Insomnia 08/09
───夢を見ている。
泥黎の夢だ。
血と腐肉と膿の中でもがき苦しみ這い出ようとかき分ける夢。
やがて自らこそがその汚濁の根源であると悟る夢。
───呪いの夢。
奥入瀬牧という小我にとって夢は当たり前のもの、日常茶飯事。
入眠中に限った話ではない。
謂わば、彼女の世界観にかかる視覚処理のようなものなのだ。彼女にとって世界とはつまり呪いに満ちた世界であり、彼女にとって生と病は等しいものであり、寝ても醒めても彼女に休まるところなどありはしないと、誰より彼女が一番そう思っている。
安息など決して訪れない。《クラッカーズ》でなければ、とうにその命を終えていただろう。
世界は常に血色に塗れているか死の脱色にくすんでおり、膿の臭いが充満し、その手は罪に穢れているから他者との接触はできる限り避けるべきと断じている。この手で触れたいなどと、関わりたいなどと、己を弁えるべきだと常に考えている。
夢ではそんな自罰的な深層心理が理性に抑制されず、原色の奔流で叩きつけられているだけの違いしかない。
夢の構造はいつもおおむね同じである。寝入った瞬間を起点として、原点へと遡っていく巻き戻し。血の濁流に追いやられるようにして時間の奔流に弄され、あちらこちらへとフラフラと記憶を彷徨い、けれど排水溝へはいつか絶対にたどり着くイメージだ。
排水溝。行き着く先。原点。
つまり、その瞬間へと。
螺旋を描いて落ちてゆく。
呪いへと。
餌木才一は死んだことになっている。あくまで彼女の主観では、だが。
彼女は彼が《クラッカーズ》として開花したのを知らない。自己認識に干渉して、“自分自身のイデア”からコピーを作り出すという危険極まりない《クラックワーク》を想定できていなかった以上、あの一撃で死んだと考えるのはそう的外れなことではない。彼の状況は、牧の予測よりも少しだけ成長したためになんとか崖っぷちに指一本かかっているだけ。
存在に絡みつく病の呪いは、気化したものを吸い込む程度の微量ならば体調不良で数日寝込むだけで済むだろう。だが、生き血を杙創から取り込んでしまえば、常人なら即死の致死量。《クラッカーズ》とて永くは保たない。
彼は死ぬ。もうすぐ死ぬか、もう死んだかの違いでしかない。
そしてそれを成したのは奥入瀬牧だ。
彼女には人並みの常識と倫理観と、罪悪感がある。餌木才一、未来と正義感のある若者をその手にかけたことは赦されざることだと確信している。
ならば、彼女の呪いの根源とはそこか?
否。そうではない。
確かに彼女の手は血に塗れている。それは才一だけではなく、敵対関係の中で殺さねばならない瞬間を彼女は幾度も潜り抜けてきた。償いようもない罪はしかし本質ではなく、道行きを血に染めるだけの飾りでしかない。
彼女の呪いは、彼女の始まりにある。
では始まりとはどこか。
奥入瀬牧は立ち返ってゆく。
原体験へと。
奥入瀬牧は父親を知らない。
物心ついたときには既に家を出ており、彼女はずっと母親を二人で暮らしていた。
そんな日常の中で、母親は、奥入瀬牧を愛さなかった。
母親が愛したのはただ一人、彼女の元を去った男性のみであり、
母親が心底憎んだのもまた、彼女が愛した彼のみだった。
牧はしばしば殴られた。理由のほとんどは言いがかりだったように今にして思う。何かをするたび、場合によっては何もしなくとも居るだけで、母親は“あの男”を思い出してはヒステリックに泣きわめき、牧を徹底的に詰り、罵り、否定して殴りつけた。
牧はそのすべてを“そういうものなのか”と思い、受け入れ受け止めた。あるいはその時点で、彼女の才は目覚めていたのかもしれない。母親の暴行に耐えられるように密やかに肉体を変化させていた可能性は十分にあるが、しかし、それを確かめるすべはもうない。
幼い牧は身体的虐待を生き抜き、そして幼いなりに考えた。
おかあさんが言うならばそうなのだろう。おかあさんの言うとおりで、わたしには“あの男”の血がはんぶん入っているから、だからおかあさんはわたしがきらいなんだろう。
……でも、じゃあ、どうすればいいんだろう?
おかあさんは“あの男”が好きじゃない。はんぶん“あの男”なわたしも好きじゃない。
なら、ぜんぶおかあさんならいいんだ。
そう結論づけた。
甘かった。
奥入瀬牧の五歳の誕生日に、母親はマンションのベランダから飛び降りて死んだ。
彼女は最期にこう言い残した。
「あの男の血と、あたしの血が混じってるなんて───あんたは何て気持ち悪い」
その言葉は、今も奥入瀬牧の中でリフレインしている。
───呪いだ。