The End of the World 09/10
そっと吹き込まれたものがあった。
直後、自己保護機能が《カース・オブ・マイン》と拮抗を始める。これで喫緊の死だけなら回避されたが、イツキが目指す地平は最初からこの先にある。
命を預けられたイツキは目を見開くと、それを世界に返す祝詞を奉ずる。
「牧を癒せ」
命が広がってゆく。
旧世界を不要と断じて消し去る烈光ではなく、彼女の行いだけをそっと慰撫する脈動。
瓦礫の下で機能停止を待つばかりだった敷島励威士が再起動する。───その記憶は何一つ損なわれていない。
待機を命じられていた杜月杏は儀式が世界にほんの少しだけ手を加えたのを観測している。
死の足音を聞いていたはずの餌木才一が病院のベッドで身を起こした。夜明けを迎えられれば奇跡と宣告された瀕死の重病人の姿ではない、健全な男子高校生そのものの姿をしている。
そして、廃墟のままに復元された天雄ビルの四階で、加賀美条は一人、窓から彼方の光を見ていた。
奥入瀬牧の罪。
彼女の取り戻せないはずだったもの。
決してそれらの全てではない。イツキの知らない、瓦木市を訪れるより前の罪業は雪がれない。世界の外側に連れ去られてしまった井澤渓介と治部佳乃も取り戻すことは叶わない。それでも奇跡はなった。
奥入瀬牧の存在を赦す世界を、イツキの祈りが成立させた。
世界を生まれ変わらせたのだ。
牧にも世界は見違えて見えた。
───信じられない。
彼女が奥入瀬牧のまま呪いから解き放たれることはあり得ないと、物心ついたころから肌より深くで感じていた苦しみ。
───苦しみが、ない。
失血は補充され、破壊された右腕部も復元されている。ならば彼女の血が呪いが、必ず病に似た苦をもたらすはずなのに、皆無。
脈打つごとに全身の血管を百足が這いずるような嫌悪感がしない。
肌が気温というものを感じたのはいつぶりか。寒さと熱さは常に彼女の内側にあるものだった。
腹の中に狂った獣を飼っているような日々だった。何を食べても、何も食べずとも、それが癇癪を起こして暴れていたはずなのに、どこへ行ってしまったんだろう。
世界から血色と死色のフィルターが取り払われて見えた。
生きている。
奥入瀬牧の母親が死んだ日、牧が自分自身にかけた呪いを、イツキのエゴが完膚なきまでに解いてしまった。
こんな日が来ることを欠片も想像していなかった彼女はどうすれば良いか分からない。見知らぬ新天地に連れてこられた少女のように、ただただ外部からの苦ではない刺激の奔流に呆然としている。
向かいに座っている少年をぼうっと見ている。
「牧の───」
少年の手が、取り戻された彼女の右手首を撫ぜる。
そこには度重なるリストカットの痕跡がくっきりと残っている。
「牧のこの傷は、牧が辛くても苦しくても戦った痕だ。だから消せなかった。───望めば、まだ間に合うと思うけど」
「……構いません」
元よりこれっぽっちの傷が残ったのは自分で自分を呪っていた副産物に過ぎない。呪いと牧が不可分だったから、苦しみから逃れるための傷跡もまた存在証明となって消せなかっただけだ。解呪されてしまえばどうということはない、消そうと思えばきっといつでも消せると理解している。
ただ、今はいいかな。
傷跡を触られるのはくすぐったいけれど、今は。
「訊ねても、いいですか」
どうして呪いを受けてまで、新生式を奪ったのか。呪いを解くためではありえない、それならば最初から関わらなければいいだけだ。
賭けに負ければ死ぬ勝負を挑んでまで、通したエゴの源はどんな想いだろう。
おっかなびっくりと訊ねる牧の言葉に、イツキの重ねていた手が震える。
彼の答えもおっかなびっくりと。
「牧の、願った世界を見たよ。とても美しかった」
彼の言葉はこの世界の人間には意味の通らないものだ。
イツキを除けば、「新生式が一度発動し破綻したことを観測できた人間はいない。ましてや新世界の記憶などこの世界のどこにもありはしない。
世界を跨いで帰ってきた“イツキ”以外はきっと夢にも見るまい。
「きっと正しい世界なんだと思う。でも、俺はそこが嫌で、ぶっ壊して帰って来ちまった」
「どうして?」
「そこには牧はいないんだ。俺は、俺は───」
ああもう、格好つけたかったのに、演技なんて出来やしない。
「俺は牧がいいんだ。牧が居なきゃ嫌だ、他は何も要らないんだ! 全部俺の我儘さ、でも、でも居なくなるなんて言わないでくれ!」
お願いだ───せめてそこまでは言い切りたかったのに、感情は決壊して声帯は意味を伝えることを放棄した。ぐちゃぐちゃで不格好な泣き声しか出てこない、止まらない。
誰もがイツキと同じように嘘を嘘と看破できはしない。だからこそ誠実に、行動で証明しなければいけないと思ったのだ。
どうして奥入瀬牧について知りたいと、知らなければならないと感じたのか。決まっている。彼女の隣にいていい理由が欲しかったからだ。どれだけ知っても理由がないのならば、もう理由なんか要らない。
わんわん泣いているイツキを見ているうちに、奥入瀬牧も泣けてきた。二人して幼子のように泣きじゃくりながら抱き合って、そんな二人を一条の光が照らす。
嵐の夜は過ぎ行きて、誰も彼もが夜明けを迎える。
つまるところ。
これはどこまでいっても奥入瀬牧とイツキの意地の張り合い、我の通し合いの勝負でしかない。
どちらも我儘をぶつけ合って、最終的に奥入瀬牧が折れた。顛末としてはそれだけ。
要するに、惚れたら負けということだ。