Fire Cracker 04/09
どことも知れぬ廃墟。その一角で、イツキは自分を取り囲む三人を睨んでいる。
拉致される際に一番見た、ドレッドロックスの男。───敷島励威士。
帯刀した優男。歳は伏人傳と同じか、少し上くらいに見える。───加賀美条。
所在なさげにしている女の子。同年代くらいか? ───杜月杏。
ここに連れ込んだ時点で拘束する必要もなくなったのか、すべて外されて自由にしている。だからといって逃げ出せるとは思えなかった。彼らは逃げ出しても暴れてもどうとでもできる自信があるから外しただけだ。
「伊月顕、県立絡川高校一年九組四番。間違いねぇな?」
励威士に尋ねられて、イツキ───伊月顕は頷いた。そこまでバレていて今更否定しても仕方ない。励威士が懐から学生証を出すと投げ渡してきた。受け取る。
「きみが、《カース・オブ・マイン》の儀式核を持っているというのも、間違いないか」
「《カース・オブ・マイン》?」
「あの女のことだよ。奥入瀬牧だ」
《クラックワーク》は大なり小なり使い手の独自性を帯びるのが常だ。イルカこそ人類の友であると信じ、仮想のイルカをインタフェースに選んだ異能を、イルカに心的外傷のある《クラッカーズ》が模倣しようとして上手くいかないように、得意不得意や個々の世界観は、意識・無意識を問わず《クラックワーク》に表出する。そうして突き詰められた《クラックワーク》に、使い手の《クラッカーズ》はしばしば名前を付ける。名前を与えて紐付けすることで、《斬光》と言えば剣に光を反射させる業というのをイメージしやすくして、咄嗟に使いやすいように工夫するのだ。
そして、そうして名付けられた《クラックワーク》の名前は《クラッカーズ》の代名詞となる。本名が露出しない“金言集”のエージェントなどは、そちらを主に使うことがままあった。
無論、そんな《クラッカーズ》たちの間でのセオリーなど伊月は、
「知らないな」
彼は《クラッカーズ》を知らない一般人という体裁を崩さない、崩してはならないとひしひしと感じていた。先日話しかけてきた先輩は何故だか不在のようだ。好都合、知らんぷりを続けて時間を稼ぐのが今の伊月の役割だろう。
「儀式? 何のことだ、あんたら身代金目的じゃないのか? 人のこと誘拐しといて」
「あのな、今更しらばっくれても証拠は───テメェまさか洗脳されてんのか?」
励威士の手が素早く伸びてきて伊月の顎を掴む。精神に作用する《クラックワーク》の類がないのか走査し、ざっと見て何もされていないのを確かめると手を離す。
うんざりという顔で舌打ち。
「何も聞いてねえだけかよ……」
「あんたら何者なんだ、何が目的なんだ!」
「ぼくたちの目的は奥入瀬牧を止めることだ」
「止まらねえなら、殺す」
二人の言葉に息をのむ。彼らは伊達や酔狂でそんなことを言っているのではない。本当に、牧が止まるか、牧を殺すか、あるいは自分たちが死ぬか、どれかしか択はないと決意しているのが彼には分かる。
人が人を理性的に殺す、そんなことがあってはならない。この現代社会で許されることではない。《クラッカーズ》や魔術師が関わらずともそんなことは世の中にザラに起こっているとしても、他人事でなくなった途端にこんなにも気持ち悪い。
昆虫か何か、感情をやりとりできない異物にしか見えなくなる。
唇がわななく。
「なん、で」
「そんなことするかって? あの女の儀式が成立すればこの世界が終わっからだよ」
《クラッカーズ》が儀式を執り行うとき、そこには大きな命題が必ず存在する。《クラックワーク》は理論上何でもできるが、『どうやればいいか分からないことはできない』という制約と、『何かを書き換え続けるのは負荷が大きすぎる』という問題が立ちはだかる。それをどうにかするために遂行されるのが儀式、永続的かつ根底からの改変だからだ。
眠りながら論理的思考を展開し続けられる者が存在しないように、あるいは永遠に続く夢を見られないように、《クラックワーク》は一種、一時凌ぎでしかない。彼らの代行としてその世界観を敷設し、絶えず展開するのが儀式である。
たとえば『特定の人物が死んだ事実を否定し続ける』儀式。
たとえば『世界に存在しないはずの生物種が出生するようになる』儀式。
たとえば『奥入瀬牧が夢見た世界を実現し続ける』儀式。
竟に命題を叶えるもの。
魂が認める至高の儀式魔術───究竟式。
伊月顕の心臓に今、埋め込まれている核。それが実行するもの。
それが何を叶えるのかは定かではない。
