Curse Of Mine 01/08
九月二十四日、水曜日。
一日前は二十三日であった。
火曜日というだけでは正確ではない。重要なのはその日が秋分の日───国民の祝日であったという事実だ。
オーバードーン奥の客室で目覚めたイツキを、その日待ち受けていたものが二つあった。
一つは伏人傳お手製の朝食。
そしてもう一つは奥入瀬牧による遊びの誘いだ。
朝食についてはまだ分かる。月曜の夜、《虫喰み》狩りに出る前に夕食を用意したのもオーバードーンの家主である傅だった。だが牧に誘われたのは全くの予想外。彼女とそんな俗っぽいイベントがあると思っていなかったイツキは、だから、身構えていたよりも楽しめたことに───失礼かもしれないが、少し拍子抜けすらしたのだった。
だからこそ現在の状況との落差にイツキは心底うんざりしていた。
一日前は祝日であった。
一日後の今日は、平日である。
彼は今、机にかじりついて───抜き打ちの小テストと向かい合っていた。
科目は彼の苦手とする英語。
そういえば───結局、クラッカーズだのクラックワークだのの意味を調べていないな、とイツキは思った。
◇◇◇
餌木才一は迷っていた。
本当にここに居てもいいのだろうか。
“金言集”エージェント、《カース・オブ・マイン》の計画───この街に儀式核を持ち込んでの大改変まで、もう猶予はあまり残されていないはずである。《カース・オブ・マイン》が瓦木市に来訪したのは儀式の大詰めを意味する。入りから数えて猶予は一週間あるかないかで、そのうちの二日を潰してしまっている。
だというのに彼の師匠でありチームのリーダーでもある加賀美条はあっけらかんと「今日はちゃんと登校するんだよ」と告げてきたのだ。
学校くらい一日休んでも構わない。それよりも街の、世界の危機に対処すべき事態のはずだ。昨日の調査は収穫がなかったことも彼を逸らせる原因の一つだった。
無論、彼とて条の言い分は分かっている。一昨日の夜に最も長時間交戦状態にあったのは才一であり、昨日は調査のせいで十分な休養ができたとは言い難い。負荷をかけ続けては《カース・オブ・マイン》との決戦で役に立てないどころか足を引っ張ってしまうおそれもある。それは御免だったから、彼は渋々指示に従っている。
《クラックワーク》行使の負荷を抑えるだけではなく、才一が戦う命題───彼が守りたいと思う日常に一時的にでも帰してやることで鋭気を養って欲しい、そんな条なりの配慮もあったが、それは彼の胸の内に秘められている理由である。
参ったなと思いつつ、とはいえ登校してしまった以上はできることはない。休めと指示されればそれに従うのは才一の素直さ、彼の美徳の一つである。
彼は次の授業の準備をするため、廊下の棚に体操着を取りに行く。
◇◇◇
「で、お前は何でまた来てんだ? ここによ」
「見張りです。貴方が余計なことをしていないかどうか」
「余計なことって何だよ……。何したっていいだろ、俺のセーフハウスだぞ」
ぼやく伏人傳はデスクの上になにやら工作機械類を広げての作業中だ。ノコギリで短く切り取ったパイプの縁にヤスリがけをしているのを見ていると、奥入瀬牧の胸中に疑問が浮かんだ。
「いちいちそんなことをせずとも、《クラック》で済ませれば良いのでは?」
「分かってねえなあ。こういうのは自分の手で作るから楽しいんだろ」
分からないし、分かりたくもなかった。
分からずとも趣味に没頭しているならそれでいい。
「イツキの身元は隠蔽済みなので再編局に知られている心配はありません」
餌木才一───牧よりも先に現着した少年のみは例外だ。才一のみは隠蔽される前のイツキを目撃している可能性はあったが、牧はそれについてさほど心配していなかった。
《虫喰み》との交戦を観察した限り、彼は《クラッカーズ》としてまだまだ未熟。未だ自身の核心を掴めず、固有の《クラックワーク》を掴めてもいないような少年に、あの戦闘の合間を縫ってイツキの素性を調べるだけの能力があったとは考えづらい。
「だから俺を見張りに来たってか。……いや違うな、俺の結界を利用する気だな」
「待ち合わせ場所としてもちょうどいいので。イツキが下校するまで居させてもらっても?」
一昨夜の反省から対《虫喰み》性能が強化された結界下は身を隠すのにはうってつけなのだ。閉め出して結界の強度と彼女の腕力のどちらが強いか、傅は挑戦する気にはならなかった。
