こんなの聞いていない
王都にあるベルハイク伯爵邸。
そこの一室で、伯爵はジリジリと肌が焼けるように痛い視線を、隣から受けていた。
「…………伯爵」
加えて、軽蔑の籠もった声まで出されたら堪ったものではない。
「いやいやいや、待ちなさいレイス! 私がそんなことするわけないだろう。まさかこんな噂、真に受けていないだろうな!?」
なぜか、今王都では『王妃とベルハイク伯爵はとても仲が良い』という噂が流れているのだ。
「真に受けてはいませんが…………無性に腹は立っています」
「ハハッ! 嫉妬か! 嫉妬だな!? 若いってのは素晴らしいね!」
「伯爵」
「ごめんなさい」
好青年から向けられる氷のような軽蔑の眼差しに耐えきれず、やけっぱちになった伯爵だったが、さらに寒々しい声で呼ばれれば、素直に謝らざるを得なかった。
「まったく……何をやられているんですか。夫人に怒られますよ」
「それは大丈夫。ユビナは、私のことをよく理解してくれているから。……というか、なぜかユビナの方が先にこの噂を知っていたんだよな……ハハ、恐るべし婦人方の情報網。既にお怒りの手紙も貰っている」
「全然大丈夫じゃないじゃないですか」
ほら、と渡された手紙を、レイスは「夫人も可哀想に」とぼやきながら開いた。
《あなた、あの噂はどういうことでしょうか? まさか、妃殿下とそのような噂を立てられるだなんて……信じられません》
「めちゃくちゃ怒られてるじゃないですか」
「そうなんだよ」
《妃殿下のお役に立つために中央へ行かせているのに、妃殿下の足を引っ張ってどうするのですか! 何をやっているの、あなた! この脳筋!》
「……めちゃくちゃ怒られてるじゃないですか」
「……っそうなんだよ」
不貞を微塵も疑われていないほど、信頼されていると言えば聞こえは良いが、これは夫の心配よりも王妃への心配で信頼がかすんでいるというか。
レイスは、隣で小さくなった伯爵の背を撫でてやった。
「――とまあ、我が家に痛手はないから、こちらは気にしなくていいんだが」
伯爵の顔が一瞬で渋くなる。眉間を寄せ、口の端から舌打ちが漏れる。
「妃殿下の株を、意図的に誰かが下げようとしているな」
「陛下か、もしくは……」
「正聖女派の貴族……まあ、恐らくはバルバリード公爵と、その周囲というところだろうな」
二人して顔を見合わせると、肩をすくめ大きな溜息を吐いた。
「彼女が国を支えている柱だと、何故分からないものかね。これだから中央には近寄りたくなかったんだ。国のことより、自分の利になることばかりに頭を悩ませる、不愉快な連中が多すぎる」
「だとしたら、こんな国……なくなった方が民のためですね」
「まったくだ」
同意に深く頷いた伯爵を見て、しかしレイスは、自分とは同じ思いではないだろうなと薄く笑った。
「で、本当に妃殿下とは微塵も何もありませんよね?」
「君、案外ねちっこいなあ」
◆
夜、王都にある自宅へと戻ったレイスを、彼の補佐官であるシュラウが待ち構えていた。
「――もう、ベルハイク領へちょっかいはかけなくて良いんですか」
「元々あれは、伯爵の目を中央から遠ざけておくためのものだったからな。伯爵自身が中央にいるのなら意味がない」
「伯爵は、我が国でも名将で有名でしたからね。しかし、中央にいるということは、状況が悪化したのでは? 中央に攻め入ったときに彼がいたら面倒ですよ」
ベッドに腰掛けたレイスは、クスと片口をつり上げる。
「心配ない。どうやら俺たちが手を回さずとも、この国はじきに崩れる。ただ……」
「ただ?」
「より厄介な王が立つかもしれないな」
「ええ!? それでは困りますよ! せっかく愚王が王位に就いて弱体化している隙に、ノーディレイに併呑しようという作戦が! 第一王子もレイス様のことを心配しておいでですし、今後の作戦を練り直すために一度国に帰られたらいかがです」
