Fire Cracker 02/09
雨は上がっていた。
ネットニュースの見出し一覧の中に、台風の第何号だかが接近しているというものがあった。大気が不安定に見えるのはそのせいだろうか。
───イツキの知らないこと。
奥入瀬牧の暮らしている団地には“正しい道筋を知らなければたどり着けない”結界が施されているが、この結界魔術は電波を遮っていない。これは完全な隠棲状態の伏人傳と、潜伏して儀式の準備を行わなければならない牧との違い。彼女は配下の“金言集”調整員───《クラッカーズ》でもない下っ端である───に指示を出して、儀式のために必要な工程をこなしていく必要があるため、いつでも連絡がとれるように意図された穴だ。
結果としてイツキのスマートフォンの位置情報は、電話会社にそれを請求できるような立場の連中がその気になれば筒抜けもいいところだということ。
───奥入瀬牧の知らないこと。
イツキが、県立絡川高校一年生の伊月顕であると再編局が知ったこと。
彼女はイツキの身柄を徹底的に隠し通した。時には《クラックワーク》を用いてまでの隠匿は、井澤渓介および餌木才一との遭遇以外では完璧に彼の素性を覆い隠した。
井澤渓介と接触した事実はイツキは失念させられていたが、彼経由でイツキの素性を知った治部佳乃は再編局と敵対し、拘束されて以降は黙秘を貫いている。
餌木才一と接触した事実は伝える機会を逸して───というよりイツキ自身がどたばたしていて半ば以上忘れているのだが───牧も知らないものの、知らないままに彼女の呪いにより才一は倒れて再編局残存メンバーと共有できずにいる。
知ることはできないはずだ。
そのはずだったのだ。
誰かが教えなければ。
イツキはありえない。《クラッカーズ》の伝手といえば傳と牧の他にいない。
牧もありえない。イツキに儀式核を預けていると喧伝し敵をおびき寄せるのは、彼女の中でリスクとリターンが釣り合っていない。時間いっぱい、儀式の準備ができるまで隠し通せば勝ちの試合でそんなことをする理由がない。
つまり、傳えるとすればあと一人。
結果論から言えば。
奥入瀬牧は、さっさと彼を殺しておくべきだったのだ。
イツキに疑われても恐れられても、それが一番確実だった。
歩いていると、イツキの目前に白いバンが急停車した。
勢いよく開かれたサイドドア、目にも止まらぬ速度でイツキに殺到するものがあった。
鎖だ。
敷島励威士の手繰る鎖。
それはイツキを幾重にも取り囲んで縛り上げようとする。それが中空で透明な壁に阻まれた。
不可視の障壁が鎖を弾く。それを破らんとする鎖がバチバチと溢れさせるは改変放電。
「しゃらくせェ!」
吼えた励威士、彼とイツキの間に立ち塞がる少女の姿があった。県立絡川高校のセーラー服を纏った、神出鬼没のあの少女だ。イツキからは横顔も満足に見えないがその表情は今まで見たことがないほどの焦りが色濃く表れている。
励威士の両手が鎖を手放す。
少女がハッとして振り返る。
励威士の両の拳が打ち合わされる。
───イツキく
両の拳が発した門扉の閉じるような重低音が少女を走り抜ける。《クラックワーク》によって何らかの意味を付与されていたその音に、彼女の全身がノイズにまみれて消え去った。
自律した鎖が守るもののないイツキを縛り上げる。
身体が宙に浮く。───縛っていた鎖をキャッチされた。
「儀式の保全機能風情が調子に乗るンじゃねえ。済んだから出せ!」
励威士の怒声よりも先にバンは急発進する。サイドドアが荒っぽく閉められる。
車中のイツキが何か一言喋る間もなく、ギャグを噛まされ、目隠しをされ、耳栓をされ、手錠をかけられる。
かくして再編局によるイツキ拉致計画は、目撃者を出すこともなく完了したのだった。
