The End of the World 07/10
今日の体験はボルダリングジム。
事前に学生二名と予約しておいてのが功を奏してスムーズに体験できた。途中で二度ほど逆さ吊りになって、人生とは何ぞやと虚無感に襲われたのを忘れれば満喫できたと言えよう。
怖いのは、どこか使っていない筋肉が明日になって悲鳴を上げること。すでにそうなる予感がしていた。
遊び疲れて二人、言葉もなくあかがね色の夕焼けを眺めている。
県営細戸自然公園。丘の上のこの公園は、瓦木市を一望できる絶景がウリだ。それ以外に特筆できるポイントはないし、アクセスもイマイチなので人でごった返すということもない。皆入樹と妹尾桐江にとっては、デートの後にここでまったり過ごすのが恒例となっている。
他愛のない話をしながら、買い食いのコンビニチキンを二人並んで食む。日が暮れたあたりを目安に帰れば、二人とも家の夕食に間に合うからまだもう少し居られる。帰らざるを得ないのは高校生だから仕方ない。惜しいけれど。
そんな日々をきっとこれからも送っていくのだろう。
将来のことは分からないが、今はそんな日常で満足していた。
地平線に夕日が触れたなと思っている樹の頬にふと感じるものがある。
樹は右手をかざして確かめる。
「……天気雨だ」
掌に、あるかないかという小粒の水滴が、一つ、二つ。
彼が彼女を思い描くとき、彼女はいつも雨の中にいる。
思い出すのとは異なる。だって彼は皆入樹だ。伊月顕ではないのだから、知っているはずがない。
だというのに、前世の記憶にしては克明すぎる。人生の重みがいきなり二倍になったような衝撃に彼はふらついた。
「───イツキくん?」
妹尾桐江が彼の異変に気づいて心配そうに声をかけてくる。
そうだ、彼はこの少女を見たことがある。
あの歩道橋で、県立絡川高校の校舎で、再編局に拉致されたときも。彼を助けてくれた少女は、今にして思えば妹尾桐江の声と姿をしていた。彼女こそは新生式の核そのもの、新しい世界の到来のため───ひいては自分自身の生誕のため───儀式が成立するよう現れる案内人。
一つの夢の結実。
「……だから君なのか。くそっ、そういうことかよ」
「───気づいちゃったの?」
視線を受けて少女は柔らかに微笑み返した。皆入樹の彼女である妹尾桐江ならば絶対にしなそうな、年不相応のアルカイックスマイル。伊月顕の記憶を使って皆入樹の人生を侮辱されたように感じる心がどうにも苦しい。
こんなにも涙が止まらない。
ここは幸せな世界だと知ってしまっているから。
旧世界で、伏人傳に尋ねられた。願いを潰すだけの覚悟はあるのかと問われて、彼はあると答えた。
どれほど甘い言葉だったのかやっと思い知る。
死者の蘇生など些末に過ぎない。新生式を破綻させるとはつまり、新しい世界を丸ごと壊して、そこに生きとし生けるすべての命を根絶やしにする大罪に他ならない。
すでに生み出されてしまった以上、この世界にはこの世界の歴史があり、この世界である意味があり、この世界なりの価値がある。すべてを純然たるエゴで無に帰す覚悟があるのかと、彼はあのとき言っていたのだ。
───そして、それを理解しても止まれないのだ。
左手を伸ばす。
人差し指以外の三指を握って、親指と人差し指はピンとまっすぐ、
指鉄砲で妹尾桐江───新生式の核に狙いを定める。
少女が困ったように微笑む。その表情すら完璧すぎて非人間的だ。
「きみにも理解できているはず。この世界の素晴らしさは」
「分かってるよ、ここは理想郷だってことは! ここには呪いもない、不要な争いもない、喪失と欠落だってきっとないんだろ!」
「そこまで分かっていて───」
「それでも! それでも俺はこの世界を否定しなきゃなんないんだ!」
傳に大口を叩いた見栄とか、旧世界に生きた人間としての責務とか、そういうんじゃない。自分の選択はきっと愚かで、正しいかどうかなんて分かりはしなくて、それでもそれを選ぶしかない。
イツキは夕陽を真っ向から受けて、
「ここには奥入瀬牧がいない!」
絶叫する。
妹尾桐江というアバターの儀式核が硬直した。
その名前はこの世界において、呪いと争いと喪失と欠落の象徴。
呼ばれてはならない呪詛だ。
「牧がいなけりゃ理想郷に意味も価値も何も関係あるか! 牧を出せよ、そしたらいいぜ認めてやるから! 牧を出せ!」
「できない、それだけは絶対に───」
「だったらこんな世界ブッ壊れちまえばいいんだッ!」
核も何か対処しようとしたのだろう。奥入瀬牧が願った通りに新世界を維持するのが核の役割なのだから、それを破壊すると宣言したイツキにどうあれ対処せざるを得ない。イツキの記憶を抹消するのか、それともイツキの存在そのものを抹消してしまうのか───
しかし彼女よりもイツキの方が早かった。
新世界そのもの、万能たる彼女よりも、どこまで行ってもただの高校生でしかないイツキの方が先に動けた理由は、極めて単純だ。
───もう動いていたから。
彼の動作は、この世界がこの世界として存在するよりも前に完了している。必要なのは、あとはどこを狙うかの決断だけだった。
銃声はない。それは前の世界に置いてきた。
伏人傳が理を付与した銃弾が一発。旧世界で光がすべてを消し去る直前に放たれていたそれが、“撃てば必ず狙ったものに命中する”それが、新世界の核を貫いた。
「な───!?」
ビシビシと割れる。罅が入ったのは世界そのものだ。
走る、走る、止まらない。
この世界を終わらせるに必要十分な一点を的確に射抜かれたと悟って、儀式核の少女が絶望に顔を歪める───それすら破片に砕けて意味を喪失する。
穿った一点から広がる世界の果て、その向こう側に雨の気配を感じてイツキは飛び込んだ。
衝撃で砕け散る新世界を越えて向こう側には虚無のみがある。
無重量状態に晒されるイツキの目前で、瓦木の街が再構成されてゆく。復元不可能域まで砕かれた新世界の破片が、旧世界に組み替えられてゆく。
鳥瞰の視界で、夜明け前の世界は生まれ直す。
「───牧のところへ!」
叫ぶ。
今なら多少の無理も通るかもしれない。また彼女が新世界を願い直して、それを砕き直しての繰り返しではたまらない。そんなことになるまえに、願いを叶える大術理というならそれくらいは聞き届けて然るべきだとイツキはもう一度叫ぶ。
「あいつのところに連れてけ! 牧!」
降り注ぐ世界の破片がきらきらと光を受けて煌めく未明。
がむしゃらに宙をかくイツキの声が木霊する。




