Insomnia 02/09
すったもんだの末に、住所を頭から尻まで口頭で読み上げさせてイツキは引き上げていった。
ロフトの窓から彼が完全に見えなくなったのを確認すると窓を閉める。暗幕のような遮光カーテンまでびっちり閉じる。
伏人傳が向き直ったロフトは数時間前からずいぶんと様変わりしていた。
ただでさえ物の多いロフトに、さらに雑然とひしめく代物たち。
まず目につくのはそこかしこのラジオ、ラジオ、ラジオ。古めかしいものから最新機種まで節操なく、床に輪を描くように並んでいる。どれも違う局の周波数に合わせられて流しっぱなしだが、音量はゼロになっている。
ラジオの輪の中心には厳めしい椅子が設置されている。ちょっとやそっとでは小揺るぎもしない重量が担保されたそれは、ハンドレストとフットレストに革のバンドがついている。もう少しオシャレなら高級マッサージチェアに見えただろうし、もう少し血生臭そうなら電気椅子に見えただろう。
椅子の脇にはサイドチェストが置かれ、その上には水の注がれたコップとタブレット。椅子を挟んで反対側には床に直置きの金盥。病人のベッド脇のような取り合わせだ。アナログ式の置時計は、針が十七時ちょうどを指したまま止まっている。
そしてロフトの空きスペースにはこれでもかと音楽再生機器がひしめいている。オーディオセット、テープレコーダー、ラジカセすらある。ラジオと同じく、どれも再生状態のまま音量はゼロで共通していた。
デスクの上にはイツキも依然見ているレコードプレイヤー。
傳がそれに針を落とす。するとどういう仕掛けか、それを皮切りに消音だったすべての音は解き放たれ、ロフトは耳を塞ぎたくなるような不協和の爆音に満ち満ちた。
「 」
傳が何事か呟いたようだが、その声は周囲の音に紛れて聞き取りようもない。
彼は苦笑すると、大仰な椅子に身を沈める。
両足を革バンドで固定する。動かしてみてびくともしないのを確認する。
左手も同じようにして自由になるのは右腕だけだ。そちらも拘束してしまう前に残りの工程。まずは置時計の時針を進める。サイドチェストから極彩色のタブレットを摘み上げる。未知の新元素をじっと眺める研究者のような目を向けると、ぺいっと舌の上に投げ込む。唾液で溶け出す前に水を一気に呷る。
右手、革バンドを固定するのは《クラックワーク》だ。これで準備は整った。
───辻占。
古来は四辻を行き交う人々の会話に耳を立て、聞き取れた断片から行く先を呪う占術。伏人傳は行き交う人々をラジオ放送と無数の楽曲で代用していた。夕占と呼ばれるそれは逢魔時、人と人の区別をなくすマジックアワーの魔力を借りて行うのが通例だ。まだ昼過ぎのこの刻限で敢行するのに気分だけでもと添えられた置時計とカーテンは果たして助けたりえるのか。
音の洪水の中で、ふと傳の嗅覚は埃の匂いを感じる。
来たな、と彼は身構えた。摂取したタブレットの薬効は精神の拡充と感覚の鋭敏化だ。感覚器官が受容できなかった域の階下の匂いがそれと分かるようになったのはつまり、成分が吸収されて脳に届きつつあるということ。閾値を越えれば───
伏人傳の身体が跳ねた。
椅子から致死量の電流を流し込まれたように、上へ上へと逃れるかたちで身体を仰け反らせる。両手両足の拘束具がなければ七転八倒間違いなしの暴れよう。見開かれた目、瞳孔が目まぐるしく散大と収縮を繰り返す。薬効と肉体とがせめぎ合っている。
───薬効が勝った。瞳孔、極限まで散大。
食いしばっていた奥歯が砕ける激痛すら余すところなく神経へ伝達される。
そして、拡充された精神にすべてが流れ込んできた。
───県立絡川高校では複数の生徒が体調不良を訴え
───それでは次のリクエスト、
───君を失うことに耐えられない
───Wow Wow Wow
───で発生した台風六号は
───あの日みた景色
───新しい私
音、
音、
音。
視覚聴覚嗅覚味覚触覚霊覚エトセトラエトセトラ。現行人類では存在することすら知らない感覚まで根こそぎ強制的にこじ開けて情報をかき集めているのが理解できる。そのすべて、感覚器官の暴走すら補って余りあるほどの肥大した精神。自分が知り得ていること、自分の最終目標、自分の知りたいことを整理する。
疑問を思いつくまま叫ぶ。答えは世界に溢れているのだからそれをありのまま聴けばいい。一音一音を拾っていって繋ぎ合わせれば、ほら、それが答え。
どうすれば見つかる確率が高まるか。
どうすればこのゲームに勝利できるか。
どうすれば命題を果たせるのか。
どうすれば……。
───伏人傳の肉体がまったく停止したまま、十四秒が経過した。
比喩ではない。呼吸も、脈拍も、脳細胞にすらも動くものないままだ。
瞳孔散大、脈拍停止、その他どこをどう切り取っても肉体的死を迎えたと判断することは誤りではない。
彼はいま脳よりも奥の奥、意識の高みにして肉体の底で、不可視光色の夢を見ている。
この世のすべてを、彼は見た。
この世の果てに飛び出して、彼は見ていた。
過去・現在・未来、因果の糸がもつれ絡まり綾織りなして神経となり、誰かが付与した意味が走るパルスとなる。世界そのものの思考を傍観、そこに乗りかかって悪巧みの青写真を描き上げる。骨子はすでにある、パーツをかき集めろ。神を宿らせるのだ。
───完成した。
すでに彼の意識は世界の外側に追放されつつある。
縁が切れるまでに戻ってこなければ、彼の死したる肉体は真に終焉を迎えるのみだ。
海の底から急浮上する感覚。
あるいはカンダタを釣り上げる児戯。
乱れる認識の端々を無数の幻視が通り抜けてゆく。
───竹林に雨。
───輝ける八ツ禍。
───墜ちる星と死する海。
───大払暁。
───竜と少女。
───そして、涯ての上の一軒家。
「───ぶああっ!!」
伏人傳の肉体と魂が結線された。
えび反りだったのが背もたれに墜落する。全身滝の汗だ。荒い息。
と、またぞろ薬が回ってきたかのようにガタガタと震え、暴れ始める。いいや違う。そうではない。口から溢れそうになるものを必死に堪え、手で押さえようとして革バンドに阻まれている。
四肢を拘束するバンドを断ち切った。乱雑な、加減に失敗していれば手首足首ごとぶった斬っていたであろう《クラックワーク》だが、今の彼にそれを気にする余裕などどこにもない。転がって金盥をかき抱き胃の内容物を思う存分ブチ撒けた。
胃の中で嵐を飼っている気分。頭蓋の中で飼っているのは爆撃だ。
そうしてしばらく胃酸の臭いを堪能して、落ち着いたと思ったらまた波が来る。
吐いて吐いて吐き尽くして、やっと人心地ついたころにはレコードは止まっていた。連動するよう設定していた各種再生機器の音量もゼロになっており、ロフトは静まりかえっている。
「やれやれ……。もうそんな経ったのか」
あのタブレットを使うといつもこうだ。普段は《クラックワーク》で変調をある程度コントロールできるがそれでも向こう二十四時間は食事が不味くなる。そんな劇薬を、能力抑制の呪を受けたほとんど生身で扱えばこうもなろう。
座り込んだ傳が見ると、遮光カーテンの向こう側からは西日が射し込んでいた。