬も、薄い耳も……食べてしまいたくなる唇もすべて……誰のものでもないと」
脳に響くような重低音に、リナフィアは思わず喉を鳴らした。
握られた左手は彼の熱さに染まり溶けたかのように、もう感覚はない。なのに、彼が口にした部分の神経はこれほどないまでに逆立って鋭敏になっている。
ルーベントとの初夜でも、このような感覚に陥ったことはなかったのに。
「レ、イス卿……っ! 何を勘違いしているか知らないけれど、次っていうのは、以前、陛下にあなたとの関係を疑われたことがあったからで……っ」
これ以上は、と堪りかねて絞り出すように声を上げれば、握られていた左手がパッと離された。
「え……私との、仲を……?」
元の立ち位置に戻ったレイスは目を見開いた後、口元を手で覆い、リナフィアから顔を背ける。
「そうよ。どうやら陛下は、視察の時に、私があなたの馬に乗ったのが気に食わなかったようで。それから勝手に愛人だなんて思い込んでるの」
「あ、愛人……」
「自分たちがそうだからって、こちらまでそういう目で見ないでほしいものよね。だって――」
リナフィアの声が途端に小さくなったのを不思議に思い、レイスは顔を正面へと戻したのだが、そこでまた瞠目することになった。
「――だって私達……そんな仲じゃ……ない、でしょう?」
彼女は自分がどういう顔をしているか、気付いているのだろうか、とレイスは衝動的に拳を握った。爪が食い込んだ痛みでどうにか理性を繋ぎとめる。
あれだけ気高く、堂々として王妃という言葉を体現したような人が、今、まつげを震わせながら目を伏せ、頬を色づけ、不安げに口を甘噛みしている。
それは、時折見せる『彼女』の部分。
この顔を知るのが自分だけであってくれ、とレイスは願わずにれなかった。欲を言えば、この先もずっと、自分だけが見ていたい。
「もし……」
レイスの声に、リナフィアの視線が上げられる。
「もし、私がノーディレイの――」
「ノーディレイ?」とリナフィアが首を傾げた同時に、全ての音を遮って轟音が鳴り響いた。ガタガタとインク瓶やペンが揺れ、壁際の書棚からは次々と本が落下して重たい音を立てる。
「キャア!」
「妃殿下!」
素早く執務机を飛び越えたレイスが、椅子の上で身を小さくしたリナフィアを抱え、机の下に入り込む。
ぐらぐらと揺れ続ける床。体勢を整えようにも、何かに縋らないと座ることもできない状態で、リナフィアはレイスの胸にしがみつき、レイスはリナフィアが机に当たらないように、全身を使って抱き締めていた。
揺れは少しずつ幅を小さくし、そしてようやくピタリと収まった。
「お怪我はありませんか、妃殿下」
「え、ええ、レイス卿のおかげで」
机の下から這い出した二人は、窓からの光景に声を失った。
「街が……っ」
至る所から立ち上る黒煙。王宮前から伸びる大通りは、両側から建物が崩れおち道を塞いでいる。人々の阿鼻叫喚が、王宮の奥にある王妃宮まで聞こえてくるようであった。
(こんなの前回は無かったのに……っ!)
