俺にすればいいのに
がやがやとした客の騒がしい声は、密談の声を隠してくれるからちょうど良い。顔を赤らめた男達は、隣の卓の様子さえ目に入らないといった様子で大声を上げて騒いでいる。きっと、今隣国の兵士達が店に入ってきても、誰も気付かないだろう。
「――っはあ!? 抱き締めた!? だ、誰をです!?」
「……妃殿下」
シュラウは再び素っ頓狂な声を上げた。幸いにも彼がガチョウのような声を出しても、周囲はまったく気にもとめない。
「分かっているんですか!? その方はあなたが滅ぼす国の王妃ですよ」
ひそめ声の中で最大限の音量で叫ぶシュラウの額には、汗が浮いている。
「分かっている……分かっては、いたんだがな……」
頬杖をついた手で口元を隠し、視線を逸らすレイス。
シュラウは珍しい己の主人の様子に目を瞬かせた。いつもは凜々しさのある眉も今はどこか大人しく、逸らした視線の先で、まるで何かを見つめているようだ。彼の頬が仄かに染まっているのは酒のせいか、それとも……。
「……王妃のことが好きなんですか」
「感情の名は分からないが……ただ、彼女が倒れたと聞いたとき、守りたかったと思ったんだ」
「あなたのそのような姿を見るのは、乳兄弟の私でも初めてですよ。少々驚いています」
サウザード王国と対をなす、大陸の強国『ノーディレイ王国』。
二国は長い間対立関係にあり、レイスはその国の第二王子である。
一方、シュラウはレイスの乳兄弟であり、今は第二王子付きの補佐官として彼の政務を手伝っている。
長年、聖女の力を独占しているサウザードをノーディレイ含めた周辺国はよく思っておらず、一時の友好を築きはしたものの、裏ではサウザード王国の弱体化のために動いている。
そのひとつとして、サウザード王国の穴を探し弱体化させるために、レイスが王宮に潜入しているのだが、まさか彼がこのような事になっているとは。
第二王子という立場であり、縁談話は途切れたことがないのにまるで女っ気はなく、次期国王である兄の政務を積極的に補佐する、国務馬鹿であったレイス。
国一番に美しいと言われる令嬢すら袖にし、他国の姫との縁談話もまだ早いからと断っていたのは、つい最近の話だというのに。
自分が目を離した隙に何があったというのか。
「レイス様が色事に関心を持たれたのは良いことですが、そのお相手が……既婚者な上、敵国の王妃という……どうして、そんな絶対に誰も落ちないようなところへ落ちられるのですか。しかも、確か王妃は年がら年中王妃宮に籠もっているという噂の――」
「シュラウ」と、今まで黙っていたレイスが重い声でシュラウの言葉を遮った。
「事情も知らずに下手なことを言うなよ」
シュラウに向けられたレイスの目は、抜き身の刃のように鋭利で、シュラウは思わず身を竦ませ慌てて「すみません」と謝る。
「いや……悪い。少しムキになった……」
溜息と一緒にレイスは前髪をクシャリと乱すと、パンツのポケットから白いハンカチを取り出した。
「俺だって、そんなつもりは微塵もなかったさ」
「どなたのハンカチです? 女物のようですが」
それも高貴な。柔らかそうな生地は遠目にも質が良いと分かる。借りただけにしては、それを見つめるレイスの目は、あまりにも愛おしさにあふれている。
そこまで読みとって、シュラウはハンカチの持ち主に思い至った。
「――それはそうと」
酒を一気に喉に流し込み杯をドンッと卓に叩きつけるように置く。ビクッとシュラウの肩が跳ねる。
「この間の、ベルハイク領への夜襲な?」
レイスの顔は笑っていたが、シュラウは彼の額に青筋を見た。
「俺は兵士以外は傷つけないようにと念押ししたはずだぞ。なあ、シュラウ卿?」
「あ、あれは、偶然といいますか、不幸な事故といいますか……っ、決して傷つけようなどとは、ましてや女性をなどもっての他で」
「言い訳はいい。あれでベルハイク夫人だけでなく、妃殿下までも被害を被る羽目になったんだからな。罰はしっかりと下しておけよ」
「それは、かしこまりました……が、被害を王妃も受けたのですか?」
「神力を使ったようだ。聞くところによると、夫人はほとんど死にかけていたらしい。それを彼女が蘇生させ反動で倒れたんだそうだ」
ベルハイク領駐屯地で、レイスは一度リナフィアが神力を兵士達に使うのを見ている。彼女が手をかざせば傷は消え、折れた骨は繋がり、病は快癒していた。兵士達は奇跡を当然として受け入れ、ただ喜んでいただけだったが、近くで見ていたレイスは驚きと畏怖でいっぱいだった。
人にはできないことを、さも当たり前のように施し、周囲もそれを受け入れている。サウザード王国が、今までどれほど聖女の力にあやかってきたのかよく分かる光景だった。
「それほどの状態からでも蘇生を……聖女というのは、本当に人智を超えておりますね」
シュラウもやはり話を聞けば唖然としていた。驚きと、信じられないという疑念と、羨望と尊崇とがない交ぜになった顔で。
これが本来あるべき反応だろう。それだけ、彼女は稀有な存在であり、大切に扱われるべき人なのだ。だというのに……。
「……一国に聖女は二人もいらないだろう」
閉じた瞼の裏には、彼女の姿が思い浮かぶ。
「欲張りすぎた代償は高いと、あの王には教えてやらないとな」
そっとレイスはハンカチに口づけを落とした。
レイスの本気度を目の当たりにしたシュラウは、背中に汗を滲ませた。
◆
居酒屋の中で別れ、レイスはひとり先に家へと戻る。王宮からほどよく遠く、先ほどまで飲んでいた居酒屋と同じ退廃的な空気が漂う街の一角に、サウザード王国での住まいはある。
王子が住むにはあまりにも小汚く小さい家で、潜入当初はシュラウ達に強く反対されたが、独り身が無駄に豪華な家に住んでいても変だろう、ということで無理矢理押し切った。
それに、昼夜問わず動くことも多くなるだろうから、このくらい人気の少ない場所にある家のほうが都合が良かった。
飲み過ぎたのか、足元が少々うわつく。
レイスはベッドに倒れ込むようにして寝転がった。気怠い身体で寝返りを打ち、仰向けになる。ノーディレイ王国の王宮にある自分の部屋とは、似ても似つかない天井。
「そうだ……俺はこの国を滅ぼすために……潜入するために来たんだ」
なのに、なぜ、こんな感情を抱くことになったのか。
シュラウが驚くのも無理はない。自分でも、自分の行動に驚くことがあるのだから。
「さすがに、抱き締めたのはまずかったよな」
しかし、夜襲の日から彼女に会うこともなく、ずっとどのような調子か気がかりだったのだ。それで、国王の護衛として図書館の入り口で待っていたら、まさか出てきたのが彼女で、思わず安堵から抱き締めてしまった。
すぐに我に返り離れたが、彼女は目を丸くしていた。
「……ったく、ざまないな」
いつからという明確な時期は恐らくない。
ただ、仄かにわいた興味が、いつの間にか彼女を目で追わせていた。
手に負った小さな傷に気付き、たかが兵士に自らのハンカチで手当を施した優しい姿に、噂とは違うのではという興味を覚えた。
二度目に彼女を見たのは正餐会。国王が王妃ではなく異世界から来た正聖女を伴って現れたのには驚いた。王妃の体調が優れないからという理由だったようだが、彼女が姿を現したのを見て、自分だけでなく、正餐会に出席していた者達も皆気付いたことだろう。
国王が、どちらを大切にしているのか。
実に空気の悪い正餐会だった。
ひとりバルコニーへ出て行く彼女を見て、足が勝手に後を追った。それはもしかすると、近衛兵の役目として、王妃を身体を心配しての行動だったのかもしれない。しかし、彼女が静かに涙している姿を見て、彼女が突然『王妃』ではなく『ただの女性』にしか見えなくなった。
夫に公然と愛人を優先され、ホールにひとりで入場させられる。
傷つかないはずがないのに。しかし彼女は夫を批難することもなく、誰に愚痴を言うわけでもなく、ホールでは王妃としての役目を毅然として全うしていた。
そして恐らく、決定的に彼女を意識し始めたのは、彼女が国王に押し倒されているのを見たときだろう。あの時は、気まずさと共に、相当な不快感が背筋から頭へと突き抜けた。青い顔して震える彼女はやはり、その時も毅然として王妃の仮面をつけていた。
「俺の前でくらい外してくれてもいいのに……」
自分はこの国の者達とは違う。
自分は王妃としての姿を彼女には求めないというのに。
「言えるはずもないがな」
血が流れる指を舐めたのは、もしかすると国王への反抗からだったのかもしれない。
彼は彼女を痛めつけるためでも、触れることが許されている。
対し、自分は一介の近衛兵で、必要以上に触れることは許されない。
怪我を口実として、彼女に触れたかった。あの国王がやらない深い触れ方をしたかった。
「俺にすればいいのに……」
彼女は、自分の国がなくなったら悲しむだろうか。自分を恨むだろうか。
「フィア……」
それは彼女の愛称。呼んだ瞬間、口元がむずがゆくなった。
いつか、姿を偽るために呼ぶのではなく、彼女の赤髪にキスしながら呼んでみたいものだ。その時、彼女は笑いかけてくれるだろうか。
◆
「え、いいんですか!? このように地味……いえ、質素なドレスで」
マリアの侍女は疑いの籠もった声で聞き返した。
テーブルの上には、今度催される舞踏会用のドレスカタログが広げてあった。いつもなら、マリアは派手で飾りがたくさんついたドレスを真っ先に選ぶのだが、今回選んだのはエンパイアラインのほとんど装飾がないドレス。
侍女が聞き返すのも無理はない。
しかし、やはりマリアが指さしたのは質素なドレス。
「ええ、このくらいがちょうど良いんです」
そう言って、マリア楽しそうに首を傾げた。




