新しい世界 06/09
オーバードーンが風に鳴動する。
オーバードーンに足音が響く。
一人分。
重い音。───男性のものだ。
明かりのない暗闇。台風接近で外も常より暗いとくれば、完全な闇黒の中に在って、黒ではないものは二つ。
それは、闇に燃える硫黄色の瞳か。
獣の虹彩が光を反射して輝くのとは明確に異なり、その瞳は自ずから光を発している。奇妙な瞳だった。光を取り込み結像する器官が発光しては、盲いるのは避けられない。
だから爛々と燃えるそれは、瞳ではなく本質的には窓なのだ。
男の内面で燃え盛る激情の炎を垣間見せる覗き窓。
何をも写さないだろう瞳が睥睨する。左右にゆっくりと動く薄明かりにうずくまる少年───伊月顕の姿が浮かび上がった。
光量が増した。どうやら目を瞠ったらしい。
少年は頬に涙の痕を残しながら、耳を澄ませばどうやら寝入ってしまっているようだ。こんな場所にも関わらず、である。
男は立ち止まってじっと少年を観察している。
彼が結論を下した。一歩踏み出した彼の懐、ジャケットの内ポケットでかちゃりと拳銃が音を立てた。
◇◇◇
あと、少し。
もう少しで、十分だ。
敷島励威士はこれまでに、奥入瀬牧と接触するのは四度目だ。
───九月二十二日の夜。奥入瀬牧と《虫喰み》が交戦。
───九月二十五日の午後、高速道路にて。再編局のバンを猛追する牧を振り切った。
───同日の日暮れごろ、天雄ビルにて。牧と加賀美条の激突は凄惨な結果だったが、そこから得られた情報もある。
───そして、今。
直接的な接触だけでなく、《虫喰み》の死骸や餌木才一から検出された、《カース・オブ・マイン》のデータ。
身体能力の強化、血液操作、それらの性能。戦闘スタイルと癖、呪血の感情による増幅、さらには奥の手“血砲”まで、見るべきものは見た。
《クラックワーク》で置き換えた記憶領域にすべてのデータは保存してある。分析も済ませた。
鉄鎖も機械四肢も、すべては時間を稼いで敵の情報を分析しながら戦う彼のスタイルに合わせた武器。
何一つとして忘れてやるものか。
テメェの面も、
血の呪いも、
やらかした罪も、
何を願ったのかも。
見たこと、知ったもの、すべて忘れない。天地がひっくり返っても憶えていてやる。
その為に俺は───
それは、原初の記憶。
彼女が寂しげに微笑んで、そして告げた言葉。
『忘れ────、────』
───俺はこんなになってまで、戦ってンだ。
それが彼の命題。
絶対に譲れないもの。
本心を明かせば仲間の仇討ちも、再編局エージェントとして国を守るという使命感も、一線を越えた人間を許せないという怒りも、世界が変わることへの恐怖も何もかもどうでもいい。
彼にとっては、忘れないという一点のみが絶対の決意。
牧の命題とは絶対に両立しない不倶戴天ならば、激突の末にどちらかの絶命は必定となる。
そして敷島励威士は、自分が死ぬつもりは毛頭なかった。
顎を蹴り砕かんとする前蹴りを完全に躱す。
今までの彼ならば避けられるはずのない一撃。空振った牧の驚愕に、溜飲が少しだけ下がる。
だがまだだ。この程度で終わりのはずがない。
肘鉄がクリーンヒット、関節を粉々にした手応え。それを一呼吸のうちに完治されるのは癪だが、その速度も予想通り。そこからさらに二発叩き込めば───奥入瀬牧の怒りが沸点を超えた。物腰穏やかなようでいてその実我慢の底が浅く、キレたら強引に腕力で解決しようとする。読み通り。
紫電が迸る。
渾身の一撃、彼女の《クラックワーク》の限界まで強化しての一撃は来ると分かっていても躱せない。だが、躱せない攻撃が来ると事前に組み立てられれば、それなりに打てる手はある。
奥入瀬牧の血鎧が敷島励威士の鳩尾を貫通する。
励威士は強がり半分で、ニヤリと笑った。
あとの半分は、賭けに勝った狩人の獰猛な悦びだ。
彼女の貫いた手は重要機関を一切傷つけられていない。泥沼に脚を突っ込んだように、抜けないことに気づいてももう遅い。
頭の上で組んだ両手は鉄。癒着し結合し加速するそれは質量兵器以外の何物でもなくなった。
牧の苦し紛れの一撃を頭部に受ける。偽装体表が七割がた吹き飛び、視覚ユニットも半壊したが問題ない。今更狙いなど過つものか───!!
表情筋すらない内部機構の露呈した敷島励威士の顔に、心なき存在には絶対に浮かべられない殺意が溢れる。
鉄槌が振り下ろされ、奥入瀬牧の右鎖骨から入って右脇腹に抜けた。
肩ごと右腕がもぎ取られた。
右肺は完全に破壊され、動脈から鮮血が噴出する。彼女の咄嗟の血液操作をもってしてもなおこの出血量。肉がぐちゃぐちゃに破壊され、心臓だって巻き込まれているかもしれないというのに、これで即死していない生存力は《クラッカーズ》基準でも凄まじいの一言に尽きる。
一撃の余波は彼らが足場にしていた一帯にまで及んでいた。マンションの基礎工事現場、地表マイナスメートルに叩き墜とされ血と泥と雨水の中に倒れ伏す牧。
励威士とて酷い有様だ。
胴体は致命傷ではないとはいえ大穴が開いて向こう側が見える。顔半分は焼けただれて視覚も満足に機能していない。乾坤一擲の大技で使い潰した両腕はあちこち焼け付いて煙を噴いている。新しく換装を進めているが、反動が酷く遅々として進まない。
見下ろす大穴の中で、牧が立ち上がろうとする───バランスを崩してまた倒れる。
溜まった雨水が、途切れた配管から流れ落ちる音がうるさい。
顔をしかめようとして偽装体表が吹き飛んでいたのを思いだし、励威士は仕方なく声を張った。
「───諦めろ! そのザマで立ち上がったってもうテメェは見切ってんだよ、終わりだ!」
負傷前でも動きを捉えられていた牧が、右腕を失って生命維持にリソースを奪われるようになっては勝ち目はない。そう考えて投げつけた言葉に泥中でもがいていた彼女の動きがぴたりと止まった。
「……ふ」
肩が揺れているのは痙攣ではない。
「ふふふふ、ふふふふふ───」
笑っているのだ。