ルーキー 07/14
───餌木才一の混乱から少し時を遡って。
「太陽の視座とはいかねぇが、ここからならよく見える」
長いマフラーが、夜風と呼ぶには強すぎる風になびくここは地上百メートル。
現在地、タワークレーンのジブ先端。工事中のマンションにそそり立つソレは人が登るような場所ではなく、足を滑らせれば地面まで真っ逆様に墜落して絶命間違いなし。命綱も何もない生身で至るなど正気の沙汰ではないが、それはあくまで常人に限った話だ。
彼は展望台から下界を見下ろしている。その瞳に恐怖の色はこれっぽっちもない。爛々と燃える硫黄色の瞳は瓦木市に散在する《虫喰み》を睥睨する。
耳にはめたデバイスに指を添える。
「あー、テステス。こちら伏人傳、どうぞ」
『……もしもし』
「もしもしは要らねえよ、電話じゃねえんだ。喋る前と後ろに『どうぞ』って付けろ」
『前は不要でしょう。私を担いでいますね、伏人傳。どうぞ』
「律儀なやっちゃな。通信良好。探知は有効か?」
偉そうに講釈を垂れながら、自分は全く遵守しない。そういう男だと諦めて通話向こうの奥入瀬牧はコンパス型に調節された魔術機構を取り出していた。
針がぐるっと一周、北ではない何処かを指し示す。
『……ええ、はい。《虫喰み》反応の観測に成功。どういう術理でしょうか』
「懇切丁寧に説明したってもいいけど……賭けてもいいけど、お前、飽きるぞ」
『そうですね。口に出しはしましたがさしたる興味もありません』
「んなこったろーと思ったぜ」
益体もない話をしながら傳はジャケット内ポケットの拳銃を抜く。H&K USPの黒い銃身はモデルガンのように見える。
マガジンを確認するとセット。
最大有効射程を考えるとここから狙っても何にも届くまい。狙撃を試みるならアサルトライフルでも持ち出すべき高度だが、彼は既に強化視力で《虫喰み》に狙いを定めている。
一体目、三百メートル超の距離がある《虫喰み》に照準を合わせながら、傳は通信機に声をかける。
「そうだ、いっちょ競争でもしてみるか? 俺とお前、どっちが多く《虫喰み》を狩れるか」
無線機からの応答を待つ。一向に返事が返ってこないので訝しんで見てみれば、通信はとっくに切断されていた。
ふっ。
強風の中で噴き出した息はやがて風に負けないほどの哄笑となった。
「そうだよなぁ、そんなのどうでもいいよな! かわいい可愛いイツキが待ってんだ、さっさと片づけて帰りたいよなぁ!」
発作のように笑い出して、発作がやんだように笑いを引っ込める。後には渇望に煌々と瞳を燃やす、無表情の伏人傳が仁王立ちしている。
「分かったよ、悪かった。それじゃあ始めようか───前夜祭だ」
銃声が闇に劈く。
瞬間、世界から《虫喰み》の反応が一つ途絶した。
◇◇◇
───伏人傳の発砲と同刻。
瓦木市西区の上柄東駅。真向かいにあるビルの正面ドアから、男性が一人出てきた。ダークカラーのスーツに身を包み、キャリーケースを引いているさまはいかにも出張してきたビジネスマンといった風体である。
いかにも不機嫌そうに周囲をぐるっと見渡すと、凝った肩の筋肉をほぐすように腕をまわす。
男性はビル二階に入っているカフェで人を待ち続けること三時間半、ついに待ちぼうけをくらったと諦めたところである。連絡が通じないままついにカフェの営業時間が終了して追い出されてしまったのである。値段のわりにボリュームの足りない小綺麗なクラブハウスサンドイッチで夕食を済ませざるを得なかった恨みもある。彼は約束相手に会ったら一発殴ると決意した。
約束が果たされることはないと男性───井澤渓介はまだ知らない。
彼の待ち人は、名前を風尾亮真という青年である。彼はタイムリーな人物と言えよう。本日正午、上柄東駅前で爆発炎上したセダンの運転手こそが、外ならぬ彼であるのだから。
セダンの運転手の身分を証明できるものは現場に遺留されておらず、風尾亮真がそうだと明らかになる情報はない。おまけに渓介が上柄東駅に着いたときにはあたりはだいぶ暗くなっていたし、火事はその時点で鎮火していた。もし彼がニュースをこまめに確認する性分であれば、サポーターの音信不通と今いる駅で起きた事件と、点と点を繋げられたかもしれない。だが彼は待ち時間のために文庫小説を持ち込んでいた。気づけなかったのも無理のない話だ。
先ほどまで読んでいた小説の一節を思い出す。
「『やれやれ、ひよっこが舐めた真似してくれるじゃねえか』……なーんて」
口に出してから自分のキャラじゃないなとほんのり赤面する。
そもそも状況にもそぐわない。亮真は別にルーキーでも何でもない、サポーターとしては経験豊富な男なのだから。
久しぶりの大仕事に浮かれているのかもしれない、と反省する。なにせ渓介が《クラッカーズ》として働くのは三ヶ月ぶりなのだから。