ルーキー 14/14
オーバードーンの奥にはこざっぱりとした客室がある。
空跳ぶ奥入瀬牧にお姫様抱っこで連れ帰られたイツキは、一晩はここから出ないように言いつけられた。とはいえ生活スペースは完備されていて、シャワーも済ませた彼はすでにぐっすりと寝入っている。それなりには規則正しい生活習慣の賜物だ。
時刻はすでに二十六時も終わろうかという頃合いなら、高校生には無理もなかろう。ましてやこの月曜日はイベントが盛りだくさん過ぎた。
そのうちの一つ、《虫喰み》の大量発生は終息した。複数回の深探知にも反応がないということで、残存個体はいないと結論づけられた。
「一件落着かね」
「探知、お疲れさまです」
伏人傳は鼻で笑う。
さっきまで通話越しに殺意をぶつけてきていたのはどこのどいつだか。役に立つなら使っておいてやろうという程度の扱いに過ぎないと双方理解しているから上辺だけの言葉が滑る。傳とてそんな言葉のために動いていた訳ではない。
口先だけの労りより必要なのは情報だ。ゴミ捨て場に不法投棄されていた間のことは把握できていない傳は、少しでも得られるものはないか話を振る。
「再編局の連中、どうだった?」
「別にどうも。余計なことを言ってくる前にさっさと離れましたから」
「余計なこと、ねえ。それは一体誰にとって?」
これは彼の習性、悪癖と言い換えてもいい。かさぶたと見ればつい剥いでしまうように、出来物と見ればつい潰してしまうように、言動に瑕疵を見つければつい突いてしまう。人は怒っているときにこそ本心を曝け出すという持論はあれど、考えるより先に口が動くあたり、やはりこれは癖なのだ。
案の定、牧の目元がぴくりと引き攣る。
彼女は敵である再編局に何を言われても揺らぐまい。雑音として処理し、聞き流すから余計なのは彼女にとってではない。
加賀美条の言葉を遮ったのは、誰よりもイツキに聞かせたくなかったから。奥入瀬牧という人物がどういう存在で、これまで何をしてきて、これから何をするつもりなのか。彼女が何者なのか。それを秘していたいが故に、恥じらいから彼らに殺意を向けたのだ。
何という見栄っ張り。なんというエエ格好しい。
そしてそれを敏感に嗅ぎつける伏人傳の嗅覚の、何と鋭敏で貪欲なことか。
「伏人傳。イツキに対して、私のことを語ることを禁じます」
聞いていなかったと言い逃れることを許さない宣告を叩きつける。
───否。これは明白に脅迫だ。
「破れば殺します。今の貴方なら、赤子の手をひねるより容易い」
儀式核をイツキに委譲し、能力的制限を取り払われて万全の彼女は無双の魔人。覚醒したてのルーキーよりも弱まっている傳を始末することは可能だろう。あくまでも実力差の観点から見れば、だが。
「分かったよ」
再編局がぶつけられたのと同質の殺意を真っ向から浴びながら、伏人傳は毛ほども動揺しない。彼女の脅しはあくまで言葉の上でのものであり、実際にはそんなことをしないから? そうではない。彼女の殺意に嘘はない、破れば本当にそうするだろう。
激怒させて露わになった本質がつまり、そういうものだと予想の上だっただけの話だ。
「ずいぶんとまた猫を被ってたもんだ」
イツキはオーバードーンの奥で眠っている。ロフトで話す言葉が彼に聞こえるはずはないが、彼女はそれでもそれをこそ恐怖している。
それ以上喋るな、口すら開くなと視線で警告しているにも関わらず、傳はあっさりとその言葉を吐いた。
「なあ、国際犯罪シンジケート───《クラッカーズ》のための秘密結社───“金言集”の特務エージェント様ともあろう者が、何をそんなにビビってる?」
怒髪天を衝く、という言葉がある。
