その言葉を貴方が言ったから信じられる
幼い頃、家にあった高価なお皿が割れた。
青い花が描かれた、白磁の皿。
母親は、真っ先に私を叱った。
どうしてお皿で遊んだの、と。
違う、違うと必死に否定したけれど、母親は信じてくれない。
心臓がばくばくとうるさかった。
顔を真っ赤にする母親に、誰かが重なる。
男の人だ。立派な服を着ていた。
「どうして、嘘を言うの!」
『なぜ、母上の耳飾りを盗ったんだい?』
母親と男の人の言葉がかぶさる。
『私は君を信じていたのに』
『嘘をつかないで』
『ティアが見たと言ったんだよ?』
母親の声が遠ざかり、男の人の言葉が響く。
それがなんなのかわからないまま、私は違う違う、私はやってないと繰り返し泣いた。
母親と男の人が、私を責める。
心が痛くて痛くてどうしようもなくなった時。
「おばさん、イルマはやってないよ」
まるで光が差すかのように、それは私へと届いた言葉。
「さっきコイツが皿の破片咥えて遊んでたんだ」
「にゃあ」
家の開きっぱなしだった窓から顔を出したのは、お隣に住む三つ上のお兄ちゃん。
真っ黒な猫を抱えて、そして私を見て笑う。
「イルマは危ないことしないもんな。本当にやったら謝れるし、嘘はつかない」
お兄ちゃんが真っ直ぐ私を見てから、狼狽える母親を見つめた。
「だからさ、こいつを信じてやってよ」
お兄ちゃんの言葉は、キラキラと輝いて、私の心を包んだのだ。
五歳で、私は恋を知った。
あれから十二年。
些細な出来事だから、当時はまあぎくしゃくしたが母親とは今は良好な関係である。
小さな町に拠点を置く商会の娘。それが私、イルマだ。
商会は二つ上の兄が継ぐので、割と気楽な立場。
ただ、私は同年代の子と比べるとずば抜けて頭が良く、会計や事務を担当していた。
貴族とは違い平民は女でも働かなくてはならない。仕事があるのはいいことだ。家計も潤うし。
今日も仕事を終わらせ商会から家に帰るべく荷物を整理していると、事務所に珍しく兄さんが顔を出した。
「イルマ、悪い」
「どうかしたの、兄さん」
尋ねれば、兄さんは苦笑を浮かべた。
「明日、新しく事業提携する商会の人がくるんだが。契約書も持参するらしくてな。内容の確認にお前も同席してほしいんだ」
「あー、父さんも兄さんも法律苦手だものね」
「ああ、間違いがないか見てほしい」
「良いけど、そろそろ専門家を雇えば?」
私もいつまでもここに居られるかはわからないのだし。
兄さんは困ったように頭をかいた。
「探してはいるんだけどね」
「なら、商会の人にお金出して勉強してもらったら? 確か、新人に学校出てる人いたよね?」
「あー……その手があったか」
「父さんも兄さんも、頭堅いよ。もっと柔軟に行こうよ!」
「ははは、そうだね」
そんな軽口を叩き、私は家に帰ると兄さんに告げた。
今日の夕食、何にしようかなあ。
私イルマは、どこにでもいるような普通の女の子だ。
十四歳の時に、髪を結うようになったのだけは同年代から羨ましがられているけれどね。この地域に住む女性にとって、髪を結うのは大人の証だから。
まあ、ちょっと早熟な女の子だけど、それ以外は特出したものはない。表面上は。
私には、もう一つの記憶がある。
その記憶が凄いのだ。
なにせ、何代か前に実在した我が国の王妃様の記憶なのだから。
こういうのは、前の生の記憶なのだとか。
魂が同じだから、ごくたまに引き継いでしまう人がいると神官様が仰っていた。
あまりに人格を傷つけるような記憶ならば、封じてもらえるのだけど。
なにせ王妃様の記憶。国の法律、他国の情報、貴族への対応。有効活用できるものがもりだくさんだ。封じるなんてとんでもない。
嫌な記憶はあるにはあるけど、ね。
それは既に上書きされたようなもの。
お給料が良くなるのに繋がるのだから、使わなきゃ損だよ。
そんなわけで、私は私なりに人生を謳歌しているわけだ。
夕食に使う野菜を買うべく商店街を歩けば、見慣れた背中が見えた。
同年代に比べてもがっしりとした肩幅に、高い身長。
黒い髪は、あっちこっち跳ねている。
朝見た時も跳ねてたから注意したのに、忘れてるな。と、一瞬ムッとしたけどすぐに駆け出した。
「ダン!」
名前を呼び、背中に飛びつく。
さすが鍛え上げられた体。びくともしない。
「ん、お! イルマか!」
振り向いたのは、年上の幼馴染みであるダンだ。
半袖から出てるがっしりした腕には青色の腕輪をしている。
「ダン、私今から帰るんだけど。貴方は仕事中?」
「おお、工房に大口の仕事が入ってな。鉄鉱屋へ注文しに行くところだ」
「帰り遅くなりそう?」
「そうだな。まあ、イルマのシチューさえあれば頑張れそうだけどな」
「わかった! 今日は無理だけど、明日作るね!」
今日は良い卵があるので、オムレツなのだ。
ダンは嬉しそうに笑うと、私の頭を撫でた。
もうっ、子供扱い! ダンからなら、嬉しいけど!
