余話 01/01
九月二十六日、金曜日、日没後。
伏人傳の運転する赤の自動車は、信号機に激突した。
運転手はすでに死亡している。クラクションが鳴り響くが反応する者はいない。そもそも、自動車事故の現場の周囲には一人として人の姿はなかった。
不自然なまでに人影がないのは、オーバードーンや奥入瀬牧の団地を連想させる。事実この場には人払いの魔術が敷かれ、誰も立ち入ることができなくなっていた。
その魔術を行使した者を除いては。
一人、二人と増える彼らは老若男女いっさいの共通点のないように見える。ぞろぞろと集まってくると赤の自動車のドアを開ける。
助手席から飛び出してきたインクヴィーズが、Xの字に切り裂かれて倒れた。
血よりも赤く濃い体液が溢れ出すのを無感情に見つめながら、一団は何事もなかったかのように作業に取りかかる。
二人はインクヴィーズを抱え上げ、三人が運転席から伏人傳だった亡骸を引っ張り出す。一人ずつ後部座席を漁り、残り六人で魔術の維持と周辺の索敵・警戒を続ける。
全員が、“金言集”主筆、轟木懸に“端末”にされた一般人のなれの果てである。
精神という観測の難しい対象ですら意のままに操り、自らの意志を代行する手駒と成す、超越者に相応しい《クラックワーク》。彼ら彼女らは自由意志を剥奪され、轟木懸の意志のみで動く、謂わば手の指に等しい存在に変ぜられているのだ。
故に意思疎通は不要。黙々と作業を進める一団のうち、伏人傳の亡骸を運んでいる端末が彼の大脳から情報を抜粋して共有した。後部座席から黒一色の硬質ブリーフケースを運び出す。これが、伏人傳がああも暗躍してまで確保しようとした物品である。
中には、治部佳乃の頭部が入っている。
詳細な経緯や確保しようとした理由は後で探ればよい。端末たちはそう判断して、後始末を始めようとする。
伏人傳の亡骸、黒のブリーフケース、赤の自動車、インクヴィーズはそれぞれ別の端末の手によって移送する。残りの端末は移送の囮役、痕跡の消去役に分かれて動く手はず。
一陣の風が吹き抜ける。
伏人傳の亡骸に巻き付いていたマフラーが、風に吹かれてほどけると宙に舞った。
それを掴む者がいる。
電信柱の上、背を向けている。───男性だ。
夕闇に燈っていた街灯が一斉にその機能を喪失する。薄闇の中に在って、黒ではないものは二つ。
それは、闇に燃える硫黄色の瞳か。
獣の虹彩が光を反射して輝くのとは明確に異なり、その瞳は自ずから光を発している。奇妙な瞳だった。光を取り込み結像する器官が発光しては、盲いるのは避けられない。
だから爛々と燃えるそれは、瞳ではなく本質的には窓なのだ。
男の内面で燃え盛る激情の炎を垣間見せる覗き窓。
魔術を嗜む者の界隈では《發陽眼》とも《雄黄の眼》とも称される、硫黄色に燃える魔眼である。
何をも写さないだろう瞳が睥睨する。
轟木懸の端末たちが身構えている。その足が、じりと僅かに後ろに退いた。
「よう」
伏人傳が、そこで死んでいるはずの男が、轟木懸の不倶戴天の怨敵が、あっけらかんと挨拶する。
「久しぶりだな、懸。元気にしてたか?」
端末たちは臨戦態勢を崩さない。言い換えれば、飛びかかることも退くこともできないままその場に釘付けにされている。
忌々しげに口を開いた端末たちが次々と言葉を投げつける。
「《硫黄の朝焼け》───」
「───《獣の王》───」
「───《悪性神話》───」
「───《世界の終わり》」
伏人傳は暗闇の中でマフラーを巻こうと悪戦苦闘していた。悪名異名の類を列挙されながら楽しげな彼が、最後の一つにだけは眉をひそめる。
「おっと、《世界の終わり》だけは俺じゃない。ちゃあんと《この世の果て》って呼んでくれ」
ヤな女が来るからな。言いながらウィンクをしたのか、闇の中の硫黄が一つ瞬いた。
どうにも納得がいかないのか、傳はああでもないこうでもないとマフラーを弄くっている。話し相手に視線も送らないまま、
「お前だろ? 瓦木に結界張ったの」
