ルーキー 09/14
導かれるまま夜の街を馳せる。
イツキの先を走る少女に名前を聞こうなどという余裕はない。背後に死の───イツキを追う《虫喰み》の気配を感じるからだ。
運動部に入らなかったことを後悔する。せめて体育の授業だけでも真面目に走って体力作りをしておくんだった。奥入瀬牧を探した木曜日も、《虫喰み》から逃げた先刻も、最近は走ってばかりだ。
九月下旬、夏は去りつつあった。日中は雨がちで気温が上がらず、そうこうしているうちに日が隠れてともすれば肌寒ささえ覚える。とはいえイツキはそうも言っていられない。走り通しで汗だくだというのに、少女は一粒たりとも汗を見せていなかった。
作り物めいている。
彼女と似た気配には覚えがある。牧や伏人傳が纏うそれだ。世界がアタリマエと押しつけてくる描写をやり過ごすような二人に対して、少女はもっと濃密な、世界のアタリマエを無視する異物感を感じる。彼女だけ拡張現実のようなのだ。
同道する少女に現実感がないと、今この瞬間すら夢のように思えてくる。
大丈夫、と思えてくる。
確信している。この状況、夢みたいにふわふわしたイマを、何もかも見透かしたような傳や、何を捨て置いても儀式核を守ろうとした牧が気づいていないはずがない。あの二人は必ず気づいて、今にも向かってきているはずだ。
───こっちよ、イツキくん。ここまで来ればひとまず大丈夫。
少女はそう言って、細い路地から飛び出すと通りの柵に腰掛ける。片側二車線の表通りには車通りもあり、イツキはようやっと現実に戻ってきたような気分になりながら路地を抜け、少女のところへ飛び出してスーツの男性に体当たりしてしまった。
「うわっ!?」
「お、何だぁっ!?」
ダークスーツの壮年は片手でキャリーケースを引き、もう片手でイツキを受け止めていた。彼のとっさの反応がなければ、彼かイツキかどちらかは怪我をしていただろう。
イツキには死角だった。しかし少女からなら見えていたはずで、にも関わらず彼女は走ってくるイツキを制止しなかった意図を訊ねようと振り返る。
少女は跡形もなくいなくなっていた。
雨に消えた牧と同じ、影も形もない。
魔術や《クラッカーズ》、《虫喰み》などの超常を知ったイツキには、今更神出鬼没なこと自体は驚くほどのことではない。ただ疑問は残り続ける。
なぜここに導いたのか。
なぜこの男性と鉢合わせさせたのか。
なぜ姿を隠すのか。
なぜ───
ぐるぐると疑問が頭の中で渦を巻くが、考え込んでいる暇はない。衝突してしまった男性にもきちんとした謝罪がしたいが、《虫喰み》はこの瞬間もイツキを追いかけてきている。いくら少女が大丈夫と言ったとて悠長にしていられるとは考えられなかった。
「ごめんなさいっ」
一言、短く謝るだけ謝って走り出す。手を取られた。彼からすれば何がなんだか分からないので引き留めるのは妥当な行動である。この時間に歩いていたら学生服の男子が路地から飛び出してきてぶつかり、困惑した顔で周囲を見渡し、怯えて後ろを振り向いて、謝って走って逃げようとしたのだ。腕にはギプスあり、容貌はこれでもかというくらい整っている。どう見てもワケアリだ。
そして男性───井澤渓介は、そういうシチュエーションをこそ見逃せない気質だった。
だから彼は《クラッカーズ》になったのだから。
「離してくれっ、急がないと」
「大丈夫だ、悪いようにはしないから」
彼は素早く《クラックワーク》を組み上げる。イツキが“最も安全だ”と思う場所を指定した空間転移と、渓介にまつわる一連の記憶をボカす精神干渉のコンビネーション。《逃がし屋》と呼ばれる男の真骨頂であり、逃げたがっている誰かを見ての後先考えないお節介でもある。
渓介の想定通りに作用すれば、イツキはいつの間にか自宅ベッドに寝転がって天井を見上げていたはずだった。どうやって帰宅したのかも不思議と疑問に思わず、やがて自然と記憶が補完されるというのが想定していた流れだった。仮に渓介が想定した通りにイツキがイジメやカツアゲから逃げていただけだったら、そうなるだけの精度がある《クラックワーク》だった。
だが、そうはならなかった。
《虫喰み》に追われている最中のイツキが思い浮かべる安全な場所とは、つまり奥入瀬牧のいるであろう場所であり、オーバードーンだった。まさに渓介のような輩の干渉を拒絶するための結界はこんなときばっかり有効に機能し、転移先の位置座標取得を妨げる。《クラックワーク》は不発となり、現実を変えるはずだったエネルギーは行き場を失って暴発、渓介とイツキの間に弾けた。
「なッ、失敗───!?」
「あんた、《クラッカーズ》か!?」
イツキがそう訊ねてしまったのは無理のない話だが、迂闊だったのも事実である。イツキの事情を知らず混乱の渦中にあった渓介はその一言でイツキが《クラッカーズ》を知っていることを知ってしまった。その単語を知っている者は、当の《クラッカーズ》か、《クラッカーズ》に庇護される関係者くらいのものだ。どちらにせよ当初の想定からすれば厄介事としての規模は桁違いであり、ちょっとした人助け程度の気分で首を突っ込むには重すぎる。
イツキの背後で、何かをひっくり返すような音が響いた。
路地に置いてあったポリバケツが中身ごと飛来し表通りにぶち撒けられる。暴虐の元凶たる《虫喰み》がその後に続いてのっそりと路地から這いだしてきた。