Fire Cracker 05/09
「───上等じゃねえか」
再び顎に伸びてきた手は万力のようにガッチリと伊月を捕らえびくともしない。
抵抗している間に足払いをかけられたと把握できたのは床に俯せに転がされたあとで、それならばと起きあがろうとした伊月に励威士のブーツが降り注ぐ。
十数秒前に骨折したばかりの右腕に。
伊月の思考回路は激痛でオールレッド。喉が切れんばかりに絶叫を発している。時間感覚が狂って、やっと痛みが痛みとして受容できる域まで希釈されたころには、伊月はガッチリと押さえ込まれてしまっていた。
「加賀美さんと杜月は引き続き警戒を。俺ぁ核を摘出してブッ壊します」
条はその言葉に頷く。励威士が本格的に儀式核に干渉し始めれば、いくら覆い隠されていようと奥入瀬牧にはその“悲鳴”が届いてしまうだろう。それがヨーイドンの合図。あとは牧が駆けつけるのが早いか、励威士が儀式核を破壊し尽くすが早いかの勝負となる。
敷島励威士が右腕を掲げる。
基盤めいた電光が表皮の内側を走る。右腕の質感が肉感的なそれから無機質で機械的なそれに切り替わってゆく。その腕で伊月顕の心臓あたりに狙いをつけて、振り下ろす。
衝突音。
廃墟中が目もくらみそうな閃光と、障壁が励威士の右腕を弾く激しい音が満たす。右の拳は伊月から二十センチメートルほどの中空で阻まれている。
励威士は障壁と拮抗しながら冷静にそれを観察し解析する。
腕に再び電光が走る。
みり、と。
障壁に腕がめり込む音がした気がした。
二度、三度。腕に電光が走るたび、障壁が貫かれてゆく。
障壁を貫ける腕に、《クラックワーク》が作り替えてゆく。
完全に押さえ込まれている伊月にも、儀式核にも打つ手はない。干渉を拒絶する障壁は儀式核の自己保護機能によるものだが、《クラッカーズ》たる敷島励威士にはそれが何を防いでいるかを確認してから後出しで『腕を障壁で防がれないものに換える』という荒技が可能だ。
あくまで世界という基盤の上で世界に“そうしてよい”と認められているから不可思議を実現できる魔術とは格が違う。世界という基盤そのものを望むまま変えられる《クラックワーク》は、およそあらゆる力の中でも最上位にある。
それだけの力には相応の負荷がかかる。
励威士が歯を剥き出しにして唸っていた。首筋に浮かぶ血管は切れない方が不思議なくらいだ。
当然である。障壁が何を論拠に干渉を拒んでいるのか、ただの視覚では判別などできはしない。それを把握できるよう調節し、論拠を掴めばそれを崩せる右腕に改造し───を絶えず繰り返しているのだから。解析と改造は彼の得意技とはいえ、魔術儀式の核はその範囲外なのだ、無理もしようというもの。
それでもここまで、あと一層まで来たのは彼にも譲れないものがあるから。
あと一層徹せば、
───徹した。
敷島励威士の拳がついに直接伊月の背中に触れた。そのまま、沼に手を突き入れるように、中へ。
「お、ア」
伊月が悶絶する。体内に手が挿さったのだから当然、ではない。
敷島励威士が腕を引き抜いたあと、伊月の体にも服にも穴は開いていない。励威士は物理的に侵入したのではなく、異なる層に隠されていた儀式核に触れていた。伊月を苦しめていたのはその際の精神に触れられるような異物感だ。
励威士の手中には煌々と輝く球がある。
これこそが儀式核。
世界改変を成すため不可欠な概念的駆動結晶体。
奥入瀬牧の願いの果てだ。
荘厳さを感じさせながら同時に非感動的なそれは最後の外殻を残すのみだった。励威士がそれを解析し終えればパッケージングされた構成要素は破壊され、儀式は成立しないままついえる。
それを、床に転がるばかりの伊月がぐしゃぐしゃの顔で見上げた。
「───やめろ」
それを壊されれば奥入瀬牧が悲しむはずだ。
彼女の願いの是非を、外から土足でやってきたお前らが決めていいはずがない。それを決めるべきは───
「やめてくれ」
光に向かって、折れていない方の手を伸ばす。そんなことをしても何にもならないのは伊月が一番よく理解している。現に励威士は用済み抜け殻の伊月を一顧だにせず、儀式核を粉砕するために全力を費やしている。もう幾許もなく終わりだと悟って、その瞬間を恐れた伊月の喉からカワイソウな犬みたいな泣き声が上がる。
儀式核の最後の悪足掻きがバチバチとうるさい中で、傍らで自分と同じような声がしたのを伊月は聞いた。
杜月杏の顔が恐怖に引き攣っている。
焦点の合わない目で虚空を凝視したまま、
「───加賀美さんッ!」
叫んだ声は、廃墟の壁が粉々になる音にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。
◇◇◇
奥入瀬牧はバイクに乗れる。
自動二輪免許の類は、持っていない。
《クラッカーズ》にはよくあることだ。警察官に免許の提示を求められてもどうとでもなるから一々取得しない。事故など起こさなければいいの精神で、しばしば法律を気軽に飛び越えるのは彼らに全体的に共通する点だ。
何よりも優先すべき命題がある。ならば、法律など気にしている場合ではないだろう。
今の彼女もそうだった。
改造されたバイクを駆り、法定速度をブッ千切って再編局の拠点───天雄ビル付近に到着した牧は、周囲をぐるっと見渡した。
家電量販店の立体駐車場へと入っていく。スロープを上がって五階まで。
転落防止用フェンスの、その上に更に張り巡らされたネット越しに天雄ビルを見下ろす。……目算通り。
駐車場の反対側の端までとって返す。こちらは期待外れにも助走距離に不十分に思われる。最低限アクセルは全開で、その上でこちら側でサポートする必要があるかもしれない。
エンジンが唸りを上げる。
ギアチェンジ、制動全開放。
覚悟も準備もなく、正気ではあり得ない加速でバイクは駐車場を端から端まで疾駆する。
待ち受けるフェンスに突っ込む。激突の瞬間に奥入瀬牧の《カース・オブ・マイン》が燃え上がり、ネットは一瞬で腐食して灼け落ちた。
交通事故そのものの音を立ててバイクが宙を舞う。
───やはり駄目だ、墜落する。加速が不十分で飛距離が足りない。
牧の手首から堰を切って溢れた鮮血は滂沱とバイクに流れ、纏わり、コーティングする。
彼女は跨がっていたはずのバイクを振りかぶって、目指す天雄ビル四階の壁めがけて全力で投げつけた。足場のない滞空状態であること、自分よりはるかに重いバイクを片手で投げつけることも、《クラックワーク》で強引にねじ伏せる。
それどころではないのだから。
最も渇望するものをこそ得られないから、ほかの全てを可能とする人でなしどもの、これが形振り構わない戦い方というものだ。
かつてバイクだった塊の激突を受けて、天雄ビルの外壁は粉々になった。