ルーキー 10/14
「《虫喰み》───追われてるってそういうことかよ、クソッ!」
渓介は手癖の《クラックワーク》───どちらかの手に触れている対象を視界内の任意の地点に空間転移させる───を発動すると、イツキを《虫喰み》から遠ざけるように飛ばす。次いで自分にも同じものを施し、手頃なビルの屋上へと空間跳躍してすぐに身を隠した。
ちょっとした災難に巻き込まれた少年をカッコよく手助けしてやろうくらいの腹積もりだった渓介に、《虫喰み》と戦うほどの気概はなかった。ましてや平均的サイズならともかく、イツキを追っていたのはとてもそんなレベルではないのだ。
牧が撲殺した個体も、餌木才一が斬滅した個体も、これと比較すればなるほど子個体といえよう。体構造は二体と相似だが、路地からあふれ出した偉容はマイクロバスほどもあるだろうか。触腕の太さも長さも量も子のそれを凌駕しており、触腕の生えていない部分には鱗のような構造体がびっちりと生えている。
《虫喰み》が這い回る間に鱗の一枚が脱落すると、みるみるうちに肉厚になってゆく。やがて種のように割れたそれからにゅるりと出てきたのは《虫喰み》の子個体だった。
全身に生える鱗のすべてから《虫喰み》が出てくるとすれば、その数はどれほどだろうか。今しがた抜けた痕からも新しい鱗の萌芽が見える以上、現在の枚数など意味をなさず無限の生成すら可能とすれば、それは単体で人類を生態系の頂点から引きずりおろしてしまえるだけの存在だった。
増殖を続けていく生態に辟易を隠さず、渓介は屋上から顔だけを覗かせて状況を伺う。《虫喰み》が狙いをつけているのは少年であり、渓介ではない。イツキが依頼人なら全力で彼を助け逃がすつもりだが、生憎とそうでない現状はこれ以上深く拘う気は毛頭なかった。空間操作を得意とする彼はだからちょっと空間跳躍してこの場を後にすればいいはずなのにそうできない。
イツキは《逃がし屋》井澤渓介と接触を持ってしまった。
人相と《クラッカーズ》である事実を知られている以上放置はできない。せめて先ほどかけた記憶操作が有効になっているかどうかだけ確認したい。最悪の場合はイツキが《虫喰み》に殺されることで存在の隠蔽を図るほかなく、不用意に関わったのを後悔している渓介だった。
彼の視線の先、イツキを見つけ、今度こそバラバラにしてやろうと迫る《虫喰み》が苦悶にうち震えた。
餌木才一の振るう真剣が街頭に反射してキラリ閃く。子個体にも苦戦した彼が単独で親個体を討伐できるとは彼自身思っていない。それでも誰かが襲われるくらいなら自分が食い止めると覚悟して、自分を鼓舞するために見得を切る。
「ここで消してやる、再編局の名にかけて!」
狩りを邪魔された怒りに触腕が雪崩をうって襲いかかる。それを刀一本で凌ぐ。───凌ぎきれない。見る間に傷だらけになる才一。辛うじて致命傷だけは避けられているが、あれでは遅かれ早かれくたばるのは見えている。彼一人であるならば、という仮定の上でだが。
再編局の強みはネットワークだ。才一は必ず志を共にするエージェントと繋がっており、彼を死なせまいと仲間が駆けつけてくるのは想像に難くない。彼らは多少の差異こそあれ、基本的には同じ命題を掲げているから。
《逃がし屋》も別のネットワークに属してはいるが、そちらは相互に利用するだけの関係性だ。利用し、使い捨て、騙し、裏切り、自分の利にさえ繋がれば他者などどうでもよい浅ましい連中の集まり。加勢も助力も期待できはしない。
だからこそ状況は最悪だった。再編局と渓介の属するネットワークは敵同士であり、才一を助けに来るであろう再編局エージェントに見つかれば彼の仕事は難しくなる。ここに留まっているのは危険極まりないが、さりとてイツキと才一の関係が見えず、二人が情報交換でもするような関係性ならばそこから渓介の存在が露見しかねない。
八方塞がり、どうしようもない。祈るように状況を観察していると、どうやら二人とも互いを知らないように見えた。相手の存在には気づき、意識しつつ素性を掴めないから近づかないといった空気。無関係か敵対かなら、あとはイツキが渓介のことを忘れさえすれば───
「よう。お前が《逃がし屋》か?」
背後から呼ばわる声に振り向くと、屋上の反対側に一人の青年がいた。
マフラーがはためく。
「悪ィんだけど選んでくれるか。この街から一人で逃げるか、それともここで終わるか」
夜の黒に、硫黄色の瞳が煌々と燃える。
◇◇◇
どうすればいいのか。
イツキには分からなかった。
名も知らぬ少女に導かれるまま《虫喰み》から逃げて、少女が消えてからてんやわんやしている間に誰か《才一》が《虫喰み》と戦闘を始めてしまった。彼は誰だろう。イツキはここに留まるべきなのか、それとも逃げた方がいいのか。
才一が叫んだ“再編局”という名詞の意味が分からない。彼が何者なのか分からない。《虫喰み》と戦っているから悪い人ではないのだろうが。
何も分からない。
───鳴き声は、才一と親個体の戦いとは別方向から聞こえた。
親個体。そう、親個体だ。再編局のルーキーが戦っているそれは戦闘の猛りの中で鱗をばらまき、そこから生まれ落ちた子個体たちはあっという間に成長してイツキよりも大きくなっている。
襲いかかられれば、また心臓を一突きで終わりだ。
どうしようもない。
少女の声も聞こえない。
聞こえるのは風切り音ばかり。
夜の黒より飛来した奥入瀬牧が、その勢いのままに《虫喰み》子個体に膝蹴りを入れる。運動エネルギーをまるまる押し付けられて爆散した子個体を後目に、彼女はイツキの横に着地する。