Curse Of Mine 02/08
治部佳乃は二日前、月曜深夜の会話を想起する。
「───じゃあ、そのギプスの子が《カース・オブ・マイン》の……」
『そういうことだ。ったく、これで満足したか』
井澤渓介の電話越しの声には色濃い疲れがにじんでいた。当然だ、依頼人たる治部佳乃が唐突に『再編局からの足抜けを待って欲しい』などと言い出したのだ。
冗談ではなかった。《逃がし屋》として何件もの仕事を熟してきた経験上、渓介が依頼人と接触したらなるべく早く組織を抜けるのが良い。接触期間が長引けば長引くほど、逃亡に勘付かれて阻止されたり、逃げ切ったと思っても追跡されている可能性が上昇する。依頼人と後日連絡を取ってみたら音信不通というパターンは、出来る限り避けたい。
彼女もそれは聞き及んでいる。だというのに「最長で《カース・オブ・マイン》事件が解決するまで」と頑なに主張するものだから、渓介は持て余していた。
契約違反で見限ってもいい案件だ。けれどそうしなかったのは、彼がそうできる人間性をしていなかったから。そんな人間だったなら、最初からこんな仕事を生業にしてはいない。
根負けした渓介は、『ならさっさと解決できるように』と、イツキの情報を提供したのだ。
「うん、ありがと。じゃああと二日だけちょうだい。また連絡するね、それじゃ」
会話はそうやって終わった。よく覚えている。
二日と言ったのには理由がある。
《カース・オブ・マイン》の行方を調査するフリをして、イツキの身元の調査に半日。
彼の通っている高校での下準備にさらに半日。
そうして今日一日で、この好奇心に決着を付けて、逃げる。
───《虫喰み》が儀式核を捕食したら、どうなるのか。
「どうなんだろ。私の願いを叶えてくれる《虫喰み》になるのか、単純な燃料に変換して急成長するのか。まさか《虫喰み》が自分の願いを叶えるってこともあるかな。でも、《虫喰み》の願いって何なんだろ」
彼女がこの街に留まっているのは、その疑問の答えがどうしても確かめたかったからだ。ひとたび疑問を抱いてしまったら諦められない。止まれない。確かめずにはいられない。
逃亡依頼をした《逃がし屋》に迷惑をかけてしまっているのも、仲介してもらった風尾亮真の体内に《虫喰み》を仕込んだことも、《カース・オブ・マイン》の儀式をぶち壊しにすることも、そして無実の少年の命を散らしてしまうことも、悪いことだと理解している。
治部佳乃は人並みの罪悪感を備えている。
けれども、それは彼女の至上命題なのだ。
だから、駄目なのだ。
それは痒みに似ている。
どれだけ耐えて耐えて耐えても絶えずそこにあり、常に存在感を主張し、無視し続ければ狂ってしまうと錯覚する衝動。
───好奇心。
『知りたい』という欲求。
《バガー》になったのも同じ理由だった。《虫喰み》の存在を知ったとき、《クラックワーク》でそれを作れないか、作ったらどうなるのだろうとふと思ってしまった。だから実際に作ってみたら、自らの中で荒れ狂っていた衝動はすーっと引いていき、そして違う衝動がやがて襲い来る。彼女自身にとっても不幸なことに、《虫喰み》は彼女にとって無限に遊べる玩具となってしまった。
儀式核捕食を確かめたら、もう再編局には居られない。留まれば彼女の行為は露見し、そうなれば間違いなく処断される。彼女は明確に“金言集”であるべき社会の敵だ。
県立絡川高校第一校舎屋上、給水塔に陣取って実験開始を宣言する。
「それじゃあごめんね、伊月顕くん。君のこと、忘れないから」
半日を費やして校舎各所に仕込まれた《虫喰み》創造の《クラックワーク》───彼女が呼ぶところの《バグ・バグ・バグ!》が一斉に起動する。
学校中に、獣たちの産声が響きわたった。
◇◇◇
壁にもたれて退屈そうに伏人傳の作業を眺めていた奥入瀬牧。弾かれたように彼方を振り返る。
直後、モビールが《虫喰み》反応を感知して鳴り始める───がなり立てる───響きわたる。
「おいおいおい、何だこりゃあ!」
「《虫喰み》です───イツキの高校!」
行動は迅速だった。
傳はデスクを土足のまま飛び越える。雑然としたデスクから拾い上げた拳銃を、剥き身のままジャケット内ポケットに無造作に突っ込みながら跳躍、ロフトから跳び降りる。先行して出口に突進していた牧の背中に叫ぶ。
「乗れ!」
駆け寄ったのは正面ガラスに近い真紅の一台。傳が運転席に飛び込んだのを見て、彼女は運転席のドアに手をかける。
開かない。鍵がかかっている。
窓ガラスをノックする。降りた窓越しに、
「ちょっと、開けてください」
「調子乗んな、テメエは後部座席だ馬鹿!」
「はあ!? 何ですそのこだわり、今それどころじゃないでしょう!」
「ならテメエが折れるんだな、言っとくけど絶対ェ開けねえぞ!」
「なんて了見の狭い───! 最低ですね、貴方!」
ここでこの男のつまらないこだわりと張り合うのと、イツキの命の危機とでは後者が優先される。言い争いをしていられない緊急事態、牧は歯ぎしりしながら後部座席に乗り込んだ。
「ちんたらしやがって、飛ばすぞ掴まってろ!」
アクセルが力いっぱい踏み込まれる。
シートベルトなし、法定速度もへったくれもあったものではない急発進。ブレーキを踏めば車外に投げ出されるだろうが《クラッカーズ》ならば関係ない。ちょうど開ききったオーバードーン正面ガラスから、赤の車体が飛び出して路面にバウンドした。
◇◇◇
手に取ったビニール傘に“愛用する日本刀のイデア”を貼り付ける。これでこのビニール傘はビニール傘であると同時に日本刀としても機能する。
いつでもどこでも武器を持ち歩くわけにはいかない餌木才一が、最初に覚えた《クラックワーク》だった。
あと彼ができることと言えば、肉体を強化する程度。
それだけで、背後のギプスの後輩を守り抜かなければならない。あの夜に逃げ回るばかりだった彼に戦闘能力は期待できない。
イツキだけではない。才一は治部佳乃の《虫喰み》の狙いを知らない。この学校中の人間全員を守らねばならないと考えると、それだけで絶望しそうになる。
「俺から離れるな───」
イツキに声をかける途中で激しい衝撃に襲われる。
飛翔型の《虫喰み》、その突撃をビニール傘でなんとかいなした。速い、反応するので精一杯だ。
ひた、と窓側から音がする。日光が遮られて薄暗くなる。そちらを視認するより先に勘でとび退ったイツキ、彼のいた場所を破壊が通過した。重機の鉄球が放り込まれたかの如く、校舎の壁が薄紙よりもやすやすと突き破られていた。
壁の穴から覗く《虫喰み》。
これで一対二。自分一人では勝ちの見えない相手ばかりだ。
孤軍奮闘の才一に、できることはそう多くはない。