ルーキー 08/14
ところ変わってオーバードーン二階。
伏人傳が出陣するとは夢にも思わなかったイツキは、一人ぽつんと取り残されている。
スマートフォンが圏外だと明確に暇を持て余す。何か暇つぶしになるものはないかと、ロフトを見て回ることにした。
入り口側を仮に南と考えると、北西から一階へと降りる幅広の階段が伸びている。上がって右にはドアがあるが鍵がかかっている。「STAFF ONLY」とドアにプレートがついているあたりバックヤードだろうか。
階段から上がってすぐの北東には受付のように二メートル以上ある木製デスクが鎮座しているが、その上は全く片づいておらずガラクタで雑然としていた。煙草の箱、何を象っているか分からない像、紙束は積もって地層を形成しており、DIYで使うような工作機械まで転がっている。輪切りになったパイプはいったい何に使うのだろう? 魔術の実演で使ったゴムボールがあるのもここで、手にとって見てもやはり宙に浮くとは思えない。イツキは八十九回転にチャレンジしてみようかと思ったが、利き手はギプスなので諦めることにした。代わりに煙草の箱を手に取る。知らない銘柄だと思ったら、ラベルがおそらくロシア語だった。デスクに戻す。
レトロ趣味なのか、黒電話とレコードプレイヤーまで置いてある。回転しているレコードに針を落としてみる。流れ出したのは聞くに耐えない不協和音で、イツキは余計なことをしたと針を上げた。
ロフト中央にはしばし何もないスペースが続く。床面の日焼け具合から見るに、ここにはかつて三人掛け程度の丸机と椅子が並んでいたと思われる。今ではとっぱらわれてがらんと開けている。
南に進むと膝の高さのガラステーブルと、囲むようなソファーが配置されている。ここだけ切り取ってみれば、今でもカーディーラーにある商談スペースと言われても疑いはすまい。
さらに南、ロフトの端にはのんきに揺れるハンモックと天井から吊り下げられたモビール。ハンモックの端にたぐまってひっかかっているタオルケットを見るに、傳は夜はここで寝ているのだろうか。そんなことはないと思いたかった。きっとソファーの方を使っているに違いない。
ハンモックに腰かけてモビールを眺める。───静かだ。外はどうなっているのだろう。また雨が降っているのだろうか。それとも晴れたのか。傳は、奥入瀬牧は、《虫喰み》は。今は何時なのだろう。ここには時計がない。スマートフォンを取り出せば分かるが、……疲れた。
秒針の音もなく、モビールも鳴らず、物音一つない静寂に包まれて。イツキはうつらうつらとし始めた。
───イツキくん。
急に声をかけられたイツキは危うくハンモックから転がり落ちるところだった。バクバクと心臓を跳ねさせながら声の主を探す。
そこに、少女がいた。
セーラー服に身を包んでいる。イツキの通う県立絡川高校の女子用の制服だ。リボンの色で学年が分かるようになっている。同学年のはずだ。入れ違いで卒業した三個上とは思えない。
見覚えはないように思えた。断言できないのは、イツキが同学年に興味がなく人の顔をあまり覚えていないのと、そのくせ彼女に妙な既視感を覚えたからだ。
───ここに居ちゃダメ。ここは安全じゃないわ。
家主《傅》は出がけに「ここには結界がある。こん中なら見つからないから、俺たちが帰ってくるまで出るな」と念押ししていた。彼と少女、どちらを信じるべきか。イツキははかりかねていた。何故って、どちらも怪しい。
イツキが内心でどちらにも微妙に辛辣なことを考えて逡巡していると、
りぃぃぃぃん、りぃぃぃぃん。
モビールが鳴り始める。どこかで誰かがモビールに反応するほどの《クラックワーク》を行使したのだ。傳はこのアーティファクトの詳細な説明を省いていたが、音だけで不安感をかき立てるには十二分だった。
少女がどこから現れたかは定かでないが、彼女が進入できるような結界は頼りにするには心許ない。
イツキは決意する。
「分かった。どこに行けばいい?」
───こっち。急いで。
彼女は嘘をついていないし、それ以上に害意を感じなかった。
階段を下りて正面玄関ではなく、施錠されたバックヤードへと導く少女。そちらはさっき確かに鍵がかかっていたはずと思う間もなく彼女がノブを握ると、がチャリとドアが開いた。
───行こう。
つべこべ聞いている暇はない。イツキはバックヤードに飛び込んでいく。
……開いたドアの施錠機構が、ちょうど少女がひねった瞬間に、偶然にも経年劣化で破損したのにイツキは気づかなかった。
◇◇◇
「それで、伏人傳。弁明は?」
『いやアないわ。これについては一から十まで俺の落ち度だ』
オーバードーンの正面ガラスが一枚まるまる粉々に砕け散っている。破片の散らばり具合からすると外から屋内に向けての衝撃によるもの。常識的に考えれば道行く自動車が突っ込んだように見えるが、オーバードーンを取り巻く結界街は無人だ。不慮の事故を起こす通行などありはしない。
これが《虫喰み》の親個体の仕業だと、探知術式の反応をたよりに駆けつけた奥入瀬牧は知っていた。
ガラス片を踏みしだいて店内に入り一階を睥睨する。その瞳は憤怒に燃え、頬は感情の昂りをあらわすように紅潮している。もし目の前に伏人傳がいれば、顔面に一発拳をブチ込みかねない気迫があった。
「落ち度はどうでもいいですが、万一イツキの身に危険が及んでいたときは」
通信しながら無意識に拳を握っていた。つい数分前まで《虫喰み》の子個体を殴り潰していた拳である。貧弱な《クラックワーク》しか使えない今の伏人傳が全力の一撃を叩き込まれれば、おそらく命中した部位はどこであれ弾けて貫通するであろう。
そしてそうするだけの瞬間は近付いて来つつあった。
「代償を支払ってもらいます」
『わーってるって。俺だってイツキに死なれちゃ困る』
通信機越しの言葉に違和感を覚える。伏人傳にはイツキを助ける理由はないはずだ。
『俺のせいで儀式失敗したらオメー、チクるだろ』
彼女は納得した。
傳が言っているのは奥入瀬牧の上司、名を轟木懸という男だ。彼が傳に深い恨みを抱き、目撃したら直ちに報告するよう厳命しているのは牧もよく知っている。彼こそは、牧に儀式核を授けた人物だからだ。
にも関わらず、彼女は傳が瓦木市にいることを報告していない。《虫喰み》に追われてそれどころではなかった期間はともかく、万全の状態の今も黙っているのは怠慢か、あるいは背信とされても仕方のない行為である。
決して傳を庇っているわけではない。超高位の《クラッカーズ》である懸が傳を追ってこの街に来たとして、傳を発見して攻撃を加えたとして、予定されている儀式に配慮して影響が出ないように手加減してくれるとは到底思えなかった。一切気にせず街ごと傳を消すような真似ができてしまうのが彼である以上、牧には報告をしない理由があった。
そしてそれはつまり、儀式が失敗すれば傳の所在を隠す理由はなくなるということを意味している。失敗の原因に傳が関わっていれば、腹いせに報告することは十分に考えられた。
道理は通っている。信用はならないが、儀式の成立までは利害が一致していると判断した。
「ではそうならないよう働いてください。ついては傳、貴方は《虫喰み》の排除をお願いします。私はイツキの元へ」
『はいよ』