銀の針を持つ……、銀の髪長姫は物想うて産着を縫う。
みっしりと。枝々に濃い色をしかけた葉が勢いよく繁る季節。盛夏の前のこの季節。涼やかな生地で仕立てた夏直衣だが、日が大地を照らしていなくとも、夜、蛙が池で恋歌を鳴いていようとも、風がない日はじっとりとした暑さが身を襲う。
「ふう。都はもう暑いがここも暑いな」
「まあな。山の中はこの時期は暑いぞ」
「なぜだ?都より気温は低かろう?」
「緑が水を吐き出すからな。蒸せる」
しがらみをバッサリ切り捨て寺で飄々と暮らす友を、手土産をぶら下げ訪ねて来ていた。
籠の中には山盛りのすもも。赤黒く熟したもの。朱色のもの。紅いもの。まだ硬く酸いそうな色のもの。
「お前の屋敷なったのか。あの樹は年寄りだが、よく実を生らす」
「ああ。今朝早く下男にもがせた。お前がまだ坊主になる前は、よく一緒にもいだな」
それぞれ好みの色をひとつずつ。齧る。
「旨いな」
「そうか」
果実の表皮には、しっとりと小さな水滴をまとっていいた。汗をかいている様な、すもも。懐から懐紙を取り出し指先を拭うついでに、額を抑えた。
「暑いな」
「そうだな」
「風がない」
「ないな」
「涼しくなる方はないのかな」
「涼しくなる方か、そこの池に飛び込んでこい」
熟していないすももを、ガシガシ齧る奴が、そうからかう。
「阿呆か」
「涼しくなるぞ」
「童ならともかく、この年ではできぬな」
「ハハ。たとえ童でも寺の池や屋敷内のそこで泳ぐなど、ご法度だぞ」
「はあ?貴様と庭の池で泳いだ記憶があるぞ?爺様にしこたま叱られた」
「関白様は我らを池の端に並べられ、青鬼の如くお叱りになられたな」
二人揃えば怖いものなどなかった、幼い頃の思い出話にしばし花を咲かせた。すももの小山が減った頃、ここに来てから気になっている代物の事を聞いてみた。
「そういや、ここに来てから気になったのだが、そこの白の単衣なのだが……、産着か?小さいな。片袖が無い。縫い糸が赤いな。キラキラと光っておるし……。その糸は、どういう染料で染めておるのだろうか。大陸渡りか?」
「ほう。お前の目には『赤い糸』に視えるのか」
祭壇の前に安置をしてある、白の単衣に視線を送る我等。そこには衣桁にふわりと掛けられた、白の単衣とその前には襁褓らしい畳まれた、淡いとりどりの色地の小山があった。
「うん。赤い。その色糸のせいか縫い目がくっきりと判る。縫いの美しい衣だな。仕上がっていないのが残念だな。襁褓もあるのだな。端切れのようだが真新しい布を、襁褓に仕立てるとは。どこの御仁の代物だ?まさかお前……」
「阿呆か、坊主だぞ。この品の供養を頼まれたから置いている。これを縫い上げた、その根性があっぱれな姫宮様の四十九日の法要が終えるまで、夜っぴて経を上げなければならないからな。暇な私に回された」
くつくつと奴が愉快そうに笑う。
「なんだ、曰く付きの代物か……、はて……。宮様といえば。ああ、花屋敷にお住まいだった姫宮様のことか?話を聞かせろよ。少しは涼しゅうなるかもしれぬゆえ」
「ああ。そうだ。その宮様のことさ。美味かったすももの礼に話してやろう。だが、内裏が絡むゆえ他言無用だぞ」
ちゅう。と種の周りの汁を吸いきり、懐から懐紙を取り出し丁寧にそれを包み懐にしまい込むと、立ち上がり数歩。線香をいっぽん、灯すと……、
席に戻った奴の話が始まる。
ゆるりと立ち昇る煙は素直に天に向かう。
三条花屋敷の宮様は、母君と共に御所住まいをされておられた頃は絹糸のような美しい髪から、髪長姫と呼ばれておられたそうな。斎王様だ。役目を終え戻られたが、婚姻はせずに与えられた花屋敷にて、老いのために御前を辞した母君と、極々数人の使用人達と共にひっそり、お過ごしになっておられた。
元から器用なお人だったのか。それとも身を正し、贈られる文も贈り物も要らぬとはねつけられていた為、時を持て余しておられたのか。どこで習ったかは誰も知らぬが、たいそう縫い物が上手なお手をお持ちだったそうだ。
縫い目が至極、細かくてな。肌に直接縫い目が触れても、ごわごわしないそうだ。なので姫宮様の元へは主に御所住まいのやんごとない、幼い宮様達が季節毎、新しく仕立てられる縫い物を頼まれることが多かったそうだ。
しかしここ数年、お目を患ったことで、細やかな縫い目が見えづらくなられたそうだ。満足ができる品物に出来上がらず、それにお心を痛めた宮様は縫い物のご依頼を、お断りになられる事が増えたそうだ。