被害者たるイツキ自身は、どうやら牧の敵の《クラッカーズ》に捕まったらしいということしか分かっていない。不用意に刺激すればどうされるか分かったものではない。荒事になれていないイツキにできるのはただ震えていることだけだった。
大丈夫、牧ならばきっと察知して助けに来てくれる。信じて待つのが一番だ。
必死にそう考えるイツキは、肌に感じるバンの振動に走行速度が上がったのを感じた。市内を延びる高速道路に入ったらしい。薄層舗装で形成された段差で生じるリズミカルな振動が文字通り体感できている。
視覚と聴覚を封じられたなりに分かることは意外と多かった。バンの床に芋虫状態で転がされたイツキの脇を行き来する足音。ばたばたと走行中にしては慌ただしい。
イツキの予想通り、現在彼を乗せたバンは高速道路を走っている。再編局のアジトまでは距離があるため、不安はあれど背に腹は代えられないという判断だ。何より、もし拉致が敵方に露見し、追走劇や交戦する事態に発展した場合を考えるとそうする他はなかった。
一般道を使用するのは、周辺被害と隠蔽を考慮すると危険すぎる。
点火済みの爆弾のような女、その導火線に火を点けたのは他ならぬ自分たちだと考えると身震いしそうになる。
運転席の杜月杏は索敵も担当している。彼女が接近を知らせたことで後部座席に詰めた励威士が見たものは、空の彼方から飛来する一個の災害だった。
着弾、と形容するべき惨状が展開される。
人体があの速度で高速道路の路面に着地すれば赤いシミになって終わりだ。しかし《クラックワーク》で強化された人体はその衝撃に耐えた。彼女の身体強化は、肉弾戦の攻撃力に直結するよう“重くなる”強化である。余裕がある彼女は痕跡を残さないことを考えて、着地先の対衝撃性能を引き上げて事なきを得ていたが。
今の彼女にそんな余裕は皆無だ。
蜘蛛の巣状に走る罅は道路の底まで到達した。
───抜ける。高架線が崩落する。
地獄のようなありさまの中心で奥入瀬牧が絶叫した。
「返せ!!」
それは先刻、励威士が少女を打ち払ったのと同じだが規模が違う。やすやすと五十メートルを飛び越えバンを揺らす赫怒は、鼓膜よりも骨身に伝導する。
伝導して、聞こえた者を一人の例外もなく恐怖させた。
「返、せッッ」
砕けた破片の一つ、彼女の着弾の衝撃で浮き上がっていたバレーボール大のそれを殴りつける。木っ端微塵になって飛翔する散弾。
白刃、一閃。
人力で放たれた瓦礫弾のすべてが、白く輝く障壁に防がれる。
加賀美条が戦闘用に研ぎ澄ませた異能───《斬光》は読んで時の如く、光で斬り分ける。
真剣を振るう際の、白刃に反射する煌めき。それもまた彼は自身の斬撃の一部と見なすことで、そこに超常性を付与することを可能とした。“真剣で光を反射する”というアクションを前提として、射程の延長・斬撃の鋭利性の強化、そして今まさに行っているような“光を焼き付ける”という解釈を行うことで光の障壁を作り出すことも可能とした、攻防に隙のない能力。
障壁が薄れて晴れたとき、バックドアを跳ね上げて奥入瀬牧と対峙する加賀美条がそこにいた。
彼は待ち構えていた。解析・分析を得意とする励威士がイツキの担当となり、彼は襲来するであろう牧担当だったのだ。
残存する全メンバーを集結し、再編局はここで勝負を決める腹積もりだった。
牧がバンに猛追する。
生身である。
バンは時速百五十キロメートルを超えている。
追いつけるはずがないという常識を一歩で踏み砕く。ソニックブームをまき散らして弾丸《牧》が突き進んでくるのを、条は冷静に観察する。
距離。相対速度。走るフォーム。
───心臓の位置は、そこか。
彼のクラックワークの媒質は光。
こうして彼から奥入瀬牧が見えているということはつまり、光が届いていることの証左であり。
光に乗せて放たれた一閃は、光速で放たれた一閃となる。
どっ、と音を立てて、