新しい世界 04/09
風の音がいや増してゆく。
やがて降り出した雨も同じく。
この街はついに台風の渦中にあった。
完全に夜の帳が下りた瓦木市、その霊的中枢地。景央線浜樺西駅前の広場には奥入瀬牧しかいない。暴風雨の中で自然体でたたずむ彼女が、雨足の強さを確かめるように手を出すと、荒れ狂う空から一本の光る脈がゆっくりと下りてくる。木の根のように伸びるそれが彼女の手と触れるか触れないかのところで止まる。それで十分だったらしく、彼女の念じた命令が光の根を伝って上へ上へと昇ってゆく。はるか上空、雲の中に消えていったそれが到達して、天に広がるものがあった。
魔術陣である。
瓦木の空をキャンバスとして白光のインクで描かれたそれは、魔術の心得がある者が見れば、この世界を書き換えるだけの力ある術式だと理解できるだけのものだった。強く強く、永遠に続く“彼女《奥入瀬牧》”の夢を広げて布き続ける大儀式。
その最終フェイズを実行するべく、起動コマンドを告げようとした奥入瀬牧が口をつぐむ。
振り返るそこに、敷島励威士が立っていた。
「……なぜ、私を止めるのですか?」
こんな問答、双方に意味はない。どちらももはや言葉では止まらないし、時間稼ぎをする必要もない。
だから答えてもいいかと思った励威士はそういうところで律儀な男だった。
「私の命題、願いはもうご存知でしょう」
「新世界の創造。現行世界の破却。テメェの独裁を受け入れろってか?」
すべてが彼女の意にそぐうよう運営される世界。究極の管理社会。自由意志すら残るか怪しいそこは、人間にとっての理想郷ではない。彼女のための人形劇だ。
「譲歩はできます」
どんな役を貰おうと、それを喜べる自分すら奪われて、はいそうですかと受け入れられる人間はそうはいまい。
そして励威士が拒絶するのは、それが理由ではなかった。
「このままの俺でいさせろっつって、通るんならいいぜ」
「……それは」
言葉に詰まる牧。だってその願いは聞き入れられない。譲歩などしようもない、不倶戴天の宣戦布告に他ならない。
多義的な言葉だった。“このままの俺”とは“《クラッカーズ》である敷島励威士”であり、“現行世界を覚えている敷島励威士”であり、“奥入瀬牧と敵対している敷島励威士”である。変わる世界の中で、変わらない自分でいたいという励威士の願いは、牧にとって認められない命題だ。
「完全で完璧であれと願われた新しい世界に、不完全な現行世界の存在をそのまま移行できる訳ゃねえよな。俺がいればつまり世界は不完全ってことだ。夢の終わり。そうなる可能性を遺すテメェなものかよ。眠りにつく前に、目障りなヤツは根っこまで潰して、スッキリ安心して夢に浸りたいに決まってる。俺だってテメェの立場ならそうしたろうよ。だから止めンだよ。今更譲歩だなんだ言ってんじゃねえ。テメェは俺と同じ人でなしだろうが! 加賀美さんぶっ殺して、才一だって今頃くたばってるかもしれねえ、そんだけ好き勝手しておいて何が譲歩だ寝ぼけてんじゃねえよ! 俺はテメェと交渉しに来たんじゃねえ、テメェをぶっ殺しに来たんだ!」
励威士が吼えると同時に踏み込む。奇をてらわずに放たれた右拳は牧を二十メートルもぶっ飛ばしたが、きっちり着地して跳びかかってくる段ですでに血の籠手が展開されていた。触れれば呪い、混じれば命に差し障り、貫けば必殺。さりとて躱すことを許さない猛撃を、励威士は真っ向から受け止めた。
呪いの巡りには個人差がある。万全を期すには、対象が自分の生存を諦めるほどの呪血の混入か、あるいは純粋な破壊によって生への執着を断ち切るべきだ。淡々と考える彼女の計算には、大前提として『血鎧による一撃を加えたのだから、敷島励威士も呪いの影響を受けるはずだ』という思考がある。
それを甘さと断ずるのは難しい。彼女は歴戦の“金言集”エージェント、これまでに戦った《クラッカーズ》の中に彼女の呪いを受けて無事に済んだものはいなかった。効かないはずはない。
───だから励威士の右の鉄拳が、牧の鼻面にめり込み骨まで砕いたのは驚くべきことだった。
彼女の動体視力および反射神経は、強化された肉体についてこれるように強化されている。その反応をくぐり抜けて一撃を入れられるほどのスピードは、彼の初撃には見られなかった。手加減していたようにも見えない。呪いを受けて緩慢な動作になるというのなら巡りが早かったのだと納得できるが、逆に速くなっているのはどういう理屈か。
常人ならば脳が頭蓋骨の中で揺れて正常な思考など保てはしないが、牧は折れた鼻を力ずくで戻すと飛び退いた。鼻血などは殴られた瞬間に止まっている。血液操作を得手とする彼女ならば造作もないことだが、痛いいものは痛いし殴られればムカつく。
距離を取る彼女の脚に絡みつく鎖。ぐんと引っ張る膂力は人間の出せる馬力ではない。
フルスイングのままにどこぞの壁に叩きつけられる。複数枚を連続してぶち破る。
励威士の手応えがある瞬間に反転した。体勢を立て直しでもしたのか、牧が励威士以上の馬鹿力で振り回し返そうとしているのだ。
今度はお前の番だとばかりに踏ん張っていた牧が勢い余って後ろに転がった、その鎖のもう片端で励威士もよろめいている。彼の作り出した鎖であれば切断もある程度自在、とはいえすでに加えられていた力は別だ。
両者とも予期していたのか、すぐに復帰すると開いた距離を猛然と詰める。二人とも近接格闘者、顔をつきあわせ拳の届く距離が最も強い。
ビルの壁面を舞台として再び対面する二人。下から駆け上がってくる励威士の顔に呪いの影響は碌に見られない。上等だ、と牧は思う。
呪いの効きが悪い鈍感というのなら構わない。効くまで呪って、それとも壊して、バラバラにして終わらせてやる。
重力を始め物理法則を悉く踏みにじりながら、二人の拳が激突する。