新しい世界 05/09
奥入瀬牧は半ば自暴自棄に暴れ狂いながらも、冷静に敷島励威士を観察している。
《クラックワーク》は不可能を可能とする異業ではあるが、一切の制限がないわけではない。励威士が《カース・オブ・マイン》によって呪殺されていないのには何か理屈があるはずだ。純粋な出力で牧を上回っているのならば、その改変能力を直接牧にぶつければいいはずだから。それほどの力で呪いを弾くだけに費やし、肉弾戦闘には回さずにこうして苦戦しているのは道理が通らない。
……考えられる理由としては、彼女の呪いは血を媒質としている。その血が、この天候───台風接近に伴う暴風豪雨で付着するはしから洗い流され、吹き散らされているから有効打たりえていない可能性があった。
どこかへ流失した呪いがどうなるのか。希釈されて無害化されるのか、それとも誰かに触れて毒となるのか。彼女の知ったことではなかった。呪いが流れだそうとどうせ世界は儀式によって改まるのだし、そうでなければ彼女は死んでいる。どちらにせよ遺された呪いはもはや彼女の預かり知らぬ問題だ。
最も厭わしいのは、そのどちらでもない結末。
生まれ変わることもできず、負けて死ぬこともできず、有耶無耶のままに生き永らえてしまうのは考えつく限り最悪だ。
白黒つけたい。
勝って生まれ変わるか、負けて死ぬか。
もう“奥入瀬牧”を続けるなど真っ平御免だ。
励威士の手刀が頬をかすめる。薄皮一枚、斬り裂けた。
……彼の拳が鋭さを増しているのは、どうやら錯覚ではないらしい。
それが何だというのか。
元来、牧は深く考えるよりも先に手が出る気質。
戦闘中ともなればその傾向は強まる。
大脳への負荷を全く無視して過動。型も何もあったものではない一撃はただただ圧倒的な速度と破壊力のものに放たれ、励威士の右腕をぐちゃぐちゃに粉砕、さらには根本から破断するまでに至った。
肩口からもぎ取れた右腕は、血と肉と骨ではなく、配管と鋼線と鋼材から成っていた。
───機械義肢。
外見からそれと悟られない性能は世に知られる技術の粋を結集しても作れまい。《クラックワーク》による改造、機構への変換の賜物か。
道理で、と彼女は納得していた。あの腕ならば奥入瀬牧の《カース・オブ・マイン》は通用しまい。表皮を浸食してもその中の機械構造には思うように効果を発揮せずに終わる。餌木才一や加賀美条のように呪いに侵されて腐殺されることは心配せずに済むだろう。
彼女がその発想に至らなかったのは、《クラッカーズ》にとっての非常識だからだ。彼らは自分自身の肉体を変質させることはほとんどない。
自己の認識とは確かな拠り所がなければあやふやになりがちなもので、基本的にその拠り所とは最も分かりやすく存在する自己───肉体性となる。つまり肉体を改変するということは自己認識を変容させるということで、自分が自分でなくなる可能性を恐れるのは自然なことと言えよう。
《クラッカーズ》には他者の《クラックワーク》をレジストできる、という性質がある。
たとえば牧が加賀美条のことを“死んでいる”ように改変しようとしたとして、条が“自分は死んでいない”と自己を観測しているのを覆してまで《クラックワーク》を成立させるのは難しい。これは意識の有無に関わらないが、逆に言えば自己同一性を見失っているのであれば他者であっても《クラックワーク》で直接改変できることを意味する。
彼女はそこに勝機を見出した。励威士が自己改造、自己置換の末に《クラックワーク》的免疫を失っているとしたら。
彼女の戦闘中に深く演算せずとも扱える《クラックワーク》に“物質の壊れやすさを調節する”というものがある。普段の彼女はこれを足場に適用して踏み込みで壊れないようにしたり、逆に邪魔なものに適用して発泡スチロールよりも脆くした上で排除するなどして使っている。それを励威士にぶつけて、通れば彼はどう殴っても一撃で決着がつくだろう。
隻腕となり跳び退っている最中の励威士を対象にとって、定義済みの《クラックワーク》が発動する。果たして改変放電が走り、不可視不可避の脆弱性改変は彼を捉え、
あっさりと弾かれた。
一挙動を犠牲にしての取り組みは、一挙動すらなく打ち消される。こうなると知っていれば追撃したものを、目先の楽に飛びついてチャンスをふいにしてしまった形になる。
距離を取った励威士が、道端に駐車していた自動車の一台に無造作に左手を翳す。彼の全身に力が入ったように見えるのは、彼もまた一瞬前の牧のように自動車を対象とした《クラックワーク》を行使したのだろう。網が包むように改変放電が走る。
自動車は危険な予感のする音を立てながら変形してゆく。数秒もせず完了したそれは、自動車一台を余すところなく使って作った替わりの右腕だ。圧縮された密度たるや想像を絶する。
表皮を人間らしく偽装する余裕はないと判断したか見るからに機械義肢といった見てくれだが、動かすのにリハビリは不要らしい。
踏み込んで放たれた鈍色の右拳に、受けた牧のほうが軋んだ。形が変えられても馬力はそのまま正面から轢くのと変わりない。今度は彼女が距離を取ろうと、返す刀で無事な右腕を突き出す。
二人の間で血色の爆発がまき起こる。
餌木才一に止めを刺したときの機構、“血砲”。呪いが有効でなくとも衝撃は有効だろうし、煙幕にもなる。防いだ励威士の左腕、外装が呪血に焼けただれて内部機構を露出させた。両腕ともに義肢とは、内心舌を巻く牧の右肘から用済みのカートリッジが排莢される。
どちらともなく距離を取る。
どちらも一筋縄でいかない曲者であると認め合ったのだ。
───息は荒い。
───視線は剣呑だ。
風も雨も、まだまだ強くなるだろう。
夜はこれからなのだから。