新しい世界 07/09
「この程度が何だと言うのです。見切っている? ずいぶんと面白い」
ゆっくりと立ち上がる。
顔色は蒼白を通り越して真っ白で、血液はすべて噴き出して足元に血溜まりを作っているので全部なのではないかと思わせる。事実、あれだけ大きな負傷面なのにもう出血がない。
だというのに、まだ瞳が死んでいない。
冴え冴えと冷たい瞳が励威士を射抜いている。
「ですが、終わりというなら。最後に一つ礼を言っておきます」
「はア?」
予期せぬ言葉に新手の煽りかと疑う───違う。
「お陰様で頭に昇っていた血が抜けて、久しぶりにいい気分です───」
身を折り曲げて笑う。
ぐらぐらとあちらこちらに不安定に傾いで、迫り来る死に気が触れたか───違う。
敷島励威士の本能が叫んでいる、“この女は終わっていない”と。警戒しろ、こいつは依然として危険なままだとという訴えを無視できず、彼は両腕の機能復帰を急がせる。
超特急で片腕だけでも動かせるようにしたのが間一髪で間にあった。全く反応できない速度で牧が視界から消え、咄嗟に急所を庇わなければ彼が終わっていた。踵落としが手首を抉り切った。
「バカな───」
奇しくも励威士は少し前の牧と同じ疑問に支配されている。
これほどの力がありながらどうして今まで使わずにいた。片腕がなくなるまで手加減などする必要がない。ないはずだ。
今まで抑制していたのだとしたら、何故、今。
───血が抜けて、
片腕がなくなるまでではない。
血がなくなったから使えるようになったのだ。
「───ンなバカな!!」
電撃のように閃いた仮定に絶叫する。
だってそんなことはあり得ない。
だが、もし。もしも。
───奥入瀬牧は血に呪いを纏わせているのだと思っていた。
───体外で血を武器に加工する際に呪いも混ぜ込んでいるのだと。
───しかしそうではなく、彼女の血は体内で生成された時点から呪われていて。
───彼女はずっとそれに耐え続けていたのだとしたら。
怖気が走る。
《カース・オブ・マイン》とは、散布されたごく微量で県立絡川高校の生徒たちが体調不良を訴え、体内に取り込めば《クラッカーズ》たる餌木才一をすら死の淵に追いやる劇毒だ。分析した励威士もよく知っている。彼とて生身の人間ではないから耐えられているだけで、そうでなければ何人分の致死量を浴びたかしれない。
そんなものを体内で循環させたまま生活し、あまつさえ《虫喰み》や再編局エージェントと交戦していただと?
───狂っている。
だがそう考えれば理屈があってしまう。
頬の紅潮や瞳の浸潤は熱に浮かされた症状。
呪いというものは性質上、気軽に付与したり解除したりできるものではないという事実。一度呪えば取返しのつかない、永劫呪い続けてこその呪いであるならば、呪った血を浄化して体内に戻していると考えることからして間違いだった。そこに疑いを抱かなかったのは、呪血を巡らせるよりもまだありえそうだったから。
血液を大量に失ったことで呪いの影響を脱したとすれば。呪い続ける血がなくなり、その分を延命と身体強化に使えるようになったと考えれば、あの超高速機動にも説明がつく。
……きっと、先刻までの、右腕を血を失っていない彼女は十のリソースのうち三から四割を呪性付与に奪われ、残りのリソースでそれに耐えていたのだ。再編局が熾烈な争いを繰り広げていたと思っていたのはどれも、彼女からすれば自らを蝕む呪いに抗う、その余剰での片手間の作業。
《クラッカーズ》として格が違う。
奥入瀬牧が跳び回っている。視認できない。
直感と経験で何とか致命傷を避けられるだけで、いつまで経っても目が慣れない、追いつけない。
励威士の《クラックワーク》の起点は視覚だ。見て分析し、それに対応して肉体を改造する持久戦を得手とする彼が、見えず分析できない以上、この持久戦はマズい。
だかそれは彼女も同じはずだ。
片腕を失い、血も流失し、瀕死の彼女の一撃一撃の重さは以前よりも軽い。
双方ともに、長期戦になれば苦しいだけ。
決めに来るはずだ。必死に凌ぎながら期を伺う。
まだか。
まだか。
───来た!
敷島励威士の右足に衝撃が走る。牧が踏み込み、踏みつけてきたのだ。移動を潰して必殺の一撃を加える腹積もり。脚も機械、自切するのは苦にもならないがあえて迎え撃つ。
奥入瀬牧の振りかぶる右にカウンター。これで決める───
───右?
右腕ならばさっき、励威士が肩から抉ってやったはず。
一瞬前、視界には確かに泥にまみれて転がる右手が映っていた。繋ごうとすればさすがに勘づく。牧の《クラックワーク》は欠損した腕を再生するほどの性能はないはず。
ブラフか? ない右腕を振るってみせて、動きが止まったところを狙っている何かがある? ───関係ない。ねじ伏せる。
敷島励威士が鉄腕を振るう。
奥入瀬牧が振るったのは血の腕。
欠損した右腕は欠損したまま、血液操作で補って構築された一回きりの仮想義腕。目まぐるしく跳び回っていたのは意識を足元からそらすため。広がっていた血溜まりを操って作り出したのだと励威士が気づいたときにはもう遅い。
拳と拳がカチ合う。
金属が破断する破滅的な音を立てながら、励威士は自分の腕が端から悉くバラバラにされているくのを信じられないという面持ちで見ている。
血色の拳が再び励威士に突き刺さる、それで終わりではない。この腕には肉も骨も神経もない。純粋な血液───《カース・オブ・マイン》にとっては、その全てを余すところなく扱える媒質である。
“血砲”と同じ原理で腕一本分の質量が爆発する。体幹で炸裂した衝撃が励威士を吹き飛ばした。
上半身だけが残った彼は工事現場の外、近隣ビルの外壁に叩きつけられてもまだ活動を停止していない。断面から配管と鋼線と鋼材をはみ出させたままもがいている。
「ガ、ア、アア……! 畜生……!」
彼は総身を機械化していた。これでは呪いの毒は作用しないが、ここまで破壊されれば勝負は決している。彼の上半身は血に塗れている。その血が蠢いて関節部に入り込み錆び付かせてゆく。身を捩ってもギシギシと軋むばかりで動かすこと能わず、かくして敷島励威士は完全に無力化された。




