新しい世界 08/09
「っはぁっ、はっ、は……」
抑えていた息をつくと、荒く短い。
零れた血液は大部分が失われた。残りを再利用、体内循環に戻そうにも泥水と混じってしまって使えたものではない。《クラックワーク》で今にも消えそうな生命の灯を無理矢理繋いでいるが、それも朝日を拝むまで保たないだろう。
鉛のような両足を動かして進む。
今にもくたばりそうなこの肉体も、新生式を完遂すれば生まれ変わる。新しい世界に新しい自分で、幸福な人生を歩み直すのだ。
……けれど、どうして生まれ変わりたかったのだっけ。
ふと疑問を抱いたのは、心身ともに極限まで疲弊し、不純物がなくなったからか。そんなことを考える必要はないと判断する思考も削れて失せている。
最初は、《クラックワーク》に目覚めたときのはずだ。
彼女の感情は自分自身の血液を呪った。覚醒した異能がそれを叶えてしまった。苦しみが彼女の中を巡り続けて、止めようとしても無意識の呪いは止まらず、どうにかしなければ生きてはいけないと悟ったのがきっかけだった。どうせ呪われているのなら、どうせ穢れているのなら、追加で多少罪を犯しても同じだからと、罪悪感を見て見ぬ振りして泣き叫ぶ心を押し殺した。
どんな手を使っても、どれほど手を汚しても。
呪いを解きたかった。そうだ、それが原点だ。
……どうして呪ったのだっけ。
おかあさんだ。
おかあさんが飛び降りる前に言っていた通り、わたしは気持ち悪い存在なのだろう。血を呪ったのは、それが“あの男”とおかあさんの入り交じった気持ち悪いわたしの象徴だからだ。おかあさんを見捨てるような“あの男”の血と、それに狂ってわたしを置いていってしまったおかあさんの血。奥入瀬牧としてこの世に生を受けてしまった時点で袋小路なのだから、もう新しい自分になるしかない。
……どうして、新しい自分になりたいんだろう?
だって、そうでなければ。
奥入瀬牧では、誰にも愛してもらえない。
“あの男”に捨てられ、おかあさんに呪われ、罪を犯せども罰を拒み、この世界に悪なるものだけを撒き散らす害悪を、誰が愛せるというのか。
愛せるはずがない。
愛されるはずがない。
そんなの嫌だ。
一人は、嫌だ。
◇◇◇
───夢を見ている。
天趣の夢だ。
万象正しく、美しく、あるがままを赦されている夢。
その夢の中で、彼女は妹尾桐江という名前の女子高生だった。
通うのは県立絡川高校。名の知れた高校というわけではないが、文化系の部活動に力を入れているという。この春入学した新一年生であるところの彼女は、せっかくだしどこかの部に入って青春したいなと考えていたところを部活勧誘の渦にもみくちゃにされて、その中で一人の同級生と出逢った。
彼は入学当初から有名な美少年でありながら、人生における目標を見いだせず苦悩していた。偶然二人きりで話す機会があって、そのことを聞いてからというもの、桐江は彼をあちこち仮入部に連れ回しては結局自分が一番満喫するという日々を過ごした。誰よりも一番笑い、誰よりも本気で打ち込み、けれど拘泥はせず彼の手をひいて次の部活動体験に挑んでいく桐江に、彼は文句も言わず付き合った。
そうして一週間、放課後の仮入部を力一杯味わい尽くした桐江は、彼に「どこに入部するのか」と聞きに行って、予期せぬ告白に赤面させられることとなった。「付き合ってくれ」と自分が聞かれるとは夢にも思っていなかったし、同時に彼の悩みは真っ赤な嘘で、全部自分と一緒にいたかっただけなのではないかと疑ったのは覚えている。
けれども彼女も、彼と一緒に過ごすのは楽しかった。
だから返事は、短く一言、「……はい」とだけ答えたように記憶している。
とまれ、そんなこんなで。
結局、二人ともこれはという部活動を見つけられなかったので、連んであちこちを赴いてはあーでもないこーでもないとやりたいことを探す日々。きっかけがきっかけなだけに、これが彼と彼女なりのデートということになるのだろう。初々しいカップルでイチャイチャと体験するだけして帰るのは、体験先にとってはさぞや目に毒だったろう。
満たされた日常。
何もかもが思い通りになる訳でもなく、驚きもあり、不満だってなくはない。それでもうまく回っていく世界。
二人並んで夕焼けの瓦木市を見渡しながら、妹尾桐江はずっとこんな日々が続けばいいのにと、心底願っていた。




