The End of the World 01/10
伊月顕は意識を取り戻す。……オーバードーンで無力感に打ちひしがれて、泣き疲れてそのまま眠ってしまっていたらしい。
完全に真っ暗で外からガタガタと音がしているだけで、こんなにも恐ろしいものかと身が竦む。
ポケットからスマートフォンを取り出して明かり代わり。結界は生きているのか電波状態は圏外のままだ。
未明、九月だとまだ日の出までは少し先といった時間だ。
台風は通り過ぎたのだろうか、風音は激しいままだが雨は降っていないように見える。
……ここにいつまでも居るわけにもいかない、病院に戻ろうと伊月は考えた。どのくらい叱られるかは想像もつかないし、ともすれば外出禁止令すら出るかもしれないが、甘んじて罰を受けよう。
ソファーから身を起こし、足元をスマートフォンで照らしながらおっかなびっくり廃墟の闇を歩く。なんとか無事に行き着いた正面ドア、開くと湿気の匂いが溢れだした。さっきまでざあざあ降りだったであろう雨がまだ大気に残っている。
一陣の風。
空を見上げると、夜空でも雲がかっ飛んでいくのがよく見えた。
確かに風は強いけれど、帰れないほどでもない。身の丈にあっていなかった非日常から、日常へ───
───弾かれたように上を見る。
見上げた空のどこかがおかしい。
間違い探し、どこかが変なのは分かるがどこなのか分からず必死に違和感の発生源を探す。どこだ、絶対にどこかに、
航空障害灯。
オーバードーンの入っているビル、その屋上で規則的に点滅している灯りのうち、一つだけ色が違う。
他は白なのに、一つだけ、
伏人傳の瞳の色。
つんのめって走り出す。正面ドアを体当たりして、ロフトに上がって閉まっていたはずの「STAFF ONLY」のドアを開けて、あとはどこをどう行ったのか定かでない。非常灯とスマートフォンくらいしか照らすもののない館内を駆けずり回ってやっとエレベーターホールに出る。スイッチを押しても光らない。連打。諦める。
どこか付近に非常階段があるはずだ。あった。
見上げた空に聳えるこれは二十階建てかそれとも三十階建てだったか。ホールに戻れば分かるだろうがその行き来が惜しい。
伊月はペース配分も考えず、非常階段を全力で駆け登る。
◇◇◇
これは賭けですらない。
気づけばそれでいいし、気づかなかったらそれはそれ。どちらにせよ、すでに結果は出ているはずで、だから今回はそちら側だっただけの話。だから伊月顕が屋上のドアを体当たりするように開けても振り向くことはしなかった。
強風にマフラーを遊ばせて、片足の置き場にしていた航空障害灯をひと蹴りする。ガンと音がしたかと思うとLEDライトが黄色から白色に転じた。
「───よう。また会えると思わなかったぜ、イツキ。よく気づいたな」
少年の言葉は言葉にならない。二十八階を一息に走ればそうもなるだろうに、と伏人傳は苦笑した。
こんな高層ビルの屋上に置くにはミスマッチな木製の折り畳み式テーブル、その上に置いてあったガラスコップに瓶から注いでやる。
「ほら、こっち来い。んでこれ飲みな」
ほうほうの体で向かいについた伊月が黒一色のコップを呷って、盛大に咽せた。
「ごっ、……おまコレ」
「銘は“夜”。堅苦しいことは言いっこなしだぜ、気付けだ気付け」
笑う傳を睨む。
その瞳が驚きに見開かれた。
「……見えるだろう?」
彼の背後、浜樺のあたりを中心に光の大樹が聳えている。
見えていなかったものが見えるようになっている。飲まされた液体に何らかの魔術的薬効があったのか、あるいは“酒精には魔力が宿る”などといった理由かは分からない。
繁る枝は天に繋がって術式の大陣となり、根はよじれて集約し竜巻の如くに一点へと伸び下ろされている。
あまりに壮大、あまりに異質。あれこそが世界樹と言われればなるほどそうかと納得してしまいそうな神秘的説得力が宿った魔術式。
「あれの種がお前の中にあったんだぜ。笑っちまうだろ」
あれこそが新生式、奥入瀬牧の願う新世界を叶えるための大術理。伊月顕に埋め込まれていた儀式核が発芽し、レイラインから無形の力を吸い上げて生長した張りつめんばかりのそれは、しかしまだ行き着くところまで行ききっていない。真に世界を塗り替えるには開花を待たねばならず、そのための栄養は未だ正式に受諾されていなかった。
ではその栄養はどこで受け取る? 決まっている、根からだ。
浜樺に伸びる根───接続端子は術理行使権を持つ者に命令を求めに行っているのだ。もう準備はできていると、早く役目を果たさせろと、貪欲に自分から伺いに行く御用聞き。
───あそこに奥入瀬牧がいる。
伊月が椅子を蹴倒して立ち上がる。機先を制するように、
「どこへ行くつもりだ?」
扉が勢いよく閉ざされる音に続いて施錠する音が背後から聞こえてくる。目前のニヤニヤ笑いが深くなる。伏人傳が、《クラックワーク》で座ったままに鎖してしまったのだと理解する。
この男を満足させるまで、ここからは出られない。
「ゆっくりしてけよ。話そうぜ。お互い聞きたいこともあるだろうしな?」
……他に道はない。ここから飛び降りるのでは本末転倒、彼は牧のところへ行かなければならないのだ。忌々しさを包み隠さないまま席に着く。