だって、ダンは私の大切な人だもの。
幼い頃、私を信じてくれた日から、ずっとずっと想っている。
「あんまり遅くなるなよ。早めに家に帰ることな」
「うん! ダンも無理しないでね」
「わかっているよ」
ダンは微笑んだ。
昔から変わらない。大好きな笑顔だ。
えへへ。
翌日。
商会に行き、母さんと書類を片していると父さんが事務所に来た。
「イルマ、トルイーツ商会の方が来たんだ。来てもらえるか?」
「わかった。あ、母さん。これ途中だからこっちに置いとくね」
「ええ、わかったわ。悪いわねえ、家の事もあるのに」
「いいの、いいの! 今のうちに稼がないとね!」
「あらあら」
そんな会話をしてから、商会の応接室へと向かった。
なかから話し声。どうやら兄さんが対応しているようだ。父さんは少しずつ兄さんに仕事を任せている。期待されてるね。
父さんが扉を軽く叩き、開けた。
部屋には兄さんと向かいのソファーに座る恰幅のいい男性と、兄さんと同じ年頃の青年がいた。息子さんかな。
「トルイーツさん、お待たせしました。こちらは娘です。法律に詳しいので同席させたいのですが」
「おお、そうですか! お若いのにたいした娘さんですな」
「ありがとうございます」
頭を下げて、父さんと一緒に空いているソファーに座った。
しかし、先ほどから気になることが。
真正面からの強い視線が突き刺さっているのである。
私の前には、トルイーツさんの息子さんがいる。
なぜ、そんな熱い視線を向けるのかとちらりと目をやる。
ちゃんと顔を見ていなかったから。
そして、後悔した。
彼の顔は、彼は……。
『何故、頑なに自分の非を認めない』
私を、いや、王妃様を信じなかった……王に、似ているのだ。
いや、あの時はまだ婚約の段階だったから、王妃ではなかった。
体が固まる。
心臓がばくばくと鳴ってうるさい。
『妹が、ティアが言っていたんだ。君が母上の耳飾りを持っていると』
違うと何度も言った。
しかし、彼は妹姫の言葉だけを聞いたのだ。
周りには王宮で働く者たちが大勢いたのに。
当時の王妃様が紛失した耳飾りを、私が盗ったという幼い妹姫の証言を鵜呑みにして。
だが、耳飾りは妹姫の部屋にあった。
幼くとも醜い嫉妬から、兄の婚約者を貶めるべくついた嘘で、それまで睦まじかった婚約者たちの仲は裂かれた。
『イルマを信じるのは当たり前だよ。だって、お前嘘つけないもんな』
幼いダンの声が脳裏を過ぎり、現実に戻る。
ああ、そうだ。ここは、応接室。
大丈夫。大丈夫だ。私にはいる。信じてくれる人が。
王のそっくりさんなんかに、心乱されるな。
すうっと息を吸い、私はにこりと微笑んだ。
王妃様が得意とした外面の良い微笑み。
「両商会が良い関係を築けるよう、努めさせていただきます」
「ほほお、しっかりしておる」
「そうでしょう。自慢の子供たちですから」
和やかに進む商談の間、トルイーツさんの息子さんは私だけを見ていた。
私のなかには、王妃様の記憶がある。
そう、王妃。
結局、婚約は解消されずに婚姻は成された。
しかし、人目があるなかでの王太子による糾弾。
まだ八歳の妹姫の言葉だけを信じたゆえの冤罪だ。
何もないわけにはいかない。
王妃様の実家である侯爵家は王家からの賠償により、かなり潤った。
冤罪を引き起こした妹姫は、義姉となる王妃様主催のお茶会には出席できなくなった。
ただの茶会と侮ることなかれ。
国で一番高貴なる王妃様の開かれる社交場である。そこに出入りできないのは、王家の姫とはいえ致命的だ。臣下に降嫁した場合は、婚家にも迷惑がかかる。
幼くともそれぐらいはわかっていたのか、沙汰が出た時に妹姫はわんわん泣き崩れていたなあ。自業自得だけども。
まあ、それで事件は終わり、婚姻は結ばれてしまったのである。
夫婦の間に、大きな溝を残して。
因みに、今の王家は王の側室が生んだ王子の血筋である。
何故なら、王妃様は白い結婚を貫いたのだ。
王妃様と王の寝室は別であった。
王の寝室とは扉が繋がっていたけれど、王妃様より三代前の気が強かったと有名な王妃が王と喧嘩した際に扉に頑丈な鍵を付けたのだ。
それを有難く使わせて頂いたのである。
ちゃんと王妃としては仕事したし、外交にも励んだのだから白い結婚くらい許してほしい。側室には、王に好意を抱いていた分家筋の子を選んだので血筋的に実家も納得してくれた。王家も負い目があったから、実家の権力も強くなりましたしね。
そんなこんなで、王妃様だけでなく。私としても王への気持ちは最悪であった。
だと言うに、トルイーツ商会から驚きの提案があったのは事業提携が決まった日の翌日のこと。
事務所に来た父さんが苦い顔をして、こう言った。
「トルイーツさんの息子さんから、求婚書が届いた。イルマに」
「は?」
持っていたペンが転がる。
処理中の書類が汚れそうになり、慌ててどかした。
母さんもぽかんとしたあとに、真顔になる。
「無理ですよ、旦那様」
「ああ、断るつもりだよ」
私は結い上げた髪を触る。
「息子さん、私の髪見なかったのかな」
「トルイーツ商会は、王都から越してきたからな。ここらの風習には疎いんだろう」
「それは商人としてどうかと……」
「ううむ」
唸る父さん。
提携相手だから、なんとか波風立てずに断ると言い父さんは仕事に戻って行った。
「困ったわねえ」
「うん……」
ため息をついた母さんに、私は深く頷いた。
……今日の夕食は、シチューにしよう。
それから翌週。
私は仕事が休みのダンと一緒に、買い物に来ていた。
「大きめの服が欲しいんだ」
ダンの腕に絡みつき、私は上機嫌だ。
最近忙しいダンを独り占め。幸せー!
