これが私の夫…なんてね
「どうした、裏切られて苦しいか? ハッ……その反応。やはり君の愛人だったか」
悔しくも、ルーベントの嫌みったらしい言葉が、リナフィアの意識を現実へと戻した。我に返るとすぐにリナフィアは威儀を正し、平然と口を動かす。
「ですから、何度も違うと言っています。私が驚いたのは、マリア様がそのような、はしたない行為に及んでらっしゃると聞いたからです。確かに彼女は側妃ではありませんが、それでも公で陛下の愛人と見なされている方。それが別の男を部屋に招き入れるなど……」
そこでリナフィアは、彼がここにいる理由に思い至る。
人差し指を頬に滑らせ、軽く顎を上げ微笑してみせるリナフィア。
「ああ……なるほど。それでマリア様と喧嘩なさったのですね。そして慰めてほしくて私の元へ? 馬鹿になさっているのはどちらでして?」
ルーベントの口角が苦々しそうに下がる。
「……君は俺の妻だろう」
「妻だからあなたの全てを受け入れろと。では、あなたは私の夫としての役目を全うなさいましたか?」
ゆらり、とルーベントがソファから立ち上がった。いつもは傲慢なほどに光を宿している蜜色の瞳が、今は泥水のように濁っている。
「うるさい」
ルーベントの逞しい上体は、二人の間を遮っていたテーブルを越え、伸ばされた腕がリナフィアの首をつかまえた。
「近頃、頻繁に宮を空けているようだが……どこへ何をしに行っているのやら」
「……っ含みのある言い方ですね。お望みであれば、そのままどこかへ立ち消えましょうか――痛ッ!」
首に鋭い痛みが走った。恐らく爪を立てられたのだろう。
「妻である君が、俺を見捨てることは許されないんだ」
「また面白いことを……先に私を見捨てられたのは陛下でしょう。どうせ、マリア様という愛らし幼妻を迎えられるおつもりでしょうに」
自分は妻をあっけなく見捨てておいて、こちらには許さないとは勝手が過ぎるだろう。
「リナフィア、君は俺のものだ」
「違います。私は私だけのものです」
もう二度と、誰にも、自分の運命を勝手には扱わせない。
真綿で締められているかのように、じわじわと首を掴む彼の手が狭められる。それでもリナフィアは正面から真っ直ぐにルーベントを見返す。
首を掴んでいた指先が、僅かに怯んだ気配があった。
「言っておくが、君が王妃でいれるのは、俺という存在があってこそなんだからな。俺は伴侶が誰であっても王だが、君は違う。せいぜい、俺の機嫌を取ることを覚えた方が良い」
膝の上で握りしめた拳がドレスを巻き込んで、ぎゅっと苦しそうな音を出す。
言いたいことを全て言ったのか、ルーベントは口元を笑ませると、ようやくリナフィアの首から手を離した。
首に得も言われぬ生ぬるい不快感が残り、リナフィアは無意識にそこを撫でてしまう。
「陛下。くれぐれも、近衛兵が王妃の愛人だのという嘘を吹聴なさいませんよう。近衛兵にも迷惑が掛かりますし、何よりこれ以上は王家の信用失墜に繋がります。それにこの噂を流されて一番困るのは私ではなく、あなたとマリア様です。ふしだらな女とそれを良しとする王を仰ぐほど、この国の民は甘くありませんよ」
そう。元王妃であっても、嘘を信じ込み、簡単に見捨てることができるくらいに、民は冷たい。
ルーベントはソファに腰を下ろさず、立ったままリナフィアを見下ろしていた。黄土色に濁った瞳は真っ赤な髪を映し、そして愉快だとばかりに弧を描く。
「ああ、言い忘れていたが……その近衛兵はとっくにクビにしたよ」
「なっ――!?」
口をわななかせ、驚愕に目を見開いたリナフィアの顔を見て、ルーベントの笑みはより一層濃くなる。
「何てことを! あなたは、この国の王としての自覚はないのですか!」
これにはリナフィアも立ち上がり、怒気の籠もった目でルーベントを睨みつけた。
「勝手な自分の思い込みで、ひとりの臣下の人生を狂わせて良い道理などありません! 王という立場にはそれだけの力があるのです。ですから、尚更その力を振るうときは慎重にすべきでしょう!」
「やけにあの近衛兵を庇うんだな」
「いい加減になさいませ!」
なぜそうまでして自分とレイスの間柄を疑うのか。
「道理ならある。俺の妻とマリアにたかるハエを払うというな」
「今更そんな言葉で、私を縛ろうとなさらないでください! あなたと最後に肌を重ねたのはいつだったか覚えていますか!? 恥を忍んで私から子作りのことを口にしたとき、あなたがなんと返されたか覚えていますか。あなたが私を妻を見る目で見たことなど、どれほどありましたか……っ!」
彼の前で泣きたくなどないのに、勝手に目が熱くなる。リナフィアは奥歯を噛んで、決して涙があふれないように耐えた。
「あなたは私を一度も愛したことがないというのに」
「どうして……」
リナフィアの言葉にルーベントの眉が動揺に揺れた。