だが、現行世界への不満なくして、呪いの《クラックワーク》など発現しようはずもない。そんな人物が世界を思うまま改変すれば、原形が残るとは到底思えず。
それはつまり、この世界の終わりを意味する。
日本国の鎮護を目的として集った再編局に認められることではない。
「───たア言え、テメェには関係ねえ話だ」
励威士はドレッドロックスをがしがしと掻く。話した内容は最悪の場合で、そうならないために彼らはこうして伊月を拉致したのだ。
「テメェに埋め込まれてるっつー儀式核。引っこ抜いてブッ壊しゃ、それで終いだ」
「きみに事情が分からないというならそれで構わない。こちらで勝手にやるし、きみに危害は加えない」
彼らの言葉は真実で、きっと伊月が何をするでもなく済む話なのだろう。万能たる《クラッカーズ》様がちゃちゃっと済ませてくれるはずだ。
そしてそれは、伊月顕がこの舞台に上がっている理由の喪失を意味する。
役が終われば役者は退場するが筋だ。
儀式核を持たない伊月に《クラッカーズ》たちと関わる道理はなくなる。日常以外の行き場を失って、奥入瀬牧が、伏人傳が、再編局がどうなったのかを知るすべもないまま、時間の鑢にゆっくりと削られていくのだ。そしていつの日か、ああそんなこともあったなあと回顧するだけの夢まぼろし。
そんな結末は断じて御免だった。
伊月顕は跳ね起きると、壁際まで距離をとって叫ぶ。
「───近づくな!」
何の意味もないとしても、どんなに無様でもいい。時間を稼いでやると決めた。
「やっぱり嘘ついてやあがったか、餓鬼め」
今の話を聞いて彼らの正気を疑うではなく、信じてその上で抵抗するということは奥入瀬牧に懐柔されているという判断になる。忌々しげに顔を歪める励威士を、忌々しいのはこっちも同じと伊月がにらみ返す。
額に青筋を浮かべていた励威士が、しかしふっと身体中に入っていた力を抜く。
「あの女に肩入れする理由はなんだ? 腕でも治してくれるってか」
返事を待たず、励威士が距離を詰めてくる。ギプスの上から伊月の右腕を掴むので身をよじると、その瞬間に分かってしまった。あっさりと手を離した励威士など気にしていられない。
ずっとつきまとっていた違和感が消えている。
───治っている。
治されたのだ。
儀式核が心臓を治したのと同じ、非現実的な恢復。改めて“何でもできる”という言葉の重さが身にしみた伊月は、しかし同時に別の思案に囚われていた。
こんなにあっさりと治せるなら、イツキに優しくしてくれていた奥入瀬牧がそうしなかった理由とは何だ?
考え惚けている伊月に大上段から励威士が声をかける。
「もう一月もないじゃねえか。何にせよ、これで理由はなくなったろ。どうだ、オイ」
反発心がわき上がる。
訳知り顔で適当なことを言いやがって。
何を知っているというのだ。お前たちが一体、何を分かるというのだ。
右腕なんてどうだっていい。イツキが牧に協力していたのはそんな見返りのためじゃない。
俺の理由を、お前たちが勝手に決めて勝手に奪うな。
右腕が震える。
怒りはある。けれどそのためではなく、恐ろしくて震える。自分で決めたことが恐ろしくて、それに耐えるために歯を食いしばった。
狙うのは一番堅そうなところ。壁を走る配管が曲がっていて補強された角がいい。
裏拳のかたちで振り回した右腕がねらい通り配管にぶち当たって、ギプスと一緒に右尺骨と右橈骨がまとめて砕ける感覚が神経を奔る。
「ぎ、───ッッ」
激痛は伊月の覚悟を上回った。
夏休みに折れたときの何倍も痛い。痛い!
食いしばった歯と歯の隙間から悲鳴代わりに肺の中の息がすべて吹き出す。
咄嗟に身構えていた《クラッカーズ》たちは困惑している。
彼らは伊月が逃げたり抵抗したりすれば取り押さえるし、自害するなら阻止するつもりだった。それらは予期できる範囲のことだから、いざそうなれば反射でも動ける。意味不明な自傷行為には虚を突かれて、何がしたいのか分からないからどうすればいいか分からない。
「───にしてんだ餓鬼」
やっと、それだけ言葉にできた。
ふ、と漏れたのは笑い。
どうだ。ざまを見ろ。
分かったか。
知った気になって偉そうにして、お前らにだって分からないことがあると分かったか。
「なくなって、ない、ぜ……」
「……何がだ」
「お前らに刃向かう理由、俺が牧と関わる理由……! 知ったフウに言いやがって、お前らが彼女の何知ってるってんだ! 大人しく言うこと聞くと思ったら大間違いだ、全力で抵抗してやる! 核は渡さねえぞ……ああクソ、痛ッてえなクソっ!」