彼が言及したのは瓦木市を封鎖している大結界だ。《バガー》治部佳乃を本部に引き渡そうとした再編局を阻んだ、街一つを覆い尽くす出入り禁止の大魔術。再編局はそれを新生式の影響と考えていたが、思えば儀式にそんなことをする必要性は存在しなかった。壁で囲って閉じるのは、その壁の内外どちらかに際立って用がある存在のみであって、世界すべてを対象として改変する新生式ではありえない。
轟木懸には壁で囲わねばならない理由があった。
そこに伏人傳がいたからだ。
彼に異能封鎖の呪いをかけたものの取り逃してしまっていた懸は、瓦木市に逃げ込んだのを追って街一つを鎖したのだ。巻き込まれた再編局にしてみれば大迷惑だが、彼にはそれをできるだけの力があった。
新生式を作り出して奥入瀬牧に儀式核を授けたことといい、隔絶した魔術師にして《クラッカーズ》である。新生式だけではない、ここ数日、日本各地で奥入瀬牧と同様に特命を受けた“金言集”エージェントたちが大儀式を敢行するという同時多発魔術的テロが進行しているのをこの封印されざる伏人傳は知っている。
すべては伏人傳を殺すため。
弱体化させた彼を殺すのに余計な邪魔が入らないよう、再編局と配下たる“金言集”を派手に激突させたのだ。双方にどれだけ被害が出ようとも構わないという、正気の沙汰ではなし得ない蛮行。
だというのに、超常の中にあって尚怪物と称される轟木懸の端末たちが、伏人傳一人を目前にして龍と相対しているかのように竦んでいる。
端末は本来の全力を発揮できるようにはなっていない。それでも万全の警戒網を敷いていたはずの彼らを嘲笑うように、傳はいつの間にかそこに出現していた。可視光、不可視光、可聴音、不可聴音、空間的あるいは時間的変動、形而下的干渉すら知覚していたはずなのに。あらかじめそこに居たというなら自動車が激突するより前に阻止できたはずで、そうしなかった以上ここに現れたのはあの瞬間のはずだが手段が見えない。
「どうだっていいだろそんなこと。今は旧交を暖めようぜ」
「───煩い。貴様と俺の間に、そんなものがあった瞬間は存在しない」
懸は端末の一体に答えさせてから読心されていると気づく。
完全に掌の上だった。撤退させようとしていた端末たちも《クラックワーク》を破却され動けずにいる。
無理もない、と懸は考える。目前の伏人傳は追いかけていた奴とは違い、一切の“枷”がかけられていない。太源との同期を切断して孤立させた個体とは違い、思う存分にその悪意を振るえる傳を相手にするには、力の一部を割譲されただけの端末たちでは万人いても歯が立たない。
だが、傳たちに相互の連携があるというのは予想外だった。性質上彼らは同期されていても独立しているはずで、そのうちの一人が音信不通になったからといって安否を確認しに来るほど緊密な性格をしていないと踏んでいたからこの作戦を実行したというのに。
あるいは孤立させた傳からSOSが発信されたのかと疑うが、死体の傳には未だ抑制術式が適用されている。
「事情はそこの馬鹿から読んでるから、解説してやろうか」
喋りたがりの傳ならばそうくる。
予想通りだった懸は密かに端末のもとへ急行する。おそらく傳はそれも読心していると見て間違いない。それでも阻止しようとしないのは懸を舐めているからで、ならば甘んじてその油断につけ込む。
余興として弄ばれている怒りはあっても、伏人傳を討つことに優先される事象は存在しない。
「俺は賭けをしてたのさ」
「賭けだと?」
「何に賭けたと思う?」
「俺に見つかるかどうか───」
「違う違う、分かってないな。そんなのは逃れ得ない運命、勝負にならない」
例えば、スロットで機械の故障に賭ける者がいないように。
例えば、ルーレットで玉が盤から弾き出されるのに賭ける者がいないように。
起こりえないことに金をかけるのはギャンブルではなく保険だ。死んだ伏人傳にとって、轟木懸に見つからないというのは切り捨てていい確率だった。
ならば、何に?
