ルーキー 12/14
きろ、と牧の淀んだ瞳が再編局エージェントたちを向く。
それを六の瞳がにらみ返す。
怪物は死んでも、誰一人として臨戦態勢を解かない。牧の右腕には血色の籠手がその存在感を示し、条は抜刀したままだ。励威士も鎖を手放さず、才一も、どうあれ即応できるようには身構えている。
……ふいと彼女の側から視線が切られる。興味を失ったように踵を返して、右手首に籠手が逆再生のように戻っていく。その背に条が言葉を投げかける。
「───これは、きみの仕業じゃないのか」
「違うわ」
最低限の応答だ。弁明も釈明もない、疑われても構わないという事実だけを告げる一言。嘘かどうか判断しようにも、この場で真偽看破の《クラックワーク》を組み上げる行為は、隙となる。
彼女の眼中に自分たちが入っていないことを幸運と思わねばならないことを悔やんでも、彼らには彼らの使命があった。せめて一言意地を通そうと、
「絶対に止めてみせる。きみの───」
「黙れ。それ以上、口を開くな」
奥入瀬牧が振り向いていた。視線だけで人が殺せるなら三人まとめて百回殺せそうな、純粋な想念に呼吸を奪われる。何かが彼女の逆鱗に触れたらしいが、一体なにが。圧し潰されそうなプレッシャーの中で彼女を観察して始めて、このやりとりが夜闇を隔てた少年に届かないよう《クラックワーク》が働いていることに気づく。
彼女が誰かを庇っているのは知っていた。本来であれば彼女が奥入瀬牧とバレないよう自分自身を認識阻害するのが定石なのに、それをかなぐり捨ててまで身元を隠すほどの存在。それ即ち、奥入瀬牧にとっての急所を意味する。
……結局、彼らは牧がその誰かを抱え上げて彼方へ跳び去るまで手出しできなかった。
彼ら全員が分かっていた。チームが揃っていないまま、あの実力底知れぬ《クラッカーズ》を相手取るのは危険すぎると。
「……師匠、あの」
「聞きたいことは山ほどあるだろう。ちゃんと全部説明するが、しかしその前に」
ぱちんと納刀すると、彼はその手で才一の髪をわしゃわしゃと可愛がる。
「ちょ、師匠」
「よく無事だったな。……なんだきみ、ワックスなんか付けて」
手がベタベタになった条も、セットした髪型をぐしゃぐしゃにされた才一も、等しく釈然としない。励威士は二人のやりとりを至極どうでも良さそうに眺めながらスマートフォンを確認する。
「条さん、杜月からっす。《虫喰み》反応根絶とのことで」
「そうか。じゃあ一旦戻ろう。治部くんにも共有しておきたい」
「はい!」
「うっす」
再編局もまた去っていく。
井澤渓介はそれを屋上から眺め、空間転移で一瞬のうちに姿を消す。
そして伏人傳は、どことも知れぬゴミ捨て場に逆さまにひっくり返っていた。
◇◇◇
「再編局───いや違う、お前、その眼」
闇に燈る黄が一つ消えて、二つに戻る。
「そいつはお前、“硫黄の”───」
「分かってんならそれ以上は野暮ってもんだぜ。で、どうする?」
井澤渓介は黙って逃走準備を開始する。空間転移に追跡妨害用の攪乱を噛ませたコンビネーション。二個並列で構築する。転移先は他県のセーフハウスと、この街に確保した座標の二カ所だ。セーフハウスを経由してこの街に帰ってくれば、追跡妨害も組み込んだ《逃がし屋》の尻尾は掴めなくなる。よしんば転移先を割り出せてもそのころには当の渓介本人はとっくに姿を隠した後という寸法だ。
音のない発砲は複数回。
人間の反射神経では対応できない銃弾を、渓介は慣れた空間転移で迎え撃つ。一メートルだけ後方、ズラすようにワープさせることでかい潜る。
閃光のような激痛が脳をかき乱した。
《クラックワーク》の負荷だ。世界を書き換えるという無茶に応じたダメージは普通の行使からして付き物だが、それにしても大きすぎる。弾除けのショートワープ程度でここまでの負荷を受けるはずはなく、それはつまり敵の仕業を意味する。軽い《クラックワーク》で済ませてよかった、と渓介は内心で安堵していた。ベクトルも返して反撃する“矢返し”などを使っていれば、負荷に耐えきれず行使自体が破綻していたかもしれない。現に構築していた長距離転移が一つ潰されている。
おそらく銃弾。触れた《クラックワーク》に負荷を加えるようになっているとすれば、渓介のように《クラックワーク》で防御するのは致命打となりうる。防御そのものを破るのではなく、防御しようとする《クラッカーズ》を直接殴りつけるような悪性の一矢。
次いでバラ撒かれた銃弾の雨を、肉体性能を向上させて回避していく。触れなければ負荷が増大することもないのだから、これが正しい対処法だ。
初撃、第二波と凌ぎ、《逃がし屋》が逃走用《クラックワーク》を完成させた。ほっと息をついた瞬間の隙を衝くように、伏人傳が左手を結ぶ。
刀印。
無造作に乱射していたように見えた銃弾、そのうちの九発。弾丸の側面に刻まれた印が楔の役割を果たすようになっている。それらの位置を結んで脳内に魔法陣を構築し、内部にいた渓介は逃れる間もなく術に囚われた。
身構える。───何も起きない。
傳がニヤリ笑った。
カチャカチャとマガジンを入れ替え始める。魔法陣の楔を代用できる特殊弾倉から、ただ人を殺傷せしめるだけの通常弾倉へ。目印はマガジンに鮮やかに描かれたマークだ。彼らしからぬ、せせこましい工夫だった。《クラッカーズ》には銃弾そのものを創造し無尽蔵の装弾数を実現する者が多い。伏人傳も本来はそうなのだが、弱体化している現在ではそんな贅沢はできないのだ。
渓介は彼の様子を観察しつつ、そこでようやっと違和感を持てた。
───なぜ俺は、何もせずに待っている?
彼は逃げよう、逃げようとばかり考えていた。傳が攻撃を止めたのだから、逃走用《クラックワーク》を発動してこの場を後にすればそれでいいはずなのに、どうしてぼけっと棒立ちしているのか。
それこそが伏人傳が発動した魔術の効果、“逃走行為の禁止”。陣の中から離れようと思うことすら封じるそれが、井澤渓介の思考をまるごと消し去っていた。なぜなら彼はその瞬間、どうやって逃げるかしか考えていなかったから。
そうなれば呆然と立ち尽くすばかり。
仮に自分の思考が封鎖されていると気づいたとしても、それを再開することすらできない。
伏人傳の失策は、だからさっさと決着をつけなかったことだ。
陣から出られない渓介をまず数発撃って抵抗できないようにすべきだった。そうしなかったのは、魔術要素を刻み込んだ銃弾が残り僅かで節約しようとしてのこと。そして、この場で負けても最終的には勝利すればよいという、勝ち負けへの執念の薄さという彼の悪癖ゆえだった。
《逃がし屋》が先ほど組み上げて使えずにいた逃走用《クラックワーク》を発動する。
対象は自分自身ではない。そうしようと思うことは、魔術によって禁じられている。
伏人傳が拳銃を構え直す。
その彼が一瞬でかき消えた。
逃げるために使わなければ、《クラックワーク》を行使すること自体は禁じられていない。空間を超えて、伏人傳が瓦木市内のとある座標に放逐されたことで、発動中の魔術は術者不在で解除された。