Insomnia 04/09
「……ここか」
伏人傳から聞き出した住所。そこにはおんぼろの団地があった。
ここが奥入瀬牧のセーフハウス。
スマートフォンの地図アプリには不慣れなので多少迷いはしたが、着いてしまえばあっさりとしたものだ。
何か手土産の一つでもと考えはしたが、イツキの高校生相応のお小遣いでは果物盛り合わせなど到底買えはしない。彼女がそんなものを貰って喜ぶような気はしなかったし、邪魔になっても悪いしで、彼は手ぶらだ。
……ここまで来て急に、その判断が誤りだったような気がしてくる。
何か見繕おうにも住宅街にそんな小洒落た店はない。帰りたい。
落ち着け。帰ってどうする。
どうせ牧の安否を確かめなければ何も手につかないのは目に見えているんだ。手土産がないのが何だ、彼女だって別に期待なんかしてないだろう。守ってくれたおかげで無事だったよありがとうと元気な顔を見せてやれ。
右肩に力を入れる。
その力を抜く。
左肩に力を入れる。
その力を抜く。
ぐるぐると回り始めた思考を追いやるためにルーティーンを繰り返す。
ふと、あのとき───奥入瀬牧と初めて出逢った日のことを思い出す。あのときも同じルーティーンをしていた。ずいぶん前のことのように思える。すっかり忘れていた。
笑ったら緊張がほぐれて、自然と行こうという気分になれた。
奥入瀬牧の部屋を探すまで一人たりとも団地の住人を見かけなかった。
三四四号室の表札もなにもない、簡素なドアの前でひとつ息を吸って吐く。
呼び鈴を押した。ドア越しに向こう側で鳴っているのが聞こえるほど、一帯は静まりかえってイツキは集中している。
しばし待つ。
奥入瀬牧も、他の誰も、出てこない。
居留守だろうか? それもあり得る。
高校の先輩に紛れていた《クラッカーズ》のような、彼女にとって敵対関係にある人間が存在することをイツキはすでに知っている。ここにいるのがイツキだと確証がなければ開けてくれないかも。
もう一度呼び鈴を鳴らし、「俺だ、イツキだ。牧、いないのか?」と声をかけてみた。
やはり出てこない。
急に心配になってくる。
傳は見舞いにいってやれと言っていた。あの男の言葉をどこまで信頼していいかは分からないが、もしかすると。もしかすると、彼女は室内で倒れていて、出てくるどころか返事もままならない状況なのではあるまいか。
どうしよう。
スマートフォンを取り出す。110番、いや119番か? はやる心を叱咤する。腕を切断されたときも彼女は嫌がった、彼女は通報されれば困る立場だ。
ドアを叩く。どうせ周囲には誰もいないのだ、人目をはばかっている場合ではない。拳で何度も叩き、ノブをガチャガチャと、
開いた。
───鍵がかかっていない。ではチェーンがかかっているということもなく、引くと素直にイツキを迎え入れる。
「おい、おいおいおい」
いくら何でも不用心だ。《クラッカーズ》とはいえ妙齢の女性だし、寝入っている間は無防備だろう。戸締まりくらいはすべきだ。今回は幸いだったが……。
中に入る。
一応鍵をかけて、「牧、俺だ。イツキだ。入るぞ」と一声かけて靴を脱ぐ。
廊下を歩きながら、イツキはここに至って彼女の不在を疑い始めていた。
鍵がかかっていなかったのは出がけにドタバタしていて忘れていただけで、あれだけ呼びかけて応答しなかったのも居ないと考えれば筋が通る。きっとそうに違いないと、イツキは遅刻しそうになって慌てて出かけていく牧を想像して小さく笑った。似合わない。
つまり、それは油断だった。
もう終わったと思い込んでいる階段にまだあと一段残っていてつんのめるような、そこに“ある”ものを“ないに違いない”と思いこんでの一歩。
廊下の先のドアを開けて、ミニマリストみたいな部屋に入って、そこで奥入瀬牧がちょうど肌着をまくって大事なところが見えそうになってていやあっち向いてるけどカーテン閉め切ってて真っ暗だから大して見えないけどいやでも肌真っ白だし背中綺麗だしつーっと流れる汗がやけに目を惹くし───
思考がオーバーフローしたのはイツキが先だったが。
熱が上がったのは奥入瀬牧が先だった。
状況が把握できずにいた彼女の目がぐるん、ひっくり返ると同時にその身体から力が抜けてベッドに倒れる。
「あっ、おい!」
できる限り見ないよう触れないようにまくれ上がった肌着を戻してベッドに寝かせようとする。力が抜けた人体に悪戦苦闘しつつ、支える手に感じる女性の肉感を必死に振り払う。やめろイツキ、お前は今、救護活動をしているんだろう、劣情なんかない、やめろ、柔らかくない、断じてそういうんじゃない。
……奥入瀬牧をベッドに寝かしつけたころには、イツキはそれはもう、すごいことになっていた。
きっと、間違いなく、今夜は夢に見るだろう、と思った。