「レースとか見ないか? 競馬、競輪、競艇、何でもいい。競争するのは複数で、どっちが早いかに賭けるだろう」
つまり伏人傳は、“轟木懸が見つけるのが早いか”と“伏人傳が見つけるのが早いか”の勝負をしていたのだ、と電信柱の上の傳は笑った。
彼の行動はすべてそのため。
他の伏人傳の注意を惹き、見つけられやすくするためだけの工夫。
天雄ビルの爆破は狼煙でしかなかった。あの場の人間が死のうが死ぬまいが関係なく、ただただ伏人傳らしいド派手な一発をかませればそれで良かったのだ。
「あの“花火”はまー実に俺っぽいシチュエーションなわけ。だのに俺がいないことになってっから、奇妙に思って見に来てみればご覧の有様さ」
結果だけ見れば伏人傳は間に合わず、轟木懸が先着した。
伏人傳は勝負に負けたのだ。
「おめでとさん。じゃあな」
「───待て」
まだマフラーをうまく巻けずに四苦八苦しながらも、用は済んだとばかりに背を向ける伏人傳。懸の端末たちは呼び止めずにはいられなかった。
端末だけで戦えば死は避けられず、本体が来ても苦戦は必至である。“枷”やら何やら準備万端に用意しての戦いがこうまでして長引いたことからも、理性的に考えればここで突発的に遭遇したままに交戦するのは賢い選択ではないのは理解できる。
だがそれが何だ。目前に怨敵があるならば、殺さない理由がない。
「逃げるのか、負け犬」
「そうとも、負けを認めたから勝負をひっくり返すような野暮はしないのさ」
「ここで死んでいる貴様がいるのにか!」
「俺は俺だ。そいつが死んでるのはそいつが負けたのが悪い。そいつも重々承知してるから死んだまま異議を申し立てることはしない」
この伏人傳はあくまで確認に訪れただけで、死んだ伏人傳のリベンジに来たわけではない。
だが轟木懸はそんな落着を許さなかった。
「ならば貴様に勝負を挑むまで」
端末の一人、ブリーフケースを携えていた個体がそれを掲げる。
「俺と戦え、《暁に吼えるもの》。勝てばこの首は貴様に返す」
「見逃してやるってのに」
伏人傅は肩をすくめる。やれやれと言いたげだが、その表情は楽しげに歪んでいた。
それとも、それは悦楽か。果たして獣性に基いた剥き出しの狩猟本能とどこに違いがあるというのか。
「そっちから来るんじゃ仕方ないな、勝負から逃げちゃ男がすたる。いいぜ、そいつは面倒だったしな」
《バガー》治部佳乃。彼女が《虫喰み》創造に組み込んでいたもう一つのユニークコマンドとは、『敵対する存在の命題を解析し、実現不可能状態にする』という行動原理だった。触腕の《虫喰み》が奥入瀬牧の右腕を切り落としておきながらイツキ狙いに方向転換したのはそのためであり、彼と彼女が出逢うきっかけともなった元凶。
命題解析まである程度の時間を要する点など改善の余地は残されているが、世界そのものに質問できる眷属としての性能は末恐ろしいものがある。傳の結界でさえ、一度は潜り抜けてみせたのだ。
異能抑制されていた傳が確保しようとしたのもむべなるかな。それを、懸は勝負の景品にすることで傳を釣り上げた。
伏人傳がマフラーを巻き終わった。
「んじゃあまあ、始めるとしようか。せいぜいこの夜を味わい尽くそうぜ」
銃を抜く。
右手には普段使いのH&K USP。
左手にはTanfoglio Raptor。単発式ターゲットピストルをチョイスしたのは、魔術的制約以上に彼のお気に入りだからだ。彼がこれを抜いたということは本腰も本腰、思う存分暴れるための装備。
「始める? 終わらせるの間違いだ。俺と貴様の因縁を。俺の復讐を」
端末たちの呼び声に呼応して“影”が浮かぶ。
糸が切れた人形のようにばたばたと倒れていく端末たちの中心にあるそれは巨躯だ。暗色のロングコートは裾がボロボロに綻び、皮膚が露出しているはずの部位にあるべき皮膚はない。闇黒で形作られた肉体は、彼の称呼の中に《ノー・フェイス》というものがあるのを得心させる異容だった。
轟木懸の掌中に補色からなる二重螺旋が生じる。
伏人傳の人差し指がトリガーにかかる。
激突の瞬間、双方の存在規模が膨れ上がる。世界はあっさりと許容量を超えて機能を停止すると、二人はどちらともなくそれを突き破って奈辺、世界の果てへと飛び出していった。