「確かに、国に帰ろうかとも思ったんだけどな……」
勝手に倒れゆく国を端から見物するのも悪くないと思った。ただ――。
「彼女ひとりを、あそこに残していきたくなかったんだよ」
口の中で呟いたことに「何か?」とシュラウが反応したが、レイスはなんでもないと流す。
目を閉じれば、いつの間にか、真っ先に彼女の顔が浮かぶようになってしまった。
『マ、マリア様の部屋に二人きりで入っていったというのは本当なの……!』
「……っ!」
カッと顔が熱くなる。
あれは、どういう意味で聞いたのだろうか。ただの確認か。それとも……。
「にしても、そんな愚王をいただいて、どうやってこの国は延命できているのですかね」
「妃殿下が全て支えられていたんだよ」
「ああ、あのひきこ――ムグッ」
ひきこもりと言いかけて、シュラウは慌てて自分の口を両手で蓋した。またレイスからの冷視をもらっては堪ったものではない。
しかし、時既に遅く、レイスが血走った目を向けていた。
「……お前、そんなに舌を千切られたいんだな。ほら、口を開けて舌を差し出せ」
「違います違います! だって仕方ないじゃないですか! 私は今の王妃の様子を知らないんですから!」
イヤイヤと、口を両手で隠して、ひな鳥のように煩く鳴くシュラウは、矢継ぎ早な発言で話題を変える。
「や、厄介な王が立つのであれば、その前に攻め入りましょうか?」
いや、とレイスは口角を深くつり上げた。
「その人が王冠をいただく姿を見てみたい」
きっと、女神でさえ跪いてしまうほど神々しいに違いない。
「随分とその者をかっているのですね?」
シュラウは訝しげに首を傾げていたが、彼女の本当の姿を知って惚れない奴はいないだろう。
もしかして引きこもっていたのは、神が彼女を閉じ込めていただけかもしれない。その英明さと美貌にふさわしい者が現れるまで。あの国王に彼女はもったいない。
できるなら、自分がこの国を奪って彼女へと献上したかったが、それは傲慢だと知った。彼女は自分の手で国を奪取できるほどの、知力と胆力と実行力があった。それは本来、国の王たる者が備えるべき資質。
彼女は、国王との離婚を了承するつもりだと言っていた。であれば、その後、自分にも彼女に口づけする権利は与えられるだろうか。
◆
王宮前大広場で、マリアは変わらず民へ神力の施しを行っていた。
「はい、もう大丈夫ですよ。今度は怪我しないように気をつけてくださいねぇ」
荷運びで負ったらしい腕の打撲を治療してやれば、男は喜んで帰っていく。
マリアがふう、と一息吐けば、すぐにユビウスが「お疲れ様です」とやって来た。
公爵という貴族では一番上の家格の跡継ぎを、まるで執事のように使えることに、ささやかな優越感を覚える。
「あと、どの程度いけそうですか?」
「えっとぉ、今日治療したのは、擦り傷三人、打撲五人、あと、風邪っぽいのを二人……ってところです。結構治療したと思うんで、もういいかなぁって……」
そんな話をユビウスとしていると、正面の通りから男の子が、息を切らせながら懸命に走ってくるではないか。
「正聖女さまー!」
マリアの腕の中に飛び込むようにしてやって来た男の子は、十歳くらいだろう。長い間走ってきたのか、はぁはぁと肩で息をして額に汗をかいている。
「どうしたんですか、ボク?」
「っ母さんを助けて! お願いだから、早く来て!」
少年はマリアの腕を引き、あっちだと通りの先を指さす。
「ちょ、ちょっと待ってね。君のお母さんが怪我してるの?」
「違うよ、病気なんだ! もう一週間も熱が下がらなくて……っ、食事もほとんどしてくれなくて……。だから、正聖女さまにお願いにきたんだ!」
少年の切羽詰まった大声に、なんだなんだと人が集まり始めた。少年は周囲の目も気にせず、泣きながら「助けて」と繰り返し叫ぶばかり。
(いい加減にしなさいよ、このガキが! 神力はタダじゃないのよ!?)
