Curse Of Mine 05/08
「さて」
───最悪だ。
「さて、さて、さて」
伏人傳がゆっくり円を描くように歩いている。
「逃げないのか? 《逃がし屋》井澤渓介」
名前まで割れている。渓介は怯んでいるのを押し殺す。
県立絡川高校の第二校舎と第三校舎を繋ぐ渡り廊下上。
治部佳乃の元から去った彼は、決して見限ったわけではなかった。佳乃が追い詰められたところに加勢───乱入ともいう───して、有無を言わさずに転移で救う腹積もりでいた。彼女とて命を奪われるか否かの瀬戸際に抵抗することはないだろうとの目算だ。そのとき彼女と戦っている者には面が割れてしまうが、やむを得ない。
だから彼は佳乃との拮抗状態にさせるために、再編局員が単独ならば彼女のところへ通す腹積もりでいた。チームで動いているという彼らなら全員揃わなければそこまでの脅威とはなり得ないだろうと考えていたのだ。
つまり例外は二人だけ。そのチーム全員を敵に回しても支障ない《カース・オブ・マイン》奥入瀬牧。そして、傳。
傳は牧ほどに強くはない。むしろ、再編局エージェントたちを含んでも《クラッカーズ》としては下から数えた方が早いだろう。彼を警戒する理由は強弱とは別種だ。
けれど、だから、こうしてこの男が真っ先に佳乃を狙って襲来したのは最悪だった。
通すわけにはいかない。《逃がし屋》としての沽券に関わる、と本人は考えているが、果たしてそうなのか。
契約違反と見限っても許される状況で未だ依頼人を切り捨てられないのは、単に渓介の甘さ故だ。そうやって自分を納得させられるような人間性なら、最初からこんな仕事などしていない。一度気にかけた相手が知らないところで死んでいるのは心苦しいなどと思ってしまうのは、《クラッカーズ》として致命的な人間性。
「まア、どんな心境の変化か、なんてのはどうでもいいけどさ。通してくれるか、今日はお前に用があるわけじゃないんだ」
「通すと思うか」
「律儀なこっちゃな」
「お前こそ、またどこぞへ放逐されたいのか」
「さてな。一対一なら、また同じ顛末になるかもな」
分かっている。大型《虫喰み》が争点となった月曜夜とは違い、今の争点は間違いなく《バガー》治部佳乃だ。再編局も“金言集”も、誰も彼もが彼女を狙っている現状で長いこと傳に拘泥すれば、《カース・オブ・マイン》の手から佳乃を逃れさせることができない。それでは困るのだ。
だから今度は容赦をしない。
以前にこの男が披露した魔術は『逃げよう』という意思を封じるものだった。結構だ、戦う意思は奪えまい。
この男を殺す。
どこでもいい、20メートル下に転移させてやればいい。土と混成させてぐちゃぐちゃにして即死させてやる。
接触式ショートワープを二連続、自分自身を傳の背後に転移させて、次いで傳を地下に転移させればそれで終わり。
───終わりのはずだったのに、渓介の手は何か別のモノに触れた。繊細な空間転移は、対象指定を狂わされて発動に失敗する。
「……っ、何だ!?」
「言ったろ、『一対一』ならって。ったく余計なリソース使わせやあがって」
伏人傳の左腕、獣のタトゥーが展開している。
剥がれ、浮き上がり、空中に陣を描く。円の中により小さな十二の円の魔法陣。
小さな十二円の一つから、何か半透明の触腕が生えていた。
それが姿を現す。治部佳乃が《バグ・バグ・バグ!》で作りだした《虫喰み》、その子個体だ。
「あの夜捕まえた《虫喰み》が一体。これで二対一だぜ、《逃がし屋》」
「…………ありえない」
《バガー》は性質上、佳乃のように“金言集”にやってくることが多いので、渓介も多少なりともどんな連中か知っていた。彼らは自作の《虫喰み》には主従契約をデフォルトで組み込む。自らの“作品”にこだわりがあればあるほど、命令系統の簒奪など許すはずもない。
「ありえない? 舐めたこと言ってんなよ。こんなもんは序の口だろう」
お前は《クラッカーズ》だろう、条理をねじ伏せ道理を押しのけ真理を己が手に掴む存在だろう、なれば不可能など口にするものじゃあない。そう嗤う目前の男が、理解の及ばない化物に見える。
理論上は確かにそうかもしれない。《クラッカーズ》には無限の可能性があるかもしれない。けれどだからといって、誰もそこまでしたいとは言っていない。神の如き全能になど至らずとも、ただ目の前のものを守れればそれで……。
「そんなだから」
伏人傳が左手を伸ばす。
絡みつく《虫喰み》が変形していく。刃を象る。
「お前はここで終わるのさ」
◇◇◇
「く、おっ……!」
目前の《虫喰み》一匹で手一杯だ。元凶たる《バガー》が足止めでも命じたのか、こいつだけは餌木才一と相対してこの場に釘付けにしている。
彼は切れた頬の出血を拭う。
手が足りない。
何もかもが不足している。
状況が分からない。今の彼に分かることと言えば、県立絡川高校の敷地内に大量の《虫喰み》が発生したこと、それらがギプスの少年を狙っているらしいこと、どうやら彼が《カース・オブ・マイン》の関係者らしいこと。その程度だ。
彼を保護しなければいけない。
彼だけではない、校内の生徒も教員も全員守るのが再編局としての務めだ。
《虫喰み》を殲滅しなければならない。しかし彼の力量では、目前の一体だけでも防戦がやっとだ。
《バガー》はここにいるのだろうか? そうだとしたらソイツも止めなければ。
手が足りない。
どうすればいい?
足りないなら増やせばいい。
「───ああ、そうか」
餌木才一が一人だけでは手に負えないのならば、餌木才一を増やして背負えばいい。
保存しておいた“愛用する日本刀のイデア”をビニール傘に貼りつけて武器にしているように。
“餌木才一のイデア”をこの場で確立すれば同じことができる。
新しい《クラックワーク》を構築するような時間はないが、同じこととはいえ負荷は日本刀の比ではない。大脳新皮質が悲鳴を上げ、眼窩と鼻腔からは赤い体液が堰を切ったように流れ出す。
世界が歪む。
───堪えた。
改変放電が走り抜けた後には八人に増えた餌木才一たちがいる。
《虫喰み》は混乱しつつも飛翔して突撃する。それを才一のうちの一人が全力で食い止める。その隙に二人がかりで羽を切り落とし、あとの全員で放った突きが息の根を止めた。
「まず、一匹!」
知らず止めていた呼吸を再開する。口の中が鉄っぽかった。
休みたかったが、この状態をいつまで維持できるかも分からない以上甘ったれたことは言っていられない。今はハイになっているから持続しているが、それでも頭痛が止まらない。思考している自分は“餌木才一”だが、隣にいるのも“餌木才一”だ。どちらがオリジナルなのか、オリジナルでない“餌木才一”が消えるとき、それは死ではないのか、考えるな、その思考は危うい、自己同一性を見失えば───
「今すべきこと。《虫喰み》を斬る」
「校内の人たちを守る」
「《バガー》を探し出して、止める」
「ギプスの彼を見つけだす」
「師匠たちに知らせる」
代わる代わるに才一が発話する。
これでいい。やるべきことに集中すれば、「自分が誰か」なんて問いから意識を逸らせる。
幸か不幸か、やるべきことは持て余すほどにある。
彼らは互いに頷くと、四方八方へと散っていった。