自分が動くことで、まったく前回と同じ通りに進まないことは分かっていたが、これは。
「まさかこれほどの地震が王都を――っあ、妃殿下!」
奥歯を噛みしめ、リナフィアは王妃宮を飛び出した。
◆
いつもなら視界に入るだけでも不愉快な存在だが、この時ほど神に感謝したことはない。
リナフィアが王宮から駆け出してきて最初に目に入ったのは、大広場の噴水の近くで泣き崩れている少女だった。
真っ黒な髪と質素ではあるが、決して平民では着ることができない質の良いレースのドレス。そして、泣き声までも鼻に掛かったような甘ったるさがある。
「マリア様!」
リナフィアの声に反応して、黒髪の少女――マリアが振り向いた。隣にいたユビウスも一緒に振り向く。
「リ、リナフィアさまぁ……っ地震で、街がぁ……」
マリアの声に促され、通りの奥に視線を向ければ、そこは上から見た光景とは比べものにならない地獄が広がっていた。
「――っ!」
ヒュッと息が詰まる。
噴水の周りは運良く崩れ落ちる物がなく、ポッカリと空白となっていたが、通りは崩れ落ちた瓦礫に遮られ、その瓦礫の下には、押しつぶされて血を流しうごめく民の姿があった。
挟まれた母親の手を懸命に引っ張る子供。
抱き締めあったまま瓦礫に潰され動かぬ男女。
潰れた足を引きずりながら、誰かの名前を呼ぶ老婆。
歯が震えた。膝が笑う。目の前で少年が立ち上る黒煙の方角を見て、「母さんが……」と呆然として呟いていた。
そこでリナフィアの膝が崩れ落ちた。
「妃殿下!」
しかし、地面に膝をつく前に、追いかけてきたレイスがリナフィアを背中から抱き留める。
「妃殿下、ご無事ですか!」
(妃殿下……)
リナフィアは、自らの力で大地を踏みしめ、レイスから身を離す。こんなところで膝を折っている場合ではない。
「レイス卿、王妃命令です! 王宮門を開放して前庭に民を受け入れるように。庭であれば崩れ落ちる物もないでしょう。足りぬのなら、王都にある貴族邸も開放して使いなさい。文句を言う貴族は、王妃令に背けば奪爵だと脅しなさい」
「かしこまりました、妃殿下」
(そうよ。私は王妃。この国の母)
「ユビウス卿!」
「は、はいっ!」
「すぐに近衛師団含め各地の騎士団も到着するでしょう。それまで、あなたは人流整理を。避難場所がどこか叫んで民に教えて回りなさい。その際に、助ける者はなるべく死に近い者から助けることを周知して」
「し、しかし、普通は助かりそうな者が優先では……」
「どれほど死が近くても、息さえあれば救えるからよ」
「す、救え――っまさか妃殿下! 神力を使うつもりですか!? この人数に!?」
ユビウスは現実を見ろとばかりに、大通りに向かって手を広げた。
「なりません、妃殿下!」
ユビウスの声に触発されて、レイスもリナフィアを止めようと肩を掴む。しかし、リナフィアはその手を振り払う。
「母が子を救わなくて、何が国母ですか!」
リナフィアの凄まじさに、レイスもユビウスも言葉を失った。
「マリア様、施しでお疲れでしょうが、もうしばらく頑張ってください」
足元でまだへたり込んでいるマリアに目を向け言い放てば、彼女は一瞬呆けた顔した後、みるみる顔を赤くする。
「はあっ!? まさかあたしにも神力を使えっていうの!? たったひとりの瀕死を治療しただけでぶっ倒れるのに、この人数をひとりひとり治療して回ったらこっちが死ぬっての!」
「あれは、先にそれなりの神力を使っていたからです。その程度では倒れません」
「あんたと違うのよ! 二人いるんだから、あんたひとりがやりなさいよ!」
マリアの口調はすっかり素が出ているのだが、本人は怒りと混乱とで気付いていないようだ。
「二人いれば負担も時間も半分で済みます。さあ、行きま――」
「嫌よ、やるはずないでしょ!? なんで異世界転生したのにもう一度死ななきゃならないのよ! あんたと違って、あたしにはいなくなったら悲しむ人がいるんだから!」
言い終わらぬうちに、マリアは跳ね起き王宮へと駆けていってしまった。思わずリナフィアの口から「嘘」と絶望が漏れる。
しかし次の瞬間、パァンと痛々しい音が響いた。リナフィアが自らの頬を打っていた。
レイスとユビウスが声を揃えて「妃殿下!?」と驚きの声を漏らす。
「……お二人とも、何をしているの。早く自分の役目を果たしに行きなさい」
二人はリナフィアを気にして動かない。
「今やるべきことを成しなさい!」
しかしリナフィアの一喝に、ユビウスは「はいぃ!」と転がるようにして大通りへと駆けていき、レイスもチラチラとリナフィアに未練を見せつつ、「すぐ戻りますから」と、横でへたっていた少年を抱えて王宮へと戻っていった。
これほど大きな地揺れなど生まれてはじめてだ。どのくらいの範囲か被害かも想像できない。
しかし、こうして考えている間も刻々と命は薄くなっていく。ならばもうやる他なかった。
「反動なんて知ったものですか……っ」
リナフィアはその場で膝をつき、胸の前で手を組み、強く念じた。
次の瞬間、王都をまばゆいばかりの光のドームが包んだ。
光が消えた後、レイスは後ろ――大広場を振り返った。
「――っ!?」
レイスが目にしたのは、ちょうどリナフィアの細い身体が、赤い髪を散らしながら地面になんの抵抗もなく崩れ落ちるところだった。
「フィア――!!」




