Insomnia 09/09
はっ、はっ、はっ。
短い息が連続する。
あれは夢だ、そう言い聞かせる。
「……大丈夫か、牧」
傍らからイツキの声。そうだ、彼が居るのだと思い出す。いつものようにバスルームに駆け込むわけにはいかない。
ゆっくりと息を吐く。吸って、吐く。正常な臭いの感覚の上に、あらゆるものにぶちまけられたアクセントは催吐性か。猛烈な吐き気も、不規則に跳ねる心臓の脈拍も、異能にものを言わせて調律する。
気持ち悪くなくするのではない、苦しくなくするのではない。
気持ち悪くとも、苦しくとも、大丈夫なように。耐えられるようにするのが彼女のいつもの調律だ。
「───いつものことです。気にせずとも、落ち着きましたから」
イツキの曇っていた顔に陰がさす。少し思案して、
「俺、もう少し……」
「貴方は」
カーテンの隙間から日差しが入り込んでいない。時計を見ればやはりもうずいぶんと遅い時間、高校生であるイツキが補導されるまでそう猶予はない。
大人として決然と帰らせるべきだ。そう考える。牧はまだ自分にそんな社会通念といったものが残っているとは思わなかった。
「帰りなさい。私は大丈夫です」
きっぱりと声帯に拒絶の意を乗せて発する。聡いイツキに気づかないはずはない。
彼女は大丈夫なんてことはこれっぽっちもなくて、それはもう酷い状況だった。発熱や倦怠感、不整脈や吐き気に耐えられるようにした代償で、今も叫びだしたいくらいの激痛がガンガンと頭蓋骨の中を反響している。
《クラックワーク》行使の反動は《クラッカーズ》ならば誰しもが抱えるものであり、いつものことという言葉に嘘はない。ただ大丈夫ではないだけ。
大丈夫ではないけれど、さりとてできることはない。
《クラックワーク》で出来ないことのうちの一つに、《クラックワーク》の負荷を軽減したり、耐えられる限界を操作するというものがある。限界を省みず行使し続けて死んだ《クラッカーズ》も居るというのに、反動による頭痛は原因不明、如何なる手段によっても観測しえない幻痛なのだ。
《クラッカーズ》にすらどうにもできない苦しみを、イツキにどうにかできる手段はない。
どこまでいってもただの高校生、一般人に過ぎない。せいぜいが看病くらいだが、濡れタオルを換える程度は今の牧にも可能である。寝汗を拭こうと思ったら邪魔ですらある。
そう思っていたのに。
「……そうだよな。俺、帰るよ。親に連絡もしてないし」
その一言の何が障ったのか、カッと血が昇ったのは覚えている。
気づけば、ベッド脇で牧を案じていたイツキが彼女の下にいた。身体を勝手に動かしたのは、叩き込んだ戦闘技術に非ず。
衝動だ。
「鬱陶しい」
何を言っているんだろう、と思う。
ひとりでに紡がれる言葉に困惑しているのは牧もイツキも同じだ。どちらにも止める手立てがないことも、また。
「何かの役に立てるつもりでいるのですか。貴方ごときに」
男性とはいえ未完成の肉体、いとも容易く組み伏せられる。驚きこそあれど抵抗のそぶりは見せないのも悪い。そんな顔をされたら、たまらなく───
───ころしてしまいたく、なる。
「馬鹿じゃないんですか。私は《クラッカーズ》、貴方など居なくとも何だって出来るんです」
「俺は───」
開いた口を口で塞ぐ。今は何も言われたくない、聞きたくない。
念ずるだけで部屋の明かりを消す。
真っ暗闇にカーテンの隙間から雷光が切り込む。
時折垣間見える奥入瀬牧の裸身を見上げながら、イツキはずっと考えていた。
どうして彼女はあんなに苦しげな顔をしているんだろう。
どうして彼女の瞳はあんなにも冴え冴えと澄んでいるのだろう。
普段の彼女は、頬は紅潮し瞳は潤んでいる。
だのにどうして、今だけ、こんなことをしているときばっかり、底冷えのする冴えた瞳と、血の通っていないようにすら見える頬。
どうしてだろう。
どうしてだろう。
───奥入瀬牧について何も知らないのだと、イツキはそうやって一晩かけてじっくりと、思い知らされていくこととなる。
◇◇◇
───同刻、オーバードーンのロフト。
完全防音室での処置を済ませた伏人傳は、それから一心不乱に何かを組み立てていた。
辻占でカンニングした設計を元に、試行錯誤を置き去りに。必要最低限の“知っている”作業だけを費やして。
───それがこの瞬間、完成した。
仕掛けは上々、術理は万全。燃料補給もしてあるから、あとは騒ぎに乗じてぽちっとやれば、
明日は一日雨、時々大きな花火が上がるでしょう。
伏人傳は小さな機器を天井のランプに翳して、
「ひは」
笑った。