母親はとうの昔に亡くなり、頼みの綱の親族とも疎遠になられておられた年老いた姫宮様は、通う殿方も居ない。有力な後ろ盾がおられぬ。家令がしっかりとしていたのか、そういった場合に備え蓄えはあったそうだが、これまで以上に倹しくくらすことを余儀なくされたのだ。
大戸は締め切られ、何かと金がかかる牛車は手放し。
出入りの商人達とも縁を切り、節約の為に庭から草を摘み汁物に入れ、茹でて醤もかけずそのまま皿に盛る、水菓子は庭の木からもぎ、草の実を摘む。その様な日々をお過ごしになられていた。
なので宮様は仕える者たちの行く末に、酷うお心を痛められた。そのせいなのか。最近は気鬱の病に伏されておられた。姫宮様は塗籠へと居を移し、人払いをされてひとり、お籠りになられておられたそうな。
そしてここからは、侍従という側仕えが、飲食を絶ち塗籠の奥深くに籠もる主を案じ、密かに垣間見た話なのだが。
老いた姫宮様はお目を患っているにも関わらず塗籠にて、お針を持っておられたのだよ。白の反物がごろりと広げられておられた。
お手には銀に光る針。そして通す糸は何時もお使いになられる、宮様が愛用されておられる御品ではないような気がしたと、侍従。以前から糸はご自身の好みがあるらしく特別なお品を、わざわざ取り寄せ使っておられたそうだ。
ここ最近、縫い物から離れていた事から特別なこの糸の在庫は、屋敷内に無いはず……。侍従は主からかつて出入りをしていた商人より、いつもの糸を買い求めるように命じられた事もなく、布地を裁縫道具と共に運び入れた記憶もなかった。
みなみな、姫宮様が密かに自らの手で塗籠に持ち込んだらしい。
何をお縫いになられておられるのか。侍従が目を彷徨わすと、襁褓らしい縫い上がった布地が、無造作に散らかっていたそうだ。
……、縫い上がっておられるのは、襁褓?端切れを集められたのかしら……ならばお手にされておられるのは、産着かしらん。半端な白の反物が残っていたわね……。お小さい。そういえば、梅坪の女御様が御子を身籠られたと、お聞きしたけれど。産み月はそろそろのはず。
チクチク
背を伸ばし灯明の元、手元を見ずに単衣を縫い進めて行く。
チクチク
糸が終わりに来たのか、つと。手を止める。
そして……。
プツン
すっかりと白銀色になられた、至極細い御髪を一本。
抜く。
スゥゥ
それを白い指先で摘むと、お顔を灯明に向ける。カッと目を見開き、じぃぃぃぃ……。細い細い自身の御髪を灯りに照らし、色をすかし見ておられたと。
ふふふ。
気に入ったのか笑むと髪の端を唇で咥え、糸を湿らす様にスゥゥと、引いていく。
長い長い、細い細い、髪長姫の髪の毛。
そして針に通すと、チクチクと縫い進める。
プツン
髪を抜く。色をよくよくすかし見て……。
「あら。これは不合格。斑は駄目」
不服そうに呟くと床に棄てる。その様な不合格な髪が、あたり一面に散らばっている。
侍従は糸が何であるかを知った途端、腰が抜け尻もちをつき、声が出ぬよう、慌てて両の手でしっかりと、おのが口を抑えたそうな。垣間見た事が知られてはいけないと思ったそうだ。
プツン。
宮様はブツブツ独り言ちながら、針に絹糸のようなひとすじの髪の毛を糸の如く通される。
「こうして……御所で産まれるややこの産着や襁褓を、頼まれるままにこれまで縫ってきたわ。見知らぬ御子達の健やかなる成長を願い、小さな単衣を縫ってきた……。ほほ、ほほ、だけど一度もわたくしが縫った物を着たお子たちに会ったことはない」
チクチク
「ああ……、おたあさまやおもうさま。おじ上さま達を恨みまする。神に仕えたからと。変な公達に引っかかる位なら、清らかな独身を貫いた方が良いと。どうせなら自分のややこに衣を縫いたかった……さすれば今頃、寂しゅうないのに」
チクチク
「産着に襁褓に小さな袿、綿入れに袴に……。毎年、ひとつ、大きいのを縫うの。雪色、浅葱に萌黄、紅梅色にさくら色。それを着た子はきっと喜んで、わたくしにこういうの、『おたあさま。ありがとう』と……」
プツン