「そうだよな、そろそろ用意しないと」
「ねー! 楽しみだなあ! 可愛いの買ってねえ」
「わかってるって」
きゃっきゃ、うふふ。
しなだれるようにする私を、ダンは優しく見てくれている。
ふふふ、おねだりいっぱいしよう。
昔から私はダンに甘えたい放題なのだ。
ダンの前だと、素直になれちゃう。
こんなにべたべたしてても、ダンの腕輪と私の髪型で周りは素知らぬ振りをしてくれる。野暮だもんね。
そう、野暮なのである。
「イ、イルマさん?」
震える男性の声。
振り向けば、王に顔がそっくり美男子のトルイーツさんの息子さんが、青い顔をして立っていた。
「誰だ?」
ダンが怪訝な顔をして聞いてくる。
「商会の取引先の息子さんだよ」
「ふうん」
興味なさそうだ。
まあ、本当にただの仕事関係の人だものね。
だからこそ、二人の時間を邪魔をしてほしくない。
「えーと、息子さ……あ、いや、アドルさん? 何してるんですか」
ダンにべったりしたまま、にこりと笑いかける。
はははー、早くどっかに行ってくださーい。
私、心労とか気疲れは無縁でなくてはならない身なんですよー。
王に顔が似てるだけで、胃がキリキリするんですよね。
そんなこと、おくびにも出さずに笑顔を保つ。
しかし、息子さん……アドルさんはわなわなと口を震わせた。
「イ、イルマさん……は、はしたないですよ! は、早くその男から離れてください!」
「はあ?」
駄目だ。普通に苛立ってしまった。
私の機嫌が急低下していることに気づいたのか、ダンが頭を撫でてくれた。
ああ、癒される。
「き、君! 女性の体にむやみに触るのは感心しない!」
「と、言われてもなあ。俺達は……」
言いかけたダンに、更に身を寄せる私。
挑発するように甘えながら、アドルさんに言ってやった!
「妻が旦那様に甘えるのは当然の権利ですよー」
「は……?」
意味を理解していないのか、アドルさんは目を瞬かせる。
ダンが私の腰を引き寄せた。
やだ、恥ずかし嬉しい!
「旦那が奥さんを甘やかすのは、当然だろ? 俺達はまだまだ新婚なんだから」
にっと笑うダンを見て、私は惚れ直し、アドルさんは真っ青になった。
「そんな……私は、間に合わなかったのか……? 今度こそ、やり直せる、と」
へたり込むアドルさんは、何やらぶつぶつ呟いている。
目に光がない。
このまま放っておいては、後味が悪い。
私は近くのお店に、商会に連絡してくれるように頼んだ。
夫婦の時間は大事にね!
「さっ、ダン。来年生まれてくる赤ちゃんの産着用の生地も見ようね!」
「ああ、イルマに似て可愛い子だろうな」
「ダンに似た逞しい子だと嬉しい!」
「こ、子供まで……?」
アドルさんの絶望した声がしたけど、たぶん関わっちゃいけない。
ダンに好きだと言い続けて、十四歳で夫婦になり既婚の証の髪結いをして。
ダンには既婚の腕輪を贈った。
それから三年。
私は幸せなのだ。
五歳で恋に落ち、ずっとダン一筋。
ダンは何があっても私を信じてくれた。
だから、今もアドルさんとの関係に疑いの眼差しすら向けない。
ただ、真っ直ぐに私を見てくれる。
私は私を信じてくれるダンにふさわしい存在でいたい。
ずっと一緒に居ようね。
料理の腕も磨いて、美味しいシチューをダンと子供に振る舞うんだから。
信じる。
その言葉こそ、私は信じられるのだから。
「イルマ、愛してるよ」
「不意打ち! でも、私も!」