新しい世界 01/09
───風の音が聞こえる。
瞼の緞帳が上がるより先に伊月顕が感じたのは、それだった。
次いで右腕に走る懐かしい激痛と、消毒液の匂い。
視界に映る石膏ボードの虫食い模様の天井に、伊月は、ああ、搬送されたんだとぼんやりと考えている。
感情が麻痺しているのが自覚できる。
鎮痛剤か、単に寝起きの夢見心地か、人の死を目の当たりにしたことに対する自己防衛反応かは、少し考えても分からなかった。
……奥入瀬牧と出会った事実の忘失。あれも今になって思い返してみれば、やはり防衛反応だったのだろう。奥入瀬牧という“呪い”が原因で体調を崩したのだと無意識下で察知して、それ以上の接触がないように記憶を閉ざすことで対処しようとしたのだ。
あのときは、牧と再会できてしまう可能性がまだあった。事実、彼は牧のことを思い出した結果再会できてしまったのを鑑みると、忘れるという肉体の判断は正しかったのだと言えよう。
逆説的に、こうして奥入瀬牧を覚えたままで居られるということが、単純な接触回数の多さを抜きにして、伊月顕自身が心のどこかで『もう彼女に逢うことはできない』と悟っているように思えて───
「泣いてるの? お兄ちゃん」
「……泣いてねえよ」
左腕を額にのせて、陰ができたから妹の位置からだとそれっぽく見えていただけだ。何やら打ちひしがれている様子の兄を見て、伊月瑠璃香が珍しく近寄ってくる。
「嘘泣きってことはなし、お兄ちゃん私が来たのに気づいてなかったし。なんで泣いてたの、痛いの?」
「まあ、な」
問われて思い出したかのように、右手の骨折がズキリと自己主張をした。添え木がされていて、ぱっと見で不自然な方向にひん曲がったりはしていなかった。
「手術の予定はお父さんとお母さんと先生で話し合ってるって」
「そうか……」
「で、ホント何があったの? 同じところ折れたの偶然なの? なんで不発弾爆発といい高校の事件といい、お兄ちゃんの周りでばっかり変なこと起きるの? 厄年?」
「……んなわけねえだろ」
部外者である妹に質問責めにされると客観視できる自分自身が、つくづく不審極まりない。
改めて自分が恐ろしい渦中にいたことを自覚する。何度も死にかけたし、そういえば一回は本当に心臓を貫かれて死んだこともあった。歩道橋から墜落したのがもうずいぶんと昔の思い出のようで、会話しながらつい笑ってしまいそうになる。
「というか一昨日帰って来なかったじゃん。どこ行ってたの?」
「……いま、何日?」
「二十六」
一晩が明けていた。
「どこ行ってたのって聞いてんだけど」
「宇野ん家だよ。スマホの充電なくて連絡し忘れたんだ」
「嘘」
一発で看破されて伊月は狼狽する。はて、瑠璃香には嘘の見分け方は伝授していなかったはずだ。宇野と連絡先を交換していたのか、それともそんなにバレバレの演技をしていただろうかと内心で反省しながら、
「嘘なわけあるか。なんで嘘だって言い切るんだよ」
「妹の勘だけど」
そんなもんどうにもならんわ。
「お兄ちゃん、何考えてるか知らないけどさ」
瑠璃香は病室の隅に置いてあった丸いパイプ椅子を引きずってきて座る。家でもそうだが、彼女はよく椅子の足を引きずって両親に怒られている。
少年みたいに足を広げて座る瑠璃香は、椅子についた両手の甲に視線を落としたままぽつりと言った。
「あんま危ないことばっかりしてると死んじゃうよ」
「───死ぬ、か」
加賀美条のことを考える。
会話を交わしたのはほんの少し、あれで彼の人となりが全て分かったつもりにはなれないが、伊月は彼の名前をまともに聞いてすらいないが、それでも思うところがないことはない。
彼にはきっと彼なりの正義があり、《クラッカーズ》としての命題があり、危険な奥入瀬牧を許せないと思って戦った。きっと彼は間違っていなかったのだろうと思う。彼は自らの信念に殉じ、永遠の向こう側へと行ってしまった。もう伊月の手の届かないところへ。
奥入瀬牧のことを考える。
彼女は自分を消し去って生まれ変わりたいと願っていると敷島励威士は言っていた。世界ごと新生したいと狂するほどの呪いとは一体どれほどのものなのか、伊月には想像もできない。不平不満はあれど所詮自分は満たされている側で、彼女のように飢えて渇して狂おしく求めている人とは根本から違うのだろう。
それでも。
「最初からどこにもいないなら、生きるも死ぬもないよな……」
「なんの話? シェイクスピア?」
予想だにしない名前が飛び出して、伊月はひどく面食らった。稀代の劇作家ウィリアム・シェイクスピア、一五六四年四月二十六日生まれ、一六一六年四月二十三日没がどうしたって?
怪訝な顔をする伊月をみて、瑠璃香もまた怪訝な顔をする。
「なにって、そういう話じゃないの?『生きるべきか、死ぬべきか』ってヤツ」
「ああ、そういう……」
彼の記した四大悲劇が一つ、『ハムレット』第三幕第一場。その中で発される、誰でも知っている名台詞。もちろん伊月とて知らないわけがない。そういうつもりで呟いたのではなかったのだが、確かにそうとれなくもない言葉だったか。
有名な台詞はこう続く。
『生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ』と。文脈的に、このまま生きるか、それとも死ぬことを承知で戦うか、復讐の是非に迷うハムレットを示している。
彼女は戦おうとしている。
伊月は、そんな彼女に───
「なあ瑠璃香」
「なによお兄ちゃん、改まって」
「着替え持ってきてくれ、今すぐ」
瑠璃香は兄が何をしようとしているのかすぐに悟ったが、説得を試みることはしなかった。彼がこんな目をしているのを見たことはなかった。これは無理だと思った。
彼女が手当たり次第ひっつかんで持ってきた服に着替えると、伊月はこっそりと病室を抜け出した。
誰にも止められなかった。
彼のここ数日の不審さはあれど、警察にとって彼はあくまで参考人程度で、あの惨劇に巻き込まれた側の人間という認識だ。高速道路の崩落、天雄ビル地下の不発弾の爆発などでてんてこ舞いの県警に、そんな彼を見張っておく人員は残っていない。
市営の病院を脱して、瓦木の街を歩く。
昼下がりとは思えないほど空が重い。
かねてより接近が報じられているため、雨に降られることを避けて街に人があまり出ていない。
これは伊月顕が知り得ないことではあるが、今日は九月二十六日。
“台風襲来の日”と言われている。