Insomnia 05/09
───夢を見ている。
泥黎の夢だ。
血と腐肉と膿の中でもがき苦しみ這い出ようとかき分ける夢。
やがて自らこそがその汚濁の根源であると悟る夢。
───呪いの夢。
◇◇◇
伏人傳はオーバードーンがセーフハウスと言った。それは事実であるけれど、不足ない説明とは言い難い。
実態はより巨きく、深く。
オーバードーンが入っているビル、一棟まるまる全てが彼の所有物であり、内部には各種設備が揃っている。その気になれば内部で十年だって暮らせる完結度は、魔術師が籠もる蔵にも匹敵するだろう。
ビルのテナントであるオーバードーンはあくまでも表向き、外向けの顔でしかない。なぜ敢えて廃カーディーラーを装ったのかと問われれば、彼はこう答える。
───クルマが好きなんだ。
───それに、廃墟ってオトコノコだろう?
その、とある一室。
完全防音を施された室内には手術台が設置されている。その上に“金言集”の《逃がし屋》井澤渓介が俯せに寝かされ、四肢を厳重に拘束されていた。目隠し・猿轡・耳栓までされている徹底ぶりだ。
まだあれから半日といったところなのに、彼に植え付けられた《虫喰み》の短刀の侵蝕は見て分かるほど進行していた。すでに下半身は人間としての原型を留めていない。ズボンを突き破って複数の肢が生え、尾がびたびたと手術台を叩いている。
上半身にも《虫喰み》の魔の手は伸びており、半透明の葉脈のようなものがあちこちでびくん、びくんと脈打っている。傳が発砲した両手の傷跡は存在するが、穴は半透明の肉腫で塞がれていた。
総じて悲惨。《虫喰み》を引き剥がせたとして、ここまでいいようにされた後遺症は完全に癒える保証など到底できない域に踏み込んでいる。
そこに、気密ドアが開く音がした。
彼の身体がそうなるよう仕向けた元凶、傳が室内に入ってきたのだ。
ドアをしっかり閉めると耳栓、目隠し、猿轡と順番に解いてやりながら観察する。真っ黒だった瞳の色も変異しつつあり、食いしばる歯は運び込んだときと比べると鋭さを増している。この様子では脳まで侵蝕が達しているか五分五分と言ったところだろう。
順調だな、とひとつ頷く。
「……なにが……目的だ」
「喋れるのか」
それなら罵詈雑言でもぶつければいいものを。俯せで不自由な渓介と目線が合うように正面にしゃがみ込む。
のぞき込んだ彼の表情は苦しげだったが冷静に見えた。
「俺の目的はもう知ってるだろ、《バガー》だよ。お前さんが邪魔してくれたお陰でいま手元にはないけどな」
「ハッ……ざまあみろ」
「強がりを。嫌いじゃあないぜ、そういうの」
狂いそうなんだろ。そう笑いながら渓介の肩に生えた瘤を針で突く。ぷしゅっと音を立てて弾けたそれから芽が出てきて、渓介はぎりぎりと歯ぎしりをする。激痛が走っているのだ。
「手伝えよ。《バガー》を奪い返すんだ」
「ここッ……までのことをして、手伝うと思うか?」
「逆さ。手伝わせるためにここまでしてんだよ」
何を馬鹿なことを、と思う。
《逃がし屋》として彼は治部佳乃を逃がすことを請け負ったのだ。一度請け負った以上は責任をもって取り組み果たすべきであり、信頼に繋がると考える責任感よりももっと根源的な理由がある。
彼女との約束を果たしたかった。
彼女が悪人なのは知っている。伏人傳や再編局に狙われるのは無理もないと思うが、そんなことは感情の前には無意味だ。一度「助ける」と契約したのだ。それを果たせなければ、いったい自分は何のために存在するのか分からなくなる。こうして侵蝕されることよりも、その方が彼のアイデンティティを脅かす。
彼が《逃がし屋》なんて損な仕事を好き好んでやっているのは、つまるところ、どこまで行っても自分のため。あの日彼が助けられなかった、手をひいて逃がしてやれなかった“あの子”の代わりに、今度こそ、
「助けたいんだろう?」
その願いを叶えてやる、と男が嗤う。