当然だろう。彼は自分にそのようなことを言ったことはないのだから――まだ。
「いつから気付いていたんだ」
(ああ、否定すらしないのね)
どうして自分には治癒の力しかないのだろう。
どうしてこの男を神力では殺せないのだろう。歯痒くて仕方ない。
「まあ、それでも君は俺の所有物だからな、まだ。俺は他人が自分のものに触れようとするのが許せんのだ」
「そう……『まだ』なんですね」
リナフィアは一旦俯くと、思い切り鼻をすすり顔を上げた。リナフィアの目尻は赤くなっていたが、ルーベントに向ける瞳に揺らぎはもうない。
「これ以上、陛下と話すことなどございません。政務に戻られなさいませ」
顔は彼から逸らさず、指だけで入り口を示す。
「でないと、私があなたの椅子を奪いますよ」
ハッ、とルーベントは腹を押さえて馬鹿にするような笑いを漏らした。
「できるものならやってみるんだな」
そう言い捨てると、ルーベントはやっと執務室を出て行った。
◆
「ミレーネ!」
執務室から自分の部屋へと戻ったリナフィアは、入るなり腹心の侍女を呼んだ。
「どうかなさいましたか、妃殿下。そのように慌てられて」
「少し出るわ、後は任せたわよ」
リナフィアは言いながら、手早くクローゼットから外套を取り出し羽織る。ただ事ではない様子に、ミレーネはさっそくに部屋を出て行こうとするリナフィアの手を掴んだ。
「お待ちください、妃殿下! そのように慌てられて何があったのです!? それに顔色も悪く……何があったのか話してくださいませんか。何かお力になれることがあるはずです」
落ち着いてください、とのミレーネの言葉と、一旦動きを止められたことで、リナフィアの急いていた気持ちも幾分かは収まる。
浅くなっていた呼吸が深くなれば、ようやくリナフィアの足は扉ではなく部屋の内側へと向いた。
「はぁ……ありがとう、ミレーネ。少し、混乱していたみたいだわ」
「いったい何があったのですか」
リナフィアは、執務室での出来事と、レイスと自分とのこれまでの接点について話した。
「まさか、あの妃殿下が手当された近衛兵とその後も繋がりがあったとは……なるほど、街で会った時の親しさはそれ故だったのですね」
レイスのことを口にするミレーネは、なぜか少し楽しそうだ。顔にワクワクと書いてある。しかし、それもすぐに消え、次の瞬間には表情は曇っていた。
「それにしても、陛下はいったい何を考えられているのでしょう。妃殿下をこれほどまでに悲しませ、挙げ句の果てに妃殿下の心の潤い――っと、失礼しました……近衛兵の方にそのような仕打ちをなさるとは……」
「ミレーネ?」
一瞬何か、個人的感想が紛れ込んでいたような気がするが。
しかしミレーネは、表情を険しくしたまましれっとして腕を組んでいた。
「私が原因で免職されたんですもの、探して私が責任を取らないと。きっと、彼は青天の霹靂だったはずよ。急に追い出され、どれほど辛い思いをしているか……っ」
「しかし、手がかりなしでこの広いサウザード王国の中から、たったひとりを探すのは不可能ですよ。近衛兵だったというのなら、まずは近衛師団長に話を聞きに行きましょう。もしかすると、レイス卿の行方を知っているかもしれません」
確かに。今後のあてなど伝え残しているかもしれない。
それにしても、ルーベントはいつ彼を追い出したのだろうか。マルヤム領へ行ったりと、しばらく王宮を空けていて気付くのが遅れた。
いわれのない罪を咎められ、しかもそれを命令したのが自分の夫とは、情けない上、申し訳なさ過ぎて自分に腹が立つ。今、彼はどこにいるのだろうか。行くあてはあるのか。次の職のあては? しばらく凌げるだけの金は? 考え出すと、不安事がどんどんとあふれて止まらなくなってくる。
すると、両肩にそっとミレーネの手が乗せられた。横から抱き締めるように、グッと彼女に引き寄せられる。いつもリナフィアに従順で常に一歩下がるミレーネだが、こういうとき不意に、彼女は自分より大人のお姉さんなのだと実感する。
「妃殿下、きっと大丈夫ですから。だから……そんな寂しそうな顔をなさらないでください」
「え」とリナフィアの顔が跳ね上がる。
意味が分からないとミレーネに目で問えば、彼女は苦笑のみを返してきた。
「私は別に寂しいわけではなく、ただ申し訳なくて……」
「そうですね、妃殿下」
やはりミレーネは苦笑を返すばかりであった。
二人はさっそく近衛師団長を訪ねるため、部屋を出た。師団長の部屋は王宮の北棟にあったはずだ。
しかし、二人は部屋を出たところで思わぬ人物と遭遇する。
貴族服の上に、左肩だけに引っ掛けた黒い長套――ペリースを翻らせながら、こちらへ駆け寄ってくる壮年の紳士。
「べ、ベルハイク伯爵!」
「あなたの喜びそうなものを持ってきましたよ」
ベルハイクは紙束の握られた手を、頭上でひらひらと振った。




