Fire Cracker 06/09
これでいい。
───どちらにも勝ちの目はあった。
再編局はあと少しだけ時間があれば、摘出された核が人体外環境に耐えきれず自ずから崩壊していた。
奥入瀬牧はあと少しだけ時間があれば、再編局の残存メンバーを鏖殺して天雄ビルを脱し、裏切り者の伏人傳を追跡して殺すのに何の支障もなかった。
だから、このタイミングしかなかった。
可能性を潰して回って、これで描いた青写真通りだ。
天雄ビルから歩いて二分のコインパーキング。停車している赤い自動車───彼が移動用にしばしば用いるものだ───のボンネットに腰を下ろして、傳は傍らの少年にGOサインを出す。
性の未分化な年頃の子だ。
少年にも少女にもならないその子は、一切の感情が漂白された瞳で傳を見上げる。
瞳の色は、伏人傳と同じ硫黄色。
「なーに見てんだ、インクヴィーズ。行ってこいよ、お前の命題を果たす時だ」
インクヴィーズと発したのは幼子の名前だろうか。およそどの言語でも意味のとれない音節で呼ばわれた子供は一つ頷くと、その姿が瞬きのうちにかき消えた。
空間に干渉して転移したのだ。
空間操作のくラックワークはまず空間を明確にイメージし認識できなければ始まらない。個々の世界観に左右され、誰しもが夢見ながらも誰にでも許されるわけではない限られた御業である。
その持ち主を命令一つで使役しながら、伏人傳はこれで再編局には探知されただろうと目測する。
街頭が燈った。
バイクに跨がる奥入瀬牧が宙にある。
これでいい。
このための密告、このための電話、そしてこのために───
全てはこの瞬間のため。
伏人傳は懐から一つの機器を取り出す。
片手で握れるサイズ、細長く一方の端にはこれ見よがしな赤いボタンつき。そのボタンに親指をかける。
「どうして《クラッカーズ》って呼ばれてるか、知ってるか?」
◇◇◇
治部佳乃は立ち上がった。
ずっと再編局の連中に気取られないよう密やかに進めていた計画だ。治療が苦手な振りをして連中の目を欺き、秘密裏に治療を進めて逃げられるように準備しておく。そしてその期が来たら逃げる。
───彼女が人体治療の《クラックワーク》を不得手としているのは事実だ。そんなところで誤魔化せる相手ではない。だが瀕死の状態で逃げても追いつかれて今度こそ殺される。
ではどうするか。
彼女が採った手段は、《虫喰み》による負傷部位の代用。四肢を《虫喰み》で作った義肢で、眼球を《虫喰み》で作った義眼で、胸の傷を《虫喰み》で作った人工心臓で補うことで、人体を治療できずとも活動できるようにしたのだ。
見てくれは不格好で、年頃の女子であるところの治部佳乃としては断腸の思いでる。四つん這いで這い回り、出目金か何かのように飛び出した外付けの目で周囲をぎょろぎょろと睨んでいる彼女は、ここに鏡がなくてよかったと心底思った。足の中心にある彼女の胴体には半透明の肉塊がいくつもくっつき、不気味に脈動している。これが今の彼女の心臓と肺の代わりなのだ。泣きたくとも《虫喰み》眼球に涙腺の機能は持たせていないので泣けもしない。
影響は外見だけではない。己の身体に《虫喰み》を接続し拡張してしまったことで、彼女は奇しくも短刀に貫かれた井澤渓介と同じ苦しみを味わっている。異なるのは、徹底的に拒絶した彼と、いざとなれば変異した自分自身も興味の対象にしてしまえる彼女の精神性だった。
ここを切り抜けたら、自分自身で《虫喰み》と一体化してみるのも面白いかもしれない。
今なら切り抜けられる。
見張りが不在となった期間。
そこに上階から響いてくる異音。
おそらく《カース・オブ・マイン》。
再編局は私《治部佳乃》という裏切り者を片づけ、しかしどういう理由か移送に失敗した。一度連れ出されてまたここに戻ってきたのはそれ以外に考えられない。よって監視できるアジトに私を置いたまま、チーム本来の目的である彼女《奥入瀬牧》と激突に踏み切った……といったところだろう。彼女は事情が分からないなりにそう考える。
つまり、今の再編局は佳乃どころではないはずだ。
半ば近く《虫喰み》と化した身体を駆って必死に逃げる───まさにその瞬間、
目前の空間、空っぽだったそこに突如誰かが現れた。
無機質な硫黄色の瞳をした子供が、治部佳乃の目と鼻の先にいる。
希少な空間転移能力。
そして、どことなく似通った面影。
そんなわけない、彼が幼くなってこんなところに現れるなんて意味不明だ、何か裏があるはず、そもそも彼の瞳の色はたしか黒だった───そんな思考が空転する。
「井澤さ───」
助けに来てくれた、と錯誤してしまった一瞬を責められはしまい。
その一瞬があろうとなかろうと、結末は変わらないのだから。
子供が佳乃の頬に手を伸ばす。手を添える。
添え返そうと思った自分の手が今は《虫喰み》なのを思い出した佳乃の、
頭部だけを連れて少年が再び空間転移した。
首なし死体が天雄ビル三階の床に倒れ伏す。
空間ごと断ち切られた首の断面からホースのように赤い液体が床に広がってゆく。
制御する者を失った《虫喰み》が、じくじくとその死体を啄んで成長し始めた。
◇◇◇
外壁が破られて、赤黒い塊が室内に飛び込んでくる。
それが奥入瀬牧の血で加工されたバイクと認識できるだけの余裕は室内の誰にもない。桁違いの質量が暴力的な運動エネルギーでその場の全員を轢き潰して挽肉に変えてしまう前に、加賀美条の《斬光》が閃いた。
轟音は壁一枚向こう側。
刹那、斬り分けていた剣閃を焼き付けた障壁が鉄塊をせき止めていた。
音は止まらない。エネルギーを相殺しきるまで維持しなければ、
───ひたり。
純白に干渉を弾くはずの障壁に、黒い手形が一つ。
───ひたり。
そして、もう一つ。
“こちら側”の全員が、その手形が意味するところを理解して身の毛がよだったのを感じた。
右と左の手形だけだった“黒”が、見る見るうちにその領域を拡大してゆく。光の白は完全な黒に染め上げられ、じゅくじゅくと膿んで崩れ去る。
呪の穢れに、意味を失った。
朝、閉じていたカーテンを開くように勢いよく、牧の血の籠手が《斬光》の障壁を開き払った。
霧散して消滅する壁、その“あちら側”から溢れる濃密な呪い。
流れ込めば中てられる。だからその前に条が動く。
障壁を両手でこじ開けたこの刹那、奥入瀬牧は構えを解いている。胴体がら空きのところを、剣に纏う《斬光》───最大の威力を誇る一撃で斬り伏せる!
───このときまだ、加賀美条は奥入瀬牧という《クラッカーズ》を過小評価していた。
障壁はバイクとの衝突を防ぐために張られたものだった。それを牧が破ったことで、彼は「バイクがバラバラに壊れて足りなかったから、自力で壁を破ったのだ」と思いこんでしまった。自分の尺度で測ってしまった。
奥入瀬牧の呪いを甘く見積もっていた。
イツキに、儀式核に手を出した再編局への、彼女の負の想念は最高潮まで荒れ狂っており。
衝突の制動を殺されたバイクはしかし、奥入瀬牧の《カース・オブ・マイン》でその原形を維持させられたまま、彼女に蹴り上げられて条の腹に直撃した。