肩をすくめる。
「好きにしろよ。茶は出さねえからな」
「そうですか」
◇◇◇
「テスト全然できんかったわー」
「俺もだ」
「俺も」「「嘘つけ」」
宇野はクラス上位をキープしているのはイツキも東大路ももう知っている。平均あたりをぷかぷかしているイツキ、時折沈んではどうにか浮かんでを繰り返す東大路とは違って彼のは韜晦だ。
「イツキは出来てんのかと思ったぜ。てっきりさっさと終わらせてぼーっとしてるもんとばかり」
「ああ、あれは……考え事してて」
隣席の東大路に指摘されてどうにか取り繕う。確かに考え事をしていて集中できていなかったのは事実だが、試験中にそれと分かるほど腑抜けていたというのか。
「なんだ? 恋煩いか?」
今度は取り繕えなかった。
ぎくりと身を強ばらせたイツキに目ざとく食いつく二人。
「なんだマジかお前」
「マジかよ誰だ言ってみ、俺にだけでいいから」
「いやいや宇野、そういうのはそっとしといてやれって。やっとこいつにもそんな子ができたんだから」
「何だお前何様面だ上から目線しやがって、年上気どりか誕生日十一月だろこのヤロー」
「んなことよりイツキの好きな子って誰だマジで」
「こいつ一人だけもう十七だからって『んなこと』とか言いやがった!」
「三人とも次移動教室だよ」
木江歌恋がやいのやいの言っているバカ男子三人組に釘を差す。やいのやいの騒ぎながら視聴覚室へと移動する途中、
「あ、筆箱忘れた」
「好きな子誰か教えたらシャーペン貸してやる」
「うるせ。取ってくるから先行ってろ」
「あーい」
イツキは一人、二階の端にある一年九組の教室まで取って返す。小走りで上級生の教室の前を通り過ぎたとき、
「なあ、俺のも取ってくれー」
「自分で取れよ。まったく……」
聞こえたやりとりに、一拍遅れてイツキの背筋が凍り付いた。
反射的に立ち止まってしまう。確認したい、振り向きたい。落ち着け、目立つ動きをするな、何事もない顔を作れ。靴紐結び直すフリで誤魔化してそのまま歩き去れ。
しゃがみ込んで演技をしようとして、内履きに靴紐はないのに気づいた。
───しまった。
どうしても挙動不審になったイツキの背中に、廊下に並ぶ棚から顔を上げて上級生が声をかけてくる。
「なあ、君」
イツキはその声に聞き覚えがあった。だからパニックになったのだ。
一昨夜に聞いた声。戦いの最中のあの勇ましい声と、日常会話の安穏とした声とで、別人だと思いこみたかった。
餌木才一が、イツキと同じ県立絡川高校の制服を着てそこにいた。
「急いでいるところすまない。ちょっとだけいいか」
「……何ですか。急いでるんすけど」
会話を振り切って逃げ出せば怪しまれるばかりだ。イツキは移動教室中であるのを、脇に抱える教科書でアピールしつつ彼の方を向き直る。
餌木才一が近づいてくる。途中、傘立てに刺さりっぱなしの置き傘をちらと見ると、
「人探しに協力して欲しい。二日前、月曜の夜にどこにいた?」
「いや、普通に家っすけど……」
困惑したていを装う。脳内では思考が駆けめぐり、あの夜に自分の姿を奥入瀬牧が隠していたこと、彼女が名前を呼ばないよう制止したこと、彼女と他の《クラッカーズ》の会話は聞こえずとも剣呑な雰囲気だったことを繋ぐ。
彼ら───ひいては目の前の才一はほぼ間違いなく牧の敵だ。
イツキが彼女を知っていて、核を持っていると知られるのはマズいと判断する。
才一はじっとイツキを見る。“上級生に突然呼び止められてなにやら質問された下級生”の演技を貫き通すイツキに、疑念を抱きはしても確信には至らなかった。
「……そうか。引き留めてすまない」
「あ、いえ。はい」
今すぐオーバードーンに行って牧に相談したい。そう思っても背後の才一がどこまで監視してきているか分からず迂闊な動きはできないから、イツキは教室に戻るのを変えられない。
結論から言えば、イツキは遅きに失した。
最初に足を止めてしまった時点で、極めて運の悪いことに、どうしても間に合わなかった。
学校中に響きわたる獣の咆哮。
イツキも才一も発生源を探す。そして双方が気づいてしまった。
廊下に出ている人間も、教室内に見える人間も、誰一人としてその叫びが“あった”そぶりを見せない。反応しているのは、超常を知覚し得る彼ら二人だけだ。
発生源は、《虫喰み》だった。