自分の生命力を力の根源として使用すると聞いたときは、絶対神力など使いたくないと思ったものだ。休めば回復するものだとも説明を受けたが、そんな曖昧なものあてにできるか。
(なんで、全然知らない奴らのために、あたしが命を削らないといけないの!)
ましてや、傷と違って、病はどれほど力が必要か分からないのだから。一週間も熱が下がらないならば、ただの風邪ではないはずだ。
「ごめんね、ボク。お姉さんも本当は君のお母さんを救ってあげたいの。でも、まだお姉さんはこっちの世界に来たばっかりで、上手く力を使えないんだ。そうだ、お医者様に見てもらったほうが――」
「この、偽物!」
突如豹変した少年。先ほどまでの懇願する表情から、今は鬼のような形相でマリアを睨み付けている。
「知ってるもん! オマエがいつも治すのは、放っておいても大丈夫な軽い怪我とか病気ばっかりだ! 聖女様は皆を救ってくれるって母さんは言ってたもん! だからお前は聖女様なんかじゃない、偽物だ!」
「だからそれは……っ」
少年の批判に、固唾を呑んで見守っていた聴衆も「そういえば」とザワザワとし始める。
まずいとは思いつつも反論できずにマリアがたじろいでいると、背後でユビウスがチッと小さく舌打ちした。
彼はすぐに人の良さそうな笑みを顔に貼り付け、少年の前で膝をつく。
「少年。じゃあ君は、母親さえ助かれば、街の皆が死んでもいいって言うのかい?」
「そ、そんなこと言ってないよ!」
ユビウスは少年の肩をポンと叩いて立ち上がると、こちらを注目している聴取達に聞かせるように声を張り上げた。
「あまり知られていない話ですが、聖女様の神力は、本人の生命力を根源としているのです。もし、この少年の母親を治療したとしましょう。母親は重病で命があと僅かだとして、もしそれを治療するだけの神力をつかったら? その他大勢の治療できた者達が恩恵を受けられなくなりますよね」
非難めいていた喧騒が一瞬にして別物へと変わった。「だったらねえ……」と、今度は少年に我慢しろよとばかりの目を向けている。皆自分の身が一番可愛いのだ。
「少年。世の中には、優先されるべき順番というものがあるんだよ」
自分が批難され始めたことに顔を青くした少年に、ユビウスが勝ち誇ったような笑みを向けていた。
「あたしを守るためにそこまで……ユビウス様素敵ですぅ」
腕に絡みつくマリアをそのままに、「さあ、帰りましょう」とユビウスが王宮へと足を向けたときだった。
ドッ、と足下から強烈なな突き上げを受けた。
それはマリアだけではなく、ユビウスや集まっていた聴衆、はたまた王都の者全員、皆同じだった。
次の瞬間――。
「――ッきゃああああああ!」
すぐに、めまいを起こしたかのような強烈な揺れが、人々を襲った。
腹を空かせた獣のような恐ろしい地鳴りが響き、それと一緒に空からは崩れた建物の破片が降り、地面は薄氷を踏み抜いたようにあっけなく割れていく。
「マリア様!」
立っていることも難しく、マリアは力なく地面にへたり込み、ユビウスもその場から一歩動けずにいた。あちらこちらから聞こえる悲鳴や何かが割れる音。
地鳴りは人々の声を飲み込み、さらに大きくな唸りを上げていく。
この日、王都をまるごと飲み込むほどの地震が、リナフィア達を襲った。