「状況は整えてやる。再編局にとっ捕まってる《バガー》を助けたいのは俺も一緒だ、仲良くやろうぜ」
───いつの間にか、室内の明かりがほとんど切れている。
───残ったものも明滅して、よく分からない。
───それでもかれが嗤っているのはわかる。
───ひとみが、硫黄色にもえているから。
「何も特別なことをしろってんじゃない。いつも通りやればいいのさ。───治部佳乃のところに行って、彼女を連れて、逃げる。それだけだろう?」
何がなんだか分からないが、それならいいはずだ。
身体を駆動させる。
一般的には、それは“頷く”という動作だった。
「契約成立だ。その身体だと不便だろうから、ちょっと改造するぜ」
構わない。それで使命を果たせるなら。
もう一度頷く。
男の嗤いが一段と悪意を増す。
その手が伸びてきて、
───人間を辞めるものの断末魔が、完全防音室の壁に吸い込まれて消えてゆく。
◇◇◇
「出れねえ、だア?」
「はい。現在、瓦木市は完全に封鎖されてしまっています」
再編局の拠点たる廃ビルに戻ってきた敷島励威士と加賀美条。彼らを待っていたのは、戻っていた杜月杏のそんな言葉だった。
索敵と感知に長けた彼女ならば追跡されることはあるまいと判断していたが、敵の一手はスケールから違っていた。
顛末はこうだ。
治部佳乃を拘束し、杏は指定地点に向かった。特に尾行などもなく、移送自体は順調だったという。しかしある地点から先にどうしても進めない。正確には進もうと思えない。進もうとする意思自体が挫かれていると感知できたのは知覚に特化した杏だからこそ。瓦木市外で待っていた本部エージェントに至っては、連絡してどんなに説得しても“瓦木市に向かおう”という思考すらできないようになっていた。
出入りを禁じる大結界。
つまり裏切りと負傷で欠員二名の再編局チームに対して補充は見込めず、その上で佳乃は確保し続けなければならない。
ただでさえ現在、“金言集”は国内の複数都市で瓦木市と同様の大規模な儀式を実行しようと活動している。受け渡しすらギリギリだったところにこの壁は、もはや絶望的な状況だった。
「……最悪の場合、治部くんは現場の判断で処断することも考えなければならない」
彼女の拘束に割ける人員はない。かといって逃がすわけにもいかない。彼女の作り出した《虫喰み》がこれまでに複数人の人命を奪ってきたことを鑑みるに、本部に移送しても内部死刑は免れない。───人知を越えた《クラッカーズ》は法治から逸脱する。加賀美条のような立場にある《クラッカーズ》は、個人の判断で“国家の敵”を殺処分する最終決定権を与えられていた。
しかし、それでも。
それが正しいこととは、加賀美条には確信できなかった。
「……少し考えさせてくれ」
現状、再編局側も“金言集”側も互いの拠点を把握できていない。佳乃をアジトで匿っている以上、判断を先延ばしにしても問題はない。
「その大結界は現状どうにもできないでしょう。儀式をぶっ潰せば連動して壊れることを期待するっきゃありませんね」
◇◇◇
再編局の三人が治部佳乃の処遇について話し合っているころ。
当の彼女は階下の一室で倒れ伏している。
手足の腱を切断されて動けないようにされ、胸を貫かれている。眼球にも一閃を受けて視力も奪われた死に体だ。
それでも何とか生きている。不得意な生体干渉の《クラックワーク》で必死に延命し、治療し、再起できるまで回復するころにまた加賀美条がやってくるのだろう。そしてギリギリ死ぬ程度に痛めつけられて、また同じことを繰り返す等活地獄。
痛く苦しいループを、しかし彼女は何が何でも耐える。
このままで終わるものか、と思っている。
まだ終われない。
まだ確かめていないことが残っている。
まだ叶えていない夢がある。
だから安らかに眠ってやることはできなかった。眠れば《クラックワーク》は途切れ、重傷の彼女はそのまま目覚めることはない。
夢にかじりついて、眠りを拒み、治部佳乃は命を繋ぐ。