ルーキー 01/14
十二本の触腕が迫る。それは怪物───《虫喰み》が、胴体を支えるのに必要なもの以外すべてを攻撃につぎ込んだことを意味していた。
一本残らずイツキ狙い。もしも彼一人であったなら、彼は鋭利な先端に貫かれて十二の孔が開いてから気づき、同時に絶命していただろう。奥入瀬牧が割って入って庇おうとも、華奢な女性の身体など諸共に貫通する必殺の刺突のはずだった。
普通なら、そのはずだったのだ。
牧は表情を変えることなく、淡々と左右の手の甲で触腕を弾きながら前進し、《虫喰み》に肉薄した。
人間に対してであれば水月に抉りこむような角度で放たれた右の拳はぶよぶよとした肉に突き刺さる。衝撃はAPHE弾のように怪物の胴体を食い破り、怪物の中心で炸裂して黄色の体液をぶち撒けさせた。
怪物が果たして尋常な生物と同様の構造をしているかは甚だ疑問ではあるが、その腸のすべてをかき混ぜて残らず破壊してしまえば関係ないと言うような、純粋な破壊を意図した一撃。事実、《虫喰み》の触腕は戦慄き、痙攣して命の灯火の終わりが近いことを示していた。
だが、まだ消えてはいない。
怪物は自分より奥入瀬牧の方が強いことを認め、しかし逃げる選択をしなかった。命が絶えるその一瞬で、悪足掻きとばかりに複数の触腕を束ね一本の太い触腕と成した。これならば軽々しく弾けはしまい。
胴に右拳が突き刺さったままの牧めがけて振り下ろす。
閃いたのは左の手刀。根本から伐採された触腕の束は道路の反対側まで飛んでゆき───
地面に落ちるより先に、牧の膝蹴りが今度こそ完膚なきまでに《虫喰み》を粉砕した。
すべては一瞬の交錯。
路肩に下ろされたイツキが立ち上がり、そちらを向いたときにはカタがついていた。
彼が何か言うより早く、牧が彼の左手を握ると走り出す。
「こちらです」
先刻見せた身体能力からすれば彼女の全速力には程遠い。イツキはペースを合わせてもらっていることを察しながら、牧に手を引かれるままオーバードーンへとんぼ返りすることとなった。
───着いたら、絶対に話を聞こうと決心する。
あの怪物のこと、奥入瀬牧の腕と超人じみた動きのこと、そして自分自身に起きた奇跡のこと。
もう部外者ではない。命懸けの戦いの当事者なのだから。
◇◇◇
いつ雨が止んだのか、イツキは気づかなかった。
運動不足のイツキが息を切らしてオーバードーンに戻ると、伏人傳はハンモックで居眠りをしている。
「……んが、ああ、おう」
前後不覚の彼のもごもごとした挨拶をスルーしてソファーにどっかと腰を下ろす。奥入瀬牧はロフトの手すりにもたれかかって、冷ややかな視線を傳に向けている。
モビールがうるさく鳴り続けている中でよく寝られるものだと呆れる。傳にしても騒々《そうぞう》しかったのか、身を起こすとあれやこれやいじっては鳴らないように調節していた。
振り返ったときには、眠気はもう彼の顔から去っていた。
「何だ、何か言いたそうだな」
「言いたいことは山ほどあるけど、そうだな、まずは」
イツキは傳と牧の両者に向き直る。
「あんたらは、何なんだ。一体何をして、何ができるんだ」
最優先で聞かなければならない点はそこだろう。
事態は完全にイツキを巻き込んで進行している。もっと早くに訊ねて然るべき問いとすら言えよう。この期に及んで『一晩考えさせてくれ』という逃げは通用しないと理解しているからこそ踏み込んだイツキに、牧の気配が怯んだ。
思い返せば二人とも、イツキの常識の埒外にあった。怪物を相手取って一秒の間に屠った奥入瀬牧は勿論のこと、伏人傳だって只者ではありえない。
───イツキが、右腕を失った牧を抱えてオーバードーンに転がり込んだとき。傳は彼女を見ると何も聞かず一つ頷き、左手一本で彼女を持ち上げるとそのまま三十五リットルのゴミ袋をそうするように軽々と放り投げたのだ。一階から二階まで飛んでいった彼女はハンモックに落下して意識を取り戻したので、イツキはその件を錯覚かトリックと思いこむことで追及をひとまず後回しにし、牧の方を優先した。だが、イツキはもう自分を誤魔化すのは限界だ。
傳がちらと牧に確認の視線を送る。彼女は頷いた。
「何ができるって言われると、俺たちは何でもできる」
イツキは絶句する。
この男は何を言っているんだろうと思ったからではない。
この男は何一つ嘘をついていないと分かるからだ。
嘘ではないということは彼はそう信じているということで、つまり考えられるパターンは二つ。この男が心底から狂っているか、あるいはこの世界が狂っているかだ。
助けを乞うイツキの視線を受けて、牧はまたしても頷いた。
救いがたいことに、どうやら後者らしかった。