今の彼女がそれだ。瞬間的に感情を昂らせた牧の自律神経は立毛筋を収縮させる。総身の毛が逆立ったのは純粋な肉体の反応だけではない。感情のみをよすがに発動した無制御状態の《クラックワーク》が、彼女を中心に渦巻く風と成っている。風は空気を運び、奥入瀬牧の怒りを乗せ、オーバードーンのロフトを蔓延していく。
彼女の《クラックワーク》にはいちいち反応しないように調節したはずのモビールが鳴り始める。閾値を超えたのだ。
傳は彼女の力が過去最大規模なのを知りながら大仰に手で扇いでみせた。
「言ってねェーだろイツキには。臭えんだよそれ」
そんな言葉で彼女が止まると思うのだろうか。これ以上減らず口を叩くより早く、この手でその喉を───
「残り香でバレんぞ」
誰に、とは言わずとも分かる。
奥入瀬牧の熱暴走は、その一言だけであっけなく鎮静した。
◇◇◇
伏人傳は「換気する」と宣言すると、修復したものも含めてオーバードーン正面ガラスを全開放した。
どさくさ紛れに追い出された奥入瀬牧は、まだ明けない空の下をとぼとぼと歩いている。
目的地がないわけではなかった。
風尾亮真───“金言集”の下っ端である彼は伊澤渓介だけでなく牧の瓦木市入りもサポートしていた。彼に用意させた拠点に向かうことにした。住所と鍵は、彼がセダンの運転席で爆発四散する前に受け取っていた。彼が何者かに《虫喰み》の胚を運ばされる不手際をしていなければ、今頃はセダンでとっくに拠点入りしていたはずなのに。
そうすればこんなややこしい事態を招くこともなかった。
《クラッカーズ》の拠点は、オーバードーンがそうであるように何らかの手段によって防護されていることがほとんどだ。牧が用意させた拠点も例に漏れず、“知らなければたどり着けない”場所に加工されている。
知っていても、並の人間ならば近づこうと思わないだろうが。
───人気の全くない団地。
寂れた外観が一棟だけ残っているそこが目的地だった。
指定の部屋へと階段を登っていく。部屋番号は三四四───三階のどこか。すぐに見つかった。
何の飾りもキーホルダーもない鍵を鍵穴に挿すと、すんなりと開いた。ノブを引く。蝶番が軋むようなことはない。
牧は淡々と室内を確かめていく。すべて彼女の要望通りに揃っていた。
玄関から真っ直ぐに伸びる廊下には家電類が揃っている。冷蔵庫を確認するとミネラルウォーターとゼリー飲料ばかりずらっと一週間ぶん。洗濯機と乾燥機も備え付けられているが、おそらく使うより先にこの街での用事は済むはずだから確認は後でいい。
廊下つきあたりのドアを入っての一室には飾り気のないベッドと据え付けのクローゼット。中には彼女が今着ているのとまったく同じ服がやはり一週間分、綺麗に並んでいた。ベッドの足下には救急箱が置いてある。
隣室にもシングルベッドが置かれ、そこには彼女が要望した通りに一人の人間が寝かされていた。
髪はすべて剃り上げられ、一見して性別の分からないその人物の口には人工呼吸器が繋がれている。ベッド脇には生命維持装置。そこだけ病院から切り抜かれた光景を眺めて、彼女が思ったのはもう不要だから運び出させないとということだけだった。
自分用の居室に戻り、廊下に抜けながら、彼女は両手の長手袋をその場に脱ぎ捨てる。
洗面所を一瞥もせずにバスルームまで。
ドアを閉めるやいなやコックを回す。温度のない冷水が彼女に降り注ぎ、一瞬で濡れた衣類は身体に張りついてボディラインを露わにする。
ラックに並ぶ剃刀を一つ手に取る。左手首に押し当てると一息に引く。何十回も繰り返して手慣れた、躊躇などありはしない動作だった。
赤が迸る。
無数の傷跡に上書きされた最新の裂傷から自分の命と呪いが流れ出してゆくのを感じながら、奥入瀬牧は熱持つ身体を冷やすためにシャワーを流し続ける。