「ほほ。礼など言われたこともない。謝礼をしたから良いだろうと高を括って……。血の繋がりがあるのに、子らの祝の席にも呼ばれたことも無い……。反物や糸だけ都合好くお届けになる。縫い司にさせればよろしいのに。俸禄の分、仕事をしなさいな。あぁ……。あぁ……悔しや。悔しや……。どんなに綺麗に縫い上げても、お褒めの言葉ひとつ、頂いたことがない。悔しや……、まるでただ働きの下女のよう。悔しや、悔しや……。あぁ、梅坪のはわたくしの身内。大伯母が産まれてくるややこに、最後にこちらから素敵な贈り物をしましょう」
チクチク
「衣や衣。覚えておいて。春の風は殊更、冷たいのを通すのよ。いといけなややこの肌に、通すのよ。襁褓や襁褓、夏の夜は蒸し暑さを集めなさいな。気持ち悪く眠れなくて泣きわめけば良い。秋の夕ぐれには寂しさを。この世の儚さを知れば良い。冬には雪の冷たさを。心の臓が凍りつく冷たさを届けておくれ。ややこの身体の奥深く、通しておくれ。糸よ糸。わたくしの想いを吸い取っておくれ。願いが叶うまで、強く強く。擦り切れないでおくれ……」
プツン、髪を抜く
スゥゥ、髪を湿らす
シュッシュッ、布をしごく
チクチク、チクチク……
ホホホ。ククク。ネガイヨカナエ。
プツン
スゥゥ
シュッシュッ
チクチク、チクチク……
ホホホ。オオキクナルナ、ブジニソダツナ
プツン
スゥゥ
シュッシュッ
チクチク、チクチク……
クククッホホホ、コヲコロシタとセメラレヨ
プツン
スゥゥ
シュッシュッ
チクチク、チクチク……。
プツン
プツン、
フツ。
スゥゥ……。
ふわりと……。
風が入ってきたせいか、涼しさを感じた。
かなかなかなかなかなかな………
緑深い奥からひぐらし。
「して。宮様はお亡くなりになられた」
「ああ。侍従がたまらなくなり、塗籠に押し入ったそうだ。そして人を呼ぶと、皆で無理やり姫宮様を引きずり出し、寝所に寝かせると薬師を呼んだ」
「そうか」
「ひどう痩せておられ、心の蔵がぼろぼろにお弱りになられていたという事だ。程なくして亡くなられたのだが、白くとも豊かだった髪は糸を工面をするために、自ら抜いたことで、すっかりと薄くなり頭皮がところどころ見えていたそうだ」
「侍従とやらが供養を頼んだのか?して、何故に糸が赤う視えたのだ?話のままなら白髪だろうに」
「ああ。片袖をお前が仕上げ必ずや梅坪へと届けよと、命を受けたのだがな。そこには向かわずここに来た。糸はな、宮様の念を吸い取っているようでな……お前は赤だが、私には血の色に視えるんだ。どうしてだかは知らぬが」
「ふぅん。まぁ、良い。しかし血の色とは。坊主だと恐ろしい色に視えるのだな。そうか……、ならば坊主には、ならないと心しておこう。して、屋敷に仕えた者達は……」
「ハハ。お前は怖がりだからな、俗世で暮らすのが良かろう。ん。仕える皆はな、蓄えも屋敷も残っていた調度も全て売り払い、宮様の葬儀と供養に使った。誰しも、もう若くないからな。それぞれ縁のある寺に向かい、僧や尼になったそうだ。哀れな宮様の墓前を奉る為にな」
チロチロ。白い単衣の赤い縫い目が妖しい光を放った気がした。
ゾクゾク。奴には血の色に視えているんだな。そう考えると、赤の色がより深まって行く気がしなくもない。充分に涼しくなっていると……。
線香はもう尽きていたからか、奴が立ち上がり次を灯す為に、蝋燭に火をつけた。
「なかなか出来ぬぞ。自らの髪を抜き糸と成す。所業が顕になれば呪詛とみなされ、どの様な咎を受けるのを知っておられるのにも関わらず……。身勝手な内裏に喧嘩を売ろうとされておられた。実に気の毒な宮様だ。産まれが下賤ならば縫い司にて、一財産を築けただろうに……」
線香を立てる奴。それに続いた。
ジジ……、揺らぐ灯明に線香をかざす。
ポッと赤い火が宿る。
間近で未完成な単衣を見る。細かく揃った赤い縫い目は見事だと、改めて感心をした。線香立てに差しつつ話す。
「とてもお上手で御座います。縫いのなんと綺麗な事。素晴らしい単衣でございますね。宮様。ご苦労様でございまする」
手を合わせ黙祷。友が読経を始めた。
かなかなかなかなかなかな………
ひぐらし。ふわりと外から内に風が入る。
……、ほほほ。それほどでもなくってよ。
耳に、……。恥じらう声が入った気がした。
……、ありがとう。貴方は他人様ですが……。こうして初めて褒められました。ほほ。嬉しくおもうわ。うふふふ。
耳に、……。出会うことのない他者の子の成長を願い、せっせと産着を縫い続けた、優しかった花屋敷の主、老いた宮様の返礼と少女の様な笑い声が、微かに聴こえた気がした。
終