なんなのよ、いったいぃ……
「伯爵、いつ王都にお戻りに」
「妃殿下、ちょうど良かった。実はつい先ほど王都につきまして、その足で直接お訪ねしようと思っていたところでした」
伯爵はリナフィアの前で足を止めると腰を折った。久しぶりに見る彼の顔は実に生気に満ちていて、領地運営が上手くいっていることを物語っている。
「私も伯爵とは色々話したいことがあったのですが、少々急ぎの用事ができてしまいまして……直接こちらへ来てくださったということで、さぞお疲れでしょう。しばらく宮で休まれていってください。ミレーネ、ご案内を」
「では伯爵様、こちらへ。妃殿下が戻られるまで応接の間でお待ちください」
「それほどの急ぎとは……どうなさったのでしょうか」
「少し、人捜しを……とある近衛兵が私のせいでいわれなき咎を受け、王宮を追われたようなのです。だから一刻も早く探さなければ……」
すると、伯爵は「なるほど、よかった」となぜか満面の笑みになった。何が良かったのかさっぱり分からず、リナフィアもミレーネも顔を見合わせ首を傾げる。
「実は、妃殿下に紹介したい者がいまして」
「ですから、伯爵様。ご用件は後ほど改めまして伺いますから……」
しかし、焦れたリナフィアの声など聞こえないとばかりに、伯爵はずっと彼の背後に付き従っていた青年を目で示した。
「新しく、私が雇った者です」
彼の背後から出てきたのは、目深に外套のフードを被った青年。てっきり従者かと思っていたのだが、わざわざ紹介するということは違うのか。
「妃殿下にご挨拶申し上げます」
青年がフードを脱げば、リナフィアの目はたちまち大きく見開かれていく。
「レイス・ミッドネイルと申します」
「……ぁ……っ」
リナフィアは声にならない声を漏らし、震える指先で口元を覆った。
「これから王都で私の補佐官を――っとと……」
伯爵は眉を下げて笑うと、そっとその光景に背を向けた。それはミレーネも同じこと。二人してすました微笑顔で天井を見つめる。
背後では、リナフィアがレイスに抱きついていた。声もなく、安堵をぶつけるように、ひたすら強く。
レイスは苦しいほどに抱きつく小さな背中にそっと触れた。
「妃殿下、ご心配をおかけしました」
◆
リナフィアの部屋で、リナフィアと伯爵がソファに向かい合って座り、それぞれの後ろにミレーネとレイスが起立して控える。
間にあるテーブルの上には、北部に領地を持つ貴族達のサインが入った契約書が、ずらりと並べられていた。
「し、失礼しました。つい、安心した勢いで感情が高ぶってしまい……」
リナフィアは、少々気恥ずかしそうにコホンと咳払いをして、声音を変える。
「伯爵、感謝いたします。これだけの領主達から了解をとっていただけるとは」
「言ったでしょう。私に付随する者は全て妃殿下に従うと。それに、特区構想を考えたのが妃殿下と知れば、皆あっぱれと手を叩いてサインしましたよ」
「私の方もマルヤム伯爵からは了解をいただきました」
「マルヤム伯爵様ったら、ウォーカス商会がなくなり税収が落ちると分かった途端、交換条件の下落分を補填するという申し出に、蛇のように食いつきましたからね」
どやっ、とミレーネが誇らしそうに胸を張っている。
「交換条件もなにも元々、急激に税収が落ち込んだ領には、国庫から補填される制度があるのよ。知らない人がほとんどでしょうけど。勝手にあちらがそれと引き換えと思っただけよ」
「妃殿下はなかなかに交渉上手のようで」
リナフィアと伯爵は、目で微笑みを交わした。
「それで、レイス卿。あなたの身に何があったの」
「それが――」
レイスは、近衛師団長に免職を告げられてから、すぐにベルハイク伯爵を訪ねたと言う。先の北部視察でレイスが近衛師団に所属する者と覚えていた伯爵は、ひとまず事情を尋ねた。そこでレイスのあまりにも急な免職と、それが王命で下されていることを知り、伯爵は何か裏に事情があるとすぐに察し、自分のところで雇うことにした。もともと辺境伯として軍をもっている伯爵が、騎士団のエリートである元近衛兵の一人を雇い入れたとて不思議はない。
「どうして伯爵の元へ?」
「伯爵の元でならば、妃殿下をお支えできるかと思ったからです」
「私……?」
「正直、近衛兵という立場に未練はありませんでしたし、故郷に帰ろうかとも思ったのですが……このような場所で過ごされている妃殿下が心配になりまして……」
途端に「あらあらあら」とミレーネが、「おやおやおや」と伯爵が目を弧にする。
ニヤニヤと口元を緩め、リナフィアを見てくる。
しかし、当のリナフィアは「な、何か?」と視線の意味を解さない。
「……お二人とも、妃殿下を困らせないでください」
ミレーネと伯爵の態度に、レイスの方が声を険しくする。
しかしそうは言いつつも、彼の頬は暗い声音とは反して赤い。
「それに妃殿下は、私と違って既婚者ですから。ご迷惑になるようなことは、決して口にしないでください」
「ああ、でもそろそろ離婚されるけど、私」
さらりと告げられたリナフィアの言葉に、「え」と三人が動きを止めた。ひとり涼しい顔して紅茶を口にするリナフィア以外、全ての時間が止まる。
「っえええええ!? 妃殿下、なんですかそれは!? 私、聞いていませんよ!」
「言ってないもの」
「妃殿下、紅茶など飲んでいる場合ですか!」
「冷める前に飲まないと、美味しくありませんし」
「というか、それは本当の話なのですか、妃殿下!?」
皆、妃殿下妃殿下とうるさい。
はぁ、と前髪を掻き上げながら、リナフィアはソファの背もたれに身体を預ける。
「本当よ。マリア様と話しているのを聞いてしまったの」
実際は聞いてはいない。だが、既に経験はしてしまっている。
「妃殿下……どうしてそう落ち着いていられるのです……うぅ」
ハンカチを目元にあてがったミレーネが、情けない声で縋りついてくる。
「こればかりは騒いでも仕方ないでしょう。陛下が離婚を教会に申し出れば、私ひとり騒いだところで、どうしようもないのだし。もし私が離婚を拒否しても、王に離婚を切り出された王妃なんて、誰も王妃として見やしないわ」
誰も否定できなかった。
「お望みならば、申し出をとどまるよう、私から陛下に圧力を掛けることもできますが」
地を這うような重い声を出した伯爵の目は、いつもの柔らかいものではなく、今や北部の王としての威厳を宿している。彼の周囲の空気がひりついていた。
「お気持ちだけいただきます、伯爵。それに、私はその申し出を受けるつもりですから」
「そんなっ!」とミレーネが叫声を上げた。
向かいの二人も、理解しかねるといった顔でリナフィアを凝視している。
二人の目が『その後はどうするつもりだ』と問いかけていた。
三人がリナフィアの言葉を固唾を呑んで見守る中、彼女は問題など存在していないかのように、ふわりと笑った。
「私、ただで別れるつもりはありませんから。慰謝料をたんといただくつもりですし。これは、そのための契約書ですもの」
契約書の一枚を手に取り、ひらりと振ってみせた。
台詞の内容と表情に激しい乖離があり、三人は理解するまで数秒の時間要した。
三人の脳にしっかりと意味が染み渡って、最初に声を発したのは最年長者である伯爵だ。
「――っあはははは! 国王から慰謝料とは、実に剛気王妃様だ! それでその契約書、実に文言が特殊ですが、どのように使うので?」
「ふふ、それはいくら伯爵でもまだ内緒です」
リナフィアが楚々と首を傾げて微笑めば、さらに伯爵の笑い声は大きくなった。
「侍女殿は、何か妃殿下の計画を知っているのかい?」
「いえ。ただ以前妃殿下は、伯爵とお話しされているときに、この契約書は領地戦だと仰っていたことくらいしか」
ミレーネが勢いよく首を縦に振る。
「領地戦? 私も伯爵から契約書を見せてもらったのですが、その文言では争えないかと思うのですが。せいぜい脅しかはったり程度かと……」
レイスも議論に加わるが、やはり分からないようだ。
「やはりレイスもそう思うか。他の領主達にサインを貰うとき、領主達と一緒に私も首を傾げていたが……しかし、どうやら我らが妃殿下は、我らには思いつかない方法で慰謝料を国からふんだくってくれるらしい。実に楽しみだな!」
「まあ、ふんだくるだなんて。ご安心ください、正統な手段で奪いますから」
リナフィアの言い方に、フッ、と三人は噴き出していた。
「とにかく今は契約書を一枚でも多く集めることです。ご協力ください。そうしたら、誰もがあっと驚く手品をお見せしますわ」
伯爵は用事は済んだとばかりに帰ろうとしたが、リナフィアが待ったをかけた。しかし、呼び止めたのは伯爵ではなくレイス。彼女はレイスだけ部屋に残るように言い、伯爵とミレーネを先に部屋から出した。
閉めた扉の前で向かい合うリナフィアとレイス。
(ひ、引き留めでどうするのよ、私。何を言おうっていうのよ)
とはいえ、聞きたいことは決まっている。しかし、それを自分が聞いてどうするのだという思いもある。もし、それが真実でも自分には関係のない話ではないか。
(か、関係は無いけど……っ!)
「――――っなの」
「え?」
「マ、マリア様の部屋に二人きりで入っていったというのは本当なの……!」
「えっ!? どうしてそれを」
「やっぱり本当なのね!? 私を抱き締めておいて、マリア様もだなんて!」
「ご、誤解です! 確かに正聖女様を部屋まで抱えてお送りしましたが、それは足をくじいたと言われたから仕方なくで。決して自分からというわけではなく……」
「本当……なのね?」
チクチクと緊張していた心が、ほっと緩まる。
「信じてください、妃殿下。こうして戻ってきたのも、妃殿下のおそばにいたいと思ったからですし、いつも触れたいと思うのは妃殿下だけですから」
「え」と、リナフィアの顔にぼっと火が付いた。
「触れたいって……い、いつも……思って、るの……」
「え? …………っあ!」
リナフィアの変化で、自分がうっかり何を口走ったのか自覚したレイスも、たちまち顔を真っ赤に染める。
「あの……レイス卿、それはどういう――」
「どうかご放念ください、ただの馬鹿な男の戯言と……っ!」
リナフィアの言葉も聞かず、レイスは失礼しますと言うやいなや、あっという間に部屋から出て行ってしまった。
「言い逃げは……ずるいわよぉ……」
リナフィアは、へなへなとへたり込んでしまった。
◆
その頃ルーベントの部屋では、部屋の主と老齢な貴族が並んで窓の外を眺めていた。
「バルバリード公爵、建国祭の日だ」
「かしこまりました。大司教にもそう伝えておきましょう」
窓の外には王妃宮が見えている。
「……リナフィアがあれほど取り乱すとはな。俺のことではあんなに感情を露わにすることも、とうになくなっていたというのに」
「何か?」
「いや……妻の泣いて許しを請う姿が楽しみだと言っただけだ」
そして部屋の外には、扉に耳を当てたマリアの姿が。
「るっるる~ん。あたしは世界で一番王妃様~」
彼女は、『離婚』と『建国祭』という言葉をしっかりと耳に挟み、スキップしながら離宮